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愛の導  作者: 瀬名柊真
十六章 本懐

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side沙良

 つくづく可笑しな話だ。先程までが嘘のように、食事を取れる。拓海がいるだけで身体に此処までの影響が出るとは思いもしなかった。大嫌いだったはずなのに。憎かったはずなのに。今ではそんな気持ちは綺麗に霧散してしまった。

 理由は分からない。抱かれたからだろうか?だとすれば、たった一度抱かれただけで人間は此処まで変われるのだろうか?……分からない。

 拓海は、優しい。

 それはずっと前からそうだった。残念ながら高校の頃などは覚えていないが、少なくとも大学のときから、ずっと。それは誰に対してもそうなのだと思っていたし、沙良にだけ向けられた優しさだなんて気づくこともなかった。この部屋に監禁されて、初めて気がついたことだ。それが嫌だった。苦しかった。あまりの重さに押しつぶされそうだった。溺死してしまいそうだった。

 はずなのに。

 今ではそうでないと落ち着かない。苦しいくらいが丁度いい。喉元を圧迫して、死んでしまいそうなくらいに深く愛されていないと嫌だ。だいぶ、毒されていると思う。愛の過剰摂取で中毒でも起こしてしまったのだ。甘く痺れる毒に全部、侵されてしまった。

 何より、その毒は沙良にしか与えられなかった。拓海の笑顔も、愛情も、全部沙良にしか向けられない。沙良以外には与えない。これほどまでに甘美なものはあるだろうか?どんな状況に陥っても、拓海なら絶対に沙良を選んでくれる。そう、確信させてくれる。

 実際、拓海は沙良のためと称して、平気な顔して法を破る。一切の躊躇もなしにだ。沙良には、そんな事は出来ない。たとえ、とても頭が良かったとして、絶対に犯罪がバレないという確信があってもだ。

 万引きだとか、ハッキングだとか。そういうのなら出来るのかもしれない。だが、殺人だけは別だ。命が、失われてしまう。沙良と同じ、生きている命が。

 その命にも人生があった。沙良と同じように、生まれ、嬉しいことも、悲しいことも経て、成長してきた。ときに、嬉しいことなどなかった人生の人もいるかも知れない。だが、その人だって生きている限りはいつか、嬉しいことが来るはずなのだ。不幸だけで終える生涯など存在して言い訳がない。

 誰かは絶対に誰かを大事に思っている。だから、この世界に消えて良い命なんて存在しないのだ。そんな命を、自らの手で消してしまうなど、出来るわけがない。なんて、罪深い。

 拓海は、罪深い。沙良が今までであった人物の中で最も。だが、だからこそ拓海がいないと駄目になってしまった。自分のために、穢れて、堕ちてくれる。拓海しか、そんなことはしてくれない。

 家族も、千秋も、彩夏も。誰もきっと此処まで出来ない。沙良にとっての一番の平穏を作り上げてくれるのは拓海の他にありえないのだ。

 だから、こんなにも穢れた腕に安心を覚えてしまう。血に濡れたその命に美しさを覚えてしまう。我ながら変だとは思うが。


「離れないで」


 そういった時の自分の心は台詞とは違っていた。離れないでほしいんじゃない。離さないでほしかった。沙良という存在をどこへもいけないくらいに強く縛り付けて、離さないで欲しい。今以上に、きつく、解けないくらいに。

 拓海は沙良の気持ちに気づいたのだろうか?出来れば気づいて欲しいという気持ちと、気づいて欲しくないという気持ちが綯い交ぜだ。沙良の心に気づいて、望みを叶えて欲しい。だけど、こんな願いを持ってしまったことを気づかれたくない。相反する感情は膨れ上がって、収集がつかなくなりそうだ。

 拓海には、何の反応も見られなかった。いつだって冷静な彼らしい。そういうところに同仕様もなくなるほどに堕ちてしまった。だが、今はそれを少しだけ恨む。反応さえ出してくれれば、拓海が気づいたか気づいていないか分かるのに。相反する感情で悶々としなくて済むのに。


「沙良がいてくれて、僕は幸せだよ」


 そういった拓海のなんと寂しげな笑顔か。幸せという言葉を発しているとは思えないほどに、悲壮感漂う笑顔だった。

 拓海の過去は、聞けば聞くほど同情の余地がないものだった。拓海がこんなにも狂っているのは、後天的なものではなく、先天的なものだったから。

 此処まで狂ってしまったきっかけは、母親か父親に依るものなのかもしれない。だが、他者との差は成長するうちに拓海も気づいたはずなのだ。気づかないわけがないのだ。とてつもなく聡いのだから。彼は歪に気づかなかったわけじゃない。気づかなかったふりをしていたのだろう。気づいてしまっても同仕様もないと思ったから。

 やっぱり、どうも同情出来ない。共感も出来ない。一般の人間からしてこうなるのだから、拓海も同じだったはずだ。理解出来ない。意味が分からない。そんな気持ちを他者に抱いていたに違いないのだろう。

 拓海が温め直してくれた食事は、美味しかった。一人で食べようとしたときには味なんてしなかったのに。拓海がいるだけで、拓海が手を加えるだけで、こんなにも変わってしまう。

 愛しくて、憎らしい人だ。

 こんな感情は千秋とでは得られることは一生なかった。拓海だから、こう思うのだ。


「私、さ。拓海でよかった。って思ってる。今はね。拓海がいないと死んでしまうくらいに」


 全部本当のことだ。そっと吐いた独白は拓海の耳に届いたようだった。隣りに座っているのだから当然のことだろうが。


「そう?そうなら、本当、嬉しいなぁ」


 どちらに対して嬉しさを感じているのやら。まぁ、両方かもしれないが。どちらでも構わない。拓海が嬉しさを感じてくれているのならば。

 ちらりと覗き込んだ拓海の顔は今まで史上、最も恍惚としていた。ひどく人間らしい。そんな拓海を見ていると、沙良まで顔が緩んでしまう。


「拓海」


「ん?なぁに?」


 小さく名前を呼べば、甘やかに反応してくれる。そんな拓海が好きだ。だからーー。


「愛してるよ。誰よりも」


 この気持ちを言葉にしたい。

 拓海に音が届いた途端、顔が真っ赤に染まっていった。二人ともだ。全く、変なところでカップルらしい。

 そう思うと、急に気恥ずかしくなって顔を背けてしまう。そんな沙良の顔を、捕らえて、拓海は言った。


「僕もだよ。世界で一番愛してる」


 接吻をするのではないかというくらいに、近い距離で囁かれる。本当、心臓に悪い。

 何度でも言おう。可笑しな話だと。

 沙良は千秋のことが好きで、家族のことも好き。その全てを殺して、奪い去り、沙良の自由すら無くしてしまった彼を愛してしまったのだ。

 こんな芝居や物語があったのならブーイングが殺到するに違いない。だが、今、そんな話だけが事実で、それ以外は全て虚構でしか無いのだ。

 沙良は拓海が好きで、拓海も沙良が好き。

 相思相愛。良いことではないか。たとえ、周りがなんと言おうとも、当人同士幸せならそれで万事解決だ。

 そんなふうに浸っていたからだろうか。これから起こる怒涛のことなど、少しも気づいていなかったのは。

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