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sideナターリア
自分自身の心音が聞こえそうなほど緊張する。だが、此処まで来た以上引き返さずにやるべきだろう。
そっと合鍵を差し込みナターリアは第一歩を踏み出した。後ろには響也がいてくれるから少し安心だ。
玄関を開けてまず感じるのは、何の匂いもしないということだった。女性が同棲しているのなら少なからず香水の匂いがしそうなものだが、それがない。生活感がない。というのが正しいだろうか。
(拓海はいるかな?)
軽くあたりを見回すも、それらしき人影は見えない。それもそうか。月曜ともなれば、働きに出ているはずだ。家にいる人のほうが珍しいだろう。
「響也。この後どうしよっか?」
「え?決めてなかったの?」
そう。全くのノープランだ。こういうことはかなり衝動的に行動するタイプなのだ。ナターリアは。
「とりあえず、玄関に靴がないから、家にはいないと見るべき。なのかな?」
「いや、だとしたら家の明かりを誰もいないのにつけっぱなしにしてるってことになる。多分、誰かはいるよ」
ナターリアの推理は響也に否定された。しかし、言われてみれば確かにその通りだ。ナターリアも誰もいない家の電気をつけっぱにはしない。電気代が高くついて仕方ないのだ。
「とにかく、一番近いあの部屋から見ない?」
そういう響也の指示に従って、横引のドアを開ける。障子でもないのに横引であることにとりあえず驚いた。最初、押し開きだと思って、無駄に押してしまったではないか。恥ずかしい。
ドアが開くと、これまた生活感のない空間が広がっていた。だが、この部屋には人がいる。しかも二人だ。片方は、拓海。最後にあったときと全然変わっていない。もう一人は……どこかで見たような気がするがはっきりとは思い出せない。
「……っ!響也くんに、ナターリアさん……!」
拓海の驚いた声が聞こえた。何の連絡もなしにきたのだ。合鍵まで使って入っている。驚くのも無理はない。というか、驚かない人間などいないだろう。
それにしても、拓海のこの他人行儀はすごく嫌だ。実の母親だと言うのに何が嬉しくてさん付けなのか。ママとかはちょっと遠慮するが、母さんとか、お母さんとか色々あるだろうに。拓海といえば、物心ついたときから「響也くん」、「ナターシャさん」だ。響也は「くん」なのに、ナターリアは「さん」なのが、これまた距離を感じさせる。年令を重ねるに連れ、ナターシャが愛称だと分かった途端にナターリアさんになるし。親子だと言うのに子の方から距離を取られてしまう。これでは、一度は「お母さん」呼ばれたいという願望は、残念ながら一生叶いそうにない。
「拓海?この人たち誰?」
「僕の両親だよ。前にちょっとだけ話しただろう?」
「あ。そういえば、少しだけ話してたね」
謎の女性との会話にも突っ込みたくなる。何年かは知らないが、此処にいるということは付き合っているのだろう。だというのに、ちょっとしか話さないとは。しかも、女性の方が忘れるくらい。絶対にナターリアの話はされていないのだろうな。と思う。なにせ、外国人だと聞いていたら母親だと直ぐに分かるはずなのだ。
あんまりな扱いに少々不機嫌さが募る。
「ナターリア?さん?拓海のお母さんなんですよね?すっごく可愛いです!お人形さんみたい!」
「そう?僕のお母さんだからってフィルターかかってるんじゃない?」
「そんなことないよ!拓海に似てるし、今までで一番可愛いし。絶対、フィルターとかじゃないよ!」
だが、謎の女性が褒めてくれたので全部チャラとしよう。ナターリアだって乙女。可愛いと言われて嬉しくないわけがないのだ。人形みたいは言われなれているから特に何も感じないが。何より、ついさっき叶わないだろう思った念願の「お母さん」呼びを拓海にさせてくれたのだ。この女性は良い子に違いない。
「……あ!鈴海さんだ!」
後ろから突然聞こえた響也の声に背中がビクッとなる。謎の女性と拓海の所為で完全に忘れていた。
「鈴海さん?それがどうかした?」
「いや。誰かに似てるなぁって思ってたんだけど、鈴海さんなんだよ。ほら、あの課長の」
課長。鈴海。……下の名前は確か遥斗だったか……。確かにそんな人がいたような気がする。響也とも仲が良くてしょっちゅう飲みに行ってたはずだ。ナターリアは紹介されていないから知らないが、響也が似ているというのなら似ているのだろう。
「あれ?でもその鈴海さんって退職してなかったっけ?」
「してたよ。とはいえ、急なこと過ぎて可笑しいとは思ってるんだけど。ん。ねぇ君。名前は何ていうの?」
「私、ですか?私は沙良って言います。父とお知り合いなんですか?」
沙良。可愛らしい名前だ。沙良と聞いて響也はやはりと納得した素振りを見せた。一方で拓海は、少々不機嫌さが垣間見える。全く、親子揃って不機嫌なときに軽く目を細める癖はやめたほうが良い。
「そうだよ。鈴海くんとはよく話してたんだ。沙良ちゃんのこともよく聞いてたよ。可愛い娘なんだって。よく自慢されたな」
頬を掻いて喋る響也は楽しそうだ。沙良とやらも楽しそうにしている。
沙良……?鈴海さんが父ということは、名字は鈴海……。本名は鈴海沙良。
「あっ」
「ナターシャ?どうした?」
思わず声を上げてしまった。響也が不思議そうな顔でこちらを見てくる。拓海は、ナターリアが何に気づいたのか分かったようだった。やはり、聡い子だ。
「響也。鈴海沙良って今、行方不明で警察が捜してるこじゃない……?」
「……!」
ナターリアの言葉に、響也もハッとしたようだった。先程までの緩やかな雰囲気が嘘のように堅くなる。
「拓海。説明してくれるか?何故、沙良ちゃんが此処にいるんだ?」
「……僕には沙良がいないと駄目で、沙良にも僕がいないと駄目だから。それだけです」
平然とそう言ってのけた拓海に、我が子ながら悪寒が走る。ふとナターリアの祖父、ニコライを思いだした。権力保持者という特権を使って、女性を手籠めにしては、自分にとって有益なのものばかりを作る。そのくせ、それの悪質さに全く気がついていなかった祖父。拓海は、どことなくその祖父を感じさせた。特に、その悪びれのなさ、純粋さが。
「……拓海。それじゃ説明になってない。ちゃんと説明して」
どういうことなのか。何故、沙良が此処にいるのか。分からないことだらけだ。ただ、はっきりと分かるのは、このまま拓海とのことをなかったことにしてはいけない。隠してはいけない。それだけだ。
そうすれば、きっとより悪化してしまう。
この事実を少なくとも関係者内では隠蔽するわけにいかないのだ。
そうして、質問を重ねつつ、事態の全貌が明らかになった時、ナターリアは激しい目眩を覚えた。




