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 秋も終わり、空は冬の色に沈むように変わっていた。陽光は薄く、冷気だけが肌を刺す。肌着とズボン下などの装備を納めにきた青司とリオナは王城第三騎士団の応接室で対応を待っていた。


「遅くなって済まなんだな」

 そう言って現れたのは、第三騎士団長オズワルド侯爵。後に続いて副隊長レオンが応接室に入ってきた。


「こちらが期日を守らせているのに、遅れたこと詫びる」

 二人は浅めに頭を下げた。第三騎士団の礼儀は無骨だが、筋が通っている。


「申し訳ないが、討伐の負傷者が出ていてな。先に教会へ書状を書かせてくれ。少し見苦しいところを見せてしまうが許せ」


 侯爵は躊躇なく紙とペンを取り出し、机に広げる。その動作に、対応を後回しにできない深刻さがにじむ。本来なら荷を納めに来た商人の前で怪我人の話などしないだろう。今はそれも構っていられない状況なのだ。


 応接室の空気は緊迫していた。

 オズワルド侯爵の筆が紙の上を走り、レオンは別の紙を手に負傷者の状態を立て続けに報告している。


「胸部の深手が三名、腕に裂傷が二名、脚部の骨折も数件……止血用の軟膏や薬草は足りなくなっています。教会に癒しの力が、到着までに間に合うか——」


 背後でリオナが息をのんだ気配がする。青司は軽く鞄を開け、机の端に小瓶を並べ始めた。


「お急ぎのところ、失礼します。もしよろしければ、こちらをお使いください。私が作った傷回復薬です。少しでも戦力の助けになれば幸いです。フィオレル子爵家と共同開発のものですので、御安心ください。フィオレル様からの書状もあります。御一読頂ければ」


 淡々とした声に、リオナは隣で瓶を揃えながら、真っ直ぐにオズワルドを見た。


「私も大怪我をした時に使いました。セイジの薬は本当に良く効きます。私が保証します」


 青司は口調を補うように言葉を重ねた。


「まずは傷口に塗布して頂き、口から飲ませて頂ければ、傷口と身体の中から治癒がされるはずです」


「……失礼する」

 侯爵はフィオレルの書状を手に取り、目を細めて冒頭から読み進めた。視線が数度、青司の方へ向く。


「レオン、すぐに持って行け。まずは重傷者からだ。とは言え、教会への書状も届けろ。急ぎ救護室に来るよう走らせろ」


「はっ!」

 レオンは瓶を掻き集め、駆け足で応接室を出ていった。

 扉が閉じた瞬間、青司は内心でほっと息を吐く。教会の癒し手が来るまでのつなぎになれば、と考えていたが——


(……俺たちの薬が、役に立つかもしれない)


 リオナは肩に掛けた外套の裾をぎゅっと握り、青司をじっと見つめていた。落ち着いて見えるが、その目は熱い。あの大熊との戦いを思い出しているのだろう。


「すまなんだな。せっかく来てもらったのに、見苦しいところを見せた」

 オズワルドが書状を畳みながら言った。

「ところで、ホヅミ商会は肌着や女官の喜びそうな物を取り扱っていた商会ではなかったのか?薬まで取り扱っていたとは知らなかった」


「元来、私は薬師ですので。たまたま、作った物が喜んで頂けて商会になり、店舗を作ることになっただけだったんですよ」


 侯爵は「ほう……」と短く唸り、腕を組んだ。


 その時——勢いよく扉が叩かれた。


「団長!」


 戻ってきたのはレオンだった。息を切らし、汗が顎から垂れている。


「なんだ、客人の前だ。これ以上見苦しいところを見せるな」


「失礼しました。ただ、セイジ殿から頂いた薬を使ったところ——深手のあった者たちの傷が塞がりました。息も整い、表情から苦しさも取れているのです」


 言葉が、重い沈黙を断ち切った。

 応接室の温度が、ほんのわずかに変わる。


 オズワルド侯爵は椅子を軋ませて立ち上がった。声は低いが、驚きに押された熱を帯びている。


「セイジ殿、儂と一緒に見に行ってもらっても構わないか? 血生臭い所を見せてしまうが、お主の薬を使った者たちを見てもらいたい」


「もちろんです」

 青司が迷いなく答えると、リオナも立ち上がる。


「わたしも行きます」


「……よかろう。では救護室だ。案内せよ、レオン」


 扉が開き、三人は騎士団の救護室へと向かう。


 第三騎士団本棟の奥、救護室は石壁に囲まれた寒々しい空間だった。しかし熱と血の匂いが充満し、冬の冷たさを押し返している。木製の簡易寝台が並び、その上では包帯を巻かれた騎士たちが息を荒くしていた。


「——こちらだ、セイジ殿」


 オズワルド侯爵の声に従い、青司とリオナは救護室の内へ足を踏み入れた。軍医らしき初老の男が二人に気づくと、一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに負傷者へと視線を戻した。


「深胸部貫通が一名、腹部裂創が二名……脚部骨折が数名。傷口が塞がり吐血は止まった。痛みも減っている様子です」


 軍医の声は淡々としている。だが青司には、淡々としなければやっていけない現場の重みがわかった。


 腹部を深く裂かれた若い騎士の寝台に寄ると、リオナは息を飲んだ。血がべったりと濡れているのに、焼かれた跡も縫われた跡もない。それでも裂けた肉がじわりと寄り合い、傷口が勝手に塞がっていく。

 大熊にやられた自分の時と同じ——あの感覚と同じだ、と胸の奥が震えた。


(……治癒反応が早い。あの時もそうだったはず)


 リオナが強張った呼吸を漏らす横で、青司は静かに傷口を観察していた。

その表情に焦りはなく、代わりに薬師らしい確信があった。


 そのとき軍医が、薄い声で呟いた。


「これはおかしい……裂創の縁に壊死がない。血も異様に止まりが早い。感染兆候も出ていない……皮下の浮腫も少ない。これは……止血剤か?」


「薬です。止血と感染防止と治癒促進が同時に起こるように作っています。ただ、失われた血液や体力までは補えません。そこは癒しの魔法や休息が必要です」


「……なるほど。血が残っている者なら助かる、ということか」

 軍医がこちらを向く。その目には疑念ではなく医者としての“理解欲”が宿っていた。


「これは魔法薬ですかな? いや、傷の縁の閉じ方が違う……焼いて潰したのではない。内側から盛り上がる治癒だ。こんな薬、聞いたことがないぞ」


「私が治った時もそうでした。血が止まって、痛みも薄くなって……傷が勝手にくっつくような感覚で」

 リオナが証言すると、周囲の騎士たちの視線が二人へ向いた。


 その時、慌ただしい足音とともに声が響く。


「第三騎士団へ派遣された教会の癒し手だ! 重傷者はどこだ!」

 白い法衣に銀の鎖飾りを下げた若い癒し手が二名、小走りに駆け込んできた。息は荒いが、その目には使命感が宿っている。


 だが軍医は短く答えた。

「既に死線は越えた。血は止まっている。深手も感染の兆候なし」


「……本当か? グリフィンの裂創だろう? 昨日、冒険者ギルドで同じ負傷が出たが、一人は癒し手が間に合わなくて——」


 癒し手は言いかけて飲み込んだ。寝台の騎士たちを見て、目を見開いた。


「……生きている。呼吸も落ち着いている。痙攣もない。熱も上がっていない……」


 法衣の袖口を震わせながら、一人の癒し手が低く言う。

「こんな状態なら……癒しは“回復”に専念できる。命を繋ぐ必要がない……」


 その声には安堵と困惑が入り混じっている。


 癒し手は両手を負傷者の胸元へ掲げ、祈りの祝詞を小さく唱え始める。柔らかな光が皮膚の上を滑り、傷口へ染み込んでいった。淡い光が周囲の空気を揺らした。

 光は傷口へ流れ込み、皮膚を滑るように閉じていく。痛みが引くのか、騎士たちは深く息を吐き、体から力を抜いた。

 その声は囁きのように小さかったが、定められた節回しを保ち、呼気と共に光の揺らぎを伴っていた。

祝詞は神聖魔術ではなく“神意を請う手続き”であることが、その所作からも窺えた。


「……っ、兄弟……俺、生きて帰れるのか……?」


「黙れ、寝てろ。お前の女房が泣くわ」


 隣の寝台から返事が飛ぶ。軍医はそのやり取りに小さく目を伏せた。


 癒し手は作業を終えると、青司を見た。

「あなたが、あの薬を?」


「ええ。そんな大層な物のつもりではなかったんですけど、薬草と錬金術で作っています」


「……信じられん。本来なら癒しは“命を繋ぐ”ために最初に行われる。だが、あなたの薬はそれを代わりにやってのけた。癒しの魔法が入る余地を残したままでだ」

 癒し手は救護室を一望し、静かに言った。


「教会としても助かった。重傷が消えているということは、癒しの魔法にかかる魔力も消耗も少ない。これは……兵の生存率を劇的に上げる」


 軍事的な言及に、軍医が重く頷く。


「前線で癒し手が間に合うとは限らん。魔力も有限だ。薬で時間を稼ぎ、癒しで仕上げる……これは理に適っている」

 オズワルド侯爵は静かに青司を見つめた。


「セイジ殿。癒しの代替ではなく、“橋渡し”になる薬だ。これが戦場で何を意味するか、分かるか?」


 青司は答えられなかった。しかし侯爵は代わりに淡々と言った。


「戦線の持久。兵の帰還率。治療資源の節約。士気の維持。そして——帰ってくる者の数が増える」


 救護室にいた誰もが、その言葉の重さを理解していた。


 リオナは青司の袖をそっとつまんだ。

「……セイジ。これ、多分すごいことだよ」


 青司は小さく息を吐いた。自分の作った薬が、こんな場所で、こんな風に使われる未来を想像したことがなかった。


 癒し手は最後に安堵の表情を浮かべた。


「深手の者は全て回復した。今日は死人を出さずに済む。……ありがとう」


 その言葉は、誰よりも重かった。



 リルトを出て四日目。馬車の車輪は凍てついた街道を軋ませながら進んでいた。遠くには低い陽光を弾く針葉樹林が連なり、その奥には白い山脈が壁のようにそびえている。


 クライヴは窓を少し開け、白い吐息とともに冷たい空気を吸い込んだ。


(……今季の冷え込みは早い。ならば、肌着の需要は例年より強いだろうな)


 同行しているフィオレル子爵家の護衛騎士は、外套に襟巻きを二重に巻き、震えながらぼやいた。


「クライヴさんよ、初めて来るが北の寒さは苦手だ。空気が刺す。肺が凍る。鼻が痛くなる……」


「鼻から吸わず、口で吸わず、喉で温めずに入れるからです。慣れれば大したことではありませんよ」


「…… 絶対に慣れたくない土地じゃないか。とはいえ、領主家の紋を見て道が割れるのは助かるが……寒さだけはどうにもなら。」


 数日一緒に過ごしたことで気さくに声を掛け合うようになった護衛騎士は、ぶつぶつ言いながら馬車の座席で拳を握った。だがその目は騎士のそれで、油断なく街道や馬車の列を見ていた。


 街道沿いには、狩猟民らしい粗衣の男女や、毛皮の束を背負った若者たちの姿が見える。辺境特有の生活だ。馬の息は白く、雪は積もっていないのに照り返しが強い。


 王都の喧騒とは別世界だった。


 やがて、王国の北壁、伯爵領の石壁が見えてきた。見張り塔がいくつも連なり、壁上には巡回の兵が歩いている。武装は重く、寒冷地向けの毛皮と鉄鎧を併用している。


「リルトとは警戒の質が違いますね……」


「当たり前だ。ここは“王国の北壁”よ。北方蛮族の襲撃や魔物の渡りがある。強者が治めねば持たん土地だって話だ」


 護衛騎士が指先で壁を示しながら言う。


 馬車が門前で止まると、衛兵がこちらを鋭い目で見た。剣に手を添えたまま声を発する。


「身分と目的を示せ。王都商人と見受けるが、通行を許可された理由は?」


 クライヴは落ち着いた所作で外套を整え、懐から二つの封書を取り出す。


「フィオレル子爵領リルトのホヅミ商会より参りましたクライヴと申します。

本日は伯爵夫人より頂いた招待状を携えての訪問でございます。

また、王都服飾ギルド長ダラス殿より紹介状を預かっております。

商談にて伯爵家へ伺いました。どうぞお取次ぎください」


 衛兵は手袋を外し、封印を確認し、仲間を呼んだ。簡素な礼をして門が開く。


 石の門扉はひどく重い音を立て、白い息を吐く兵士たちが押し開いた。


 伯爵邸へ向かう途上、クライヴは周囲を観察した。

 石造り、重装備、馬の脚部保護、雪の積もらない凍結土地……。

 全てが“軍事と寒冷”に最適化されている。


(……なるほど。ここは“戦の土地”だ。暖を取るという概念より、“生存”が基本になっている)


 伯爵邸の客間に通されると、すぐに侍従が姿勢を正して告げた。


「これより伯爵閣下にお目通り頂く。言葉は簡潔に。礼は深すぎず、傲慢も厳禁」


「心得ております」


 扉が開いた。


 中は温かくない。むしろ実務的な冷たさを含んだ空気だった。暖炉はあるが火は控えめで、壁には地図と軍旗と獣皮が掛けられている。


 伯爵は四十三歳にして、すでに白髪の混じる顎髭を持っていた。戦と政に追われた年月が、髪に色を落としたのだと人々は言う。

だが北方を預かる者に休みはない。暖炉の前ですら鎧を脱がぬ生活は、彼に日常だった。


「バルドリック・ルンドヴァルだ。この北方を預かっている伯爵だ。王都からダラス子爵の紹介状を持ってやってきたそなたは王都商人か?」


 低く太い声。名乗りを終える前に、その視線が全てを測る。


「いえ、リルトのホヅミ商会の者です。会員のクライヴと申します。フィオレル子爵領にて商いを」


「ふむ……内政と交易のフィオレル卿か。ホヅミ商会は知らん。服飾ギルドの威光は王都では効くかもしれんが、我が領では実益の方が重いと心得よ」


 伯爵は淡々と続ける。

「我が領は王国の盾だ。戦が止む季節などない。

 王都の流行を追う服飾は不要——本来はな。

 だが、妻から招待状を書くよう頼まれた。理由は後で聞く。座れ」


 有無を言わさぬ声だったが、無礼ではない。軍人特有の“真実だけを話す”力だ。


 クライヴは、緊張しながらも座り王都服飾ギルド長ダラスとリルト街の領主フィオレルの紹介状二通を添えた。伯爵は書状に手を伸ばさず、机の上に広げさせたまま、目だけで追った。内容を測るように、視線が一度だけ止まる。


「服……ではなく、肌着、だと。……戦で使うのか?」


「使えます。既に王都の第三騎士団で試用され、受注を受けています。納品は、今頃完了しているはずです」

 クライヴは即答した。伯爵の目が僅かに動く。


「汗が冷えることで兵が死にます。凍傷も出ます。肩や胸の擦れで血が出ることもある。吸湿速乾の肌着は“体温維持のための兵站”です」


 伯爵は顎に手を当てた。理解した、というより“計算を始めた”顔だった。


 その瞬間、扉が静かにノックされた。


「入れ」


 現れたのは年若い侍女と、その後ろに優雅な動作の婦人だった。深い紺色のドレスに、銀の刺繍。寒冷地仕様の裾だが、洗練されている。


「お目通りを許してくださり、ありがとう存じます、殿」


 伯爵夫人は落ち着いた微笑を伯爵へ向けた。

 その眼差しには、他の誰にも向けぬ信頼が静かに宿っていた。

 伯爵は夫人にだけ分かるようにわずかに口元を緩めていた。


「クライヴ殿、遠路お疲れ様でした。王都であなたの品を手に取った令夫人方から噂を耳にしましたの。肌着もそうですが……髪を洗う薬も扱っておられるとか」


「はい、シャンプーとコンディショナー、そして日焼けを防ぐ塗り薬もございます」


 夫人は驚いたように目を動かす。


「日焼け止め……それは夏ではなく“冬”のための物なのです?」


「雪焼けは夏の倍、肌を痛めますから」


 夫人は短く息を漏らした。


「……そう。私は冬の間、外に出た後は頬が赤黒くなり、皮がむけて困っておりました。雪の反射というのですね」


 伯爵は一度、面倒そうに眉を寄せた。


「また女性の美容の話か。だが、お前の肌をそんなにさせた覚えはないんだがな。北部では——」


「美容だけの話ではありません。皮膚炎は軍でも問題なはずです。

 顔が焼け、皮が剥ければ視界も鈍ります。

 冬季行軍で兵が雪面に顔を向ければ、目も焼ける。

 日焼け止めは、皮膚と視界を守るための“装備”とお考え頂ければと」


 クライヴの言葉に伯爵の目が変わった。


 完全に“軍事の話”として捉え直した目だ。


「……面白い。皮膚の保護を“装備”と呼ぶか。王都ではそう教えているのか?」


「王都ではまだ一部ですが、北部の方が理解は早いと思います」


 クライヴと夫のやりとりに夫人が笑った。


「殿、あなたよりも先に欲しがる者がいるとすれば、きっと狩猟民ですわ。雪の照り返しで眉間の皮が剥けるのだとか」


「……聞いたことがある」

 伯爵は短く呟いた。


 その時、執事が静かに知らせた。


「殿、明日の狩猟会に向かう西街道の一行がまだ到着しておりません」


「グリフィンの影響か」


 伯爵が低く言う。クライヴは軽く咳払いののち、言葉を添えた。


「街道の閉鎖は解禁されています。第三騎士団が群れを討伐したと聞きました」


 伯爵が明らかに目を細めた。


「情報源は?」


「王都方面の宿場町で。私はそちらから来ましたので」


「……そうか。儂は西街道からの連絡をまだ受けていなかった。うちよりも王都に近かったようだからな」


 伯爵夫人が会話をまとめた。


「では、肌着を見せてくださいます? 口で説明されても分かりませんもの」


「はい、奥方様。もちろんでございます。実物をご覧ください」

 クライヴは鞄から吸湿速乾肌着を取り出した。白と肌色、そして軍向けに試験的に作った黒。伯爵が手で生地を握る。


「薄い……だが、弾力がある。……これは羊毛ではないな。麻でもない。何だ?」


「麻と絹繊維の加工品です。極寒地での氷結試験までは行っておりませんが、汗をすぐに吸っても凍る前に乾くほど、乾きが早いものです。擦れても皮膚が割れにくい設計です」


「……つまり、汗が敵にならん、ということか……兵に着せて試す」


 伯爵は迷いなく近くの騎士を呼んだ。分厚い胸板を持つ若い騎士が無表情で肌着を手渡され、鎧を半ば脱いで着替え始めた。


「失礼致しますぞ」

 騎士は軽く膝立ちになり、胸の紐を締め、肩を回した。音はしない。


「皮膚に吸い付く感覚……冷たくはないですな。関節が動かしやすい。汗をかけばどうなるか……」


 伯爵は顎に手を当てた。


「明日、狩猟会と同時に冬季演習を行う。そこで走らせ、雪を踏ませ、火を焚かせる。耐えれば購入させてもらおう」


 その言葉に、クライヴは微笑を落とした。


「しっかりとお試し頂ければと思います。

 実地での評価こそ、我々も望むところです」


 夫人が別の興味で問いを重ねた。


「では私は……シャンプーと、その……髪をさらさらにする薬を見せていただけます?」


「もちろん。風呂で少量手にとって泡立て、洗い流し、湯を変えてからコンディショナーを」


 夫人は侍女に目配せし、購入を即断した。


「全て購入いたしますわ。明日の狩猟会の後、貴族夫人方が集まりますので、話題にもなりますもの」


 伯爵が妻を横目で見て、ため息を吐いた。


「まったく、お前は抜け目がない」


「ええ、あなたが戦で体を張るように、私は女性の社交で家門を守るのです」


 伯爵はふっと笑みを漏らした。武骨な男にしては珍しい柔らかさだった。


「クライヴ殿、商談だ。条件を言え」

 伯爵の声は一転して実務に落ちる。


「こちらからは——継続供給を前提、サイズ指定対応、季節前納入、王都での引き取り・現地輸送どちらも可能。代価は金貨、あるいは物々交換も検討します」


「物々交換とは?」


「毛皮。特に防寒用大型獣皮は王都で価値が高い。軍礼装にも使われます。

 ――加えて、もし余剰がございましたら、水や氷の魔石も検討の対象になります。

 北部産の質の良いものは、王都では常に不足しております」


 伯爵は目を細めた。

「……分かっているではないか。毛皮はこの土地の命だ」

 伯爵は一拍置いた。

「……さらに、魔石に触れるか。

 王都の商人は、そこまで北を見て話をせん」


 視線が鋭くなるが、拒絶ではない。


「ええ。そして王都では“金”になります」


 数秒の沈黙。


「よかろう。条件は明日の演習結果による。狩猟会の後に改めて契約を結ぶ」


「承知しました」


 伯爵夫人が穏やかに締めくくった。


「今日は長旅でお疲れでしょう。暖かい部屋と湯を用意させますわ。どうかお休みください。明日は山の麓でお会いしましょう」


 クライヴは立ち上がり、深く礼をした。


「ありがとうございます。光栄です」


 伯爵夫人は微笑み、伯爵は大きく頷いた。


「北部に来る商人は少ない。だが、来た者は強い。……明日を楽しみにしておるぞ」


 クライヴは言葉無く頷いた。


(強い土地だ。そして、強い価値観だ……悪くない)


 暖炉の火が静かに揺れた。


 北壁伯爵領の夜が始まる。

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