五感すべてはあなたのために
「あなたの五感、五臓六腑、その全てをかけて大切な人を救いませんか?」
人はいつか死ぬ。
それは、生まれた瞬間から決まっていることだ。
だけど、「明日」その日が来るとは、誰も思っていない。少なくとも俺は、思っていなかった。
春の終わり。梅雨入り前の匂いが街を覆う午後だった。俺は助手席の彼女に、気怠そうに話しかける。
「おい、寝るな。ほら、信号変わるぞ」
「んー……蓮が運転うまいからつい、ね?」
にやっと笑って、流菜は鼻歌を歌い始める。
細くて綺麗な横顔。助手席で笑う彼女を、俺は何度見ても飽きなかった。
「トマト買ったっけ? パンもいるよね?」
「おまえ、主食トマトとパンだけかよ……」
「あたりまえでしょ、これで生きてるの。将来はパン屋でもやろうかね」
そんな冗談みたいなやりとりが、俺たちの日常だった。
ありふれていて、けれどかけがえのない日々だった。
——その日までは。
「右側、車来てる!」
叫んだ瞬間、世界は白く弾けた。
耳鳴りと、金属のきしむ音。
視界はぐにゃりと歪み、何がどうなったのか分からない。
意識が遠のく中、血の味と、遠くで誰かが名前を呼ぶ声が聞こえた。
「蓮っ!!」
——俺は、彼女の名を呼べなかった。
目を覚ましたとき、全身が痛んだ。
天井がぼやけ、人工的な光が目に刺さる。
病室の匂い。点滴の音。
自分が生きていることを確認するのに、少し時間がかかった。
「……流菜は?」
それが最初に出た言葉だった。
看護師は言葉を濁した。
少しして現れた医者が、静かに言った。
「彼女は今、集中治療室にいます。脳に深刻な損傷があり……現在、意識が戻る見込みは低いと考えられます」
その時の俺には、意味が分からなかった。
何を言っているのか、理解できなかった。
「……植物状態ってことですか?」
「……ええ、そうです。命は繋がっています。ただ、それだけです」
命はある。
だけど彼女の“今”は、止まったまま。
そう言われたような気がした。
それからの時間は、時計が回っているのかもわからないような毎日だった。
隣のベッドには、結菜が横たわっていた。
まぶたは閉じられ、呼吸の音がかすかに聞こえる。
機械が彼女の命をつないでいた。
俺は彼女の手を握り、ひとりで話しかけた。
「なあ、聞こえてる? いつもみたいに“だいじょうぶだよ”って笑ってくれよ」
返事はない。
それでも俺は、何度も話しかけた。
夢でも幻でもいいから、もう一度、あの笑顔に会いたかった。
ただ、彼女に生きてほしい。
もう一度、笑ってほしい。
そう強く願った夜だった。
その男は、音もなく現れた。
深夜の病室。照明は落ち、窓の外には雨の影だけが揺れていた。
振り向いたとき、男はそこにいた。
黒のスーツ。雪のように白い髪。
年齢も、表情も、温度も掴めない。
ただ、瞳の奥に深い闇だけを湛えていた。
「あなたの五感、五臓六腑。全てをかけて誰かを救いませんか?」
時間が止まったようだった。
俺は、声も出せずにただ男を見つめていた。
「代償は、あなた自身です。
視る力、聴く力、味わうこと、匂いを感じること、触れること。あなたの身体の中にある“生命の器”を、彼女に譲ることができます」
現実味のない言葉。
まるで夢の中のようだった。
だが、奇妙なことに、心の奥で何かが頷いていた。
「——彼女は、目を覚ましますか?」
「可能性はあります。
ただし、代わりにあなたの世界は、少しずつ色を失っていきます」
答えは決まっていた。
「全部……全部、あげてください」
男はゆっくりと微笑んだ。
それはどこか、慈悲のような、それでいて終焉を告げるような笑みだった。
最初に差し出したのは、視覚だった。
それは手術のようなものではなかった。
黒服の男が指をすっと伸ばすと、世界が音もなく崩れた。
色が、光が、形が、すべて白へと溶けていった。
代わりに、何かが流れ込むような感覚があった。
まるで魂の川が、二つの肉体をつなぐように。
目の前のベッドに寝ていた結菜の瞼が、微かに震えた。
「……反応が、ありました」
医師が声を上げた。
ほんのわずかだが、彼女の目が光に反応していた。
見えなくなった世界は不安で満ちていた。
けれど、心のどこかが温かくなっていた。
君の目に、世界の光が戻ったのなら、それでいい。
次に失ったのは、聴覚だった。
黒服の指先が、ふたたび空を切る。
その瞬間、すべての音が断ち切られた。
風の音も、人の声も、心音さえも。
世界は静寂の深海となった。
けれどその夜、看護師が走り込んできた。
俺の腕を掴んで、何かを叫んでいた。
俺には聞こえなかった。
けれど、口の動きで分かった。
——「彼女が、音に反応しました!」
聞こえない耳の代わりに、胸の奥がざわめいた。
涙が頬を伝って落ちた。
——君が風の歌を聴けるようになったのなら、俺はこの沈黙と共に生きよう。
味覚を渡したとき、口の中が砂のように乾いていった。
甘さも、苦さも、酸っぱさも、すべてが失われた。
何を食べても、水でさえも、味を持たなかった。
だけどその頃から、彼女の舌がわずかに動き出した。
唇が、パンの形をなぞるように震えた。
きっと、夢の中で食べているのだ。
彼女の好きだった、あのトマトパンを。
嗅覚を手放すとき、胸がきゅうっと締めつけられた。
君の髪の匂い。朝のベッドのシーツの匂い。
もう、どんな匂いも覚えていられない気がした。
でもその代わりに、彼女の胸が深く呼吸をした。
肺が生き返った。
空気が、香りと共に彼女の身体に流れ込んでいた。
触覚を失った時、俺は自分の体の境界を失った。
風も、布も、水も、何も感じない。
けれどその瞬間、流菜がはっきりと看護師の手を掴んだという。
生きている証だった。
そして、ついに彼女の身体は少しずつ、少しずつ、目覚めていった。
その分だけ、俺の世界は色を失い、音を失い、感覚を失い、名前のない深い夢の中へ沈んでいくようだった。
でも、それでよかった。
彼女が“生きている”と実感できるなら、それで十分だった。
季節はめぐっていた。
花の咲く春が過ぎ、蝉の声が消え、空気が透き通る冬の手前。
あれから一年が経とうとしていた。
俺は、ほとんどの感覚を失っていた。
目は見えず、耳も聞こえず、匂いも味もない。
肌に触れる世界の境界線も、もうとうに曖昧だった。
病院のベッドで、ただ横たわる日々。
けれどその傍らには、確かに彼女がいた。
流菜は少しずつ回復していった。
指が動き、まばたきをし、喉が震え、ついには言葉を発した。
最初の言葉は、俺の名前ではなかった。
それでも構わなかった。
——君が生きてる。それだけで、充分だった。
けれど、その日が来ることは分かっていた。
最後に、俺に残された“器”——心臓。
黒服の男は再び現れた。
相変わらず、表情のない声で言う。
「最後に残されたのは、命の器。これを渡せば、あなたは——完全に、無へと至ります」
病院の窓辺。
外は春の始まりだった。
小さな桜が、風に揺れていた。
俺は微笑んで、言った。
「お願いします。——これで、最後です」
男の手が俺の胸に触れた。
その瞬間、世界が、あたたかな光に包まれた。
音も、色も、痛みもない。
ただ、深い水に抱かれるような安堵があった。
心臓が静かに、鼓動を手放していく。
そして——眠るように、俺は意識を閉じた。
春の朝。
柔らかな日差しが病室を満たす。
窓が開けられ、風が新しい季節の匂いを運んできた。
陽の光が、結菜の頬を撫でる。
「……あれ?」
彼女は、ゆっくりと身体を起こした。
夢を見ていた気がする。長くて、淡くて、温かい夢。
けれど、その中に誰がいたのかは思い出せない。
医師や看護師たちが駆け寄る。
母が泣いて、父が何度も名前を呼ぶ。
彼女はただ、静かに目を瞬かせた。
ベッドの横に、ひとつ空のベッドがあった。
誰かがそこにいた気がする。
けれど、そこにはもう何もなかった。
——何か、大切なものを、置いていった気がした。
退院の日、病院の庭には桜が咲いていた。
車椅子の彼女は、ふとその下で立ち止まり、空を見上げた。
桜の花びらが、風に吹かれて舞う。
どこか懐かしい光景。
ずっと前に、誰かと一緒に見たような。
手のひらに一枚の花びらが落ちてきた。
「……ありがとう」
無意識に、彼女はそう口にしていた。
その意味は分からない。
誰に向けた言葉かも、思い出せない。
けれど心のどこかで、確かに何かを感じていた。
ぬくもりのような、風の匂いのような、遠くから届く声のようなものを。
彼女の胸の奥で、心臓が鼓動を打つ。
それはまるで、誰かの“想い”が生き続けているようだった。
数年後。春の空は、柔らかな光で世界を満たしていた。病院を退院した流菜は、今、小さな街のパン屋で働いている。記憶は完全には戻らなかった。
こねる生地の手触り、焼きたての香ばしい匂い、それらに包まれて過ごす毎日は、どこか懐かしく、やさしい。
けれど彼女は、いまだに自分の“何か”が欠けていることに気づいていた。
誰かを——
とても大切だった誰かを、思い出せない。
「……どうして、こんなに涙が出るんだろう」
閉店後の店内。
片隅にひとり座って、彼女はそうつぶやいた。
棚の隅に、誰が置いたのか分からない小さな木箱がある。
中には、色あせたポラロイド写真が一枚だけ入っていた。
海辺で、彼女が笑っている。
横にいる男の顔は、光の反射でうまく写っていない。
けれど、彼女の表情は、この上なく幸せだった。
指が震える。
まぶたの裏に、あたたかな掌の感触が浮かぶ。
声はない。でも、心の奥に響く。
——「君が笑ってくれれば、それでいいんだよ」
ふいに、風が通り抜けた。
窓の外、桜の枝が揺れている。
花びらがひとひら、舞い込んできて彼女の髪に触れた。
その瞬間。彼女は、泣きながら笑っていた。
名前も、顔も、声も思い出せない。
けれど、確かに“いた”のだ。
自分を守り、愛し、すべてを捧げてくれた人が——
「ありがとう」
涙の声は、誰にも届かない。
でも、きっとどこかで聞いてくれている気がした。
ふと視線を上げると、ガラス越しの外に、
黒いスーツを着た白髪の男が立っていた。
目が合う。
彼は小さく会釈し、ふっと微笑んだかと思うと、
次の瞬間、春風に溶けるように姿を消した。
まるで、すべてが最初から夢だったかのように。
だけど、流菜は確かに知っていた。
あの目は、嘘をつけない人の目だった。
——そして、誰かの“願い”が届いた証だと。
彼女は立ち上がり、扉を開けた。
世界は今日も、変わらず優しい。
明日もまた、生きていく。
誰かの命の上に立っていることを忘れずに。
それは、後ろを振り返らずに歩くことじゃない。
思い出せない記憶の中にさえ、確かに灯る想いがあるということ。
空は青く、どこまでも高かった。
彼女は歩き出す。
その心の奥で、彼の鼓動が、静かに生き続けていた。