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side拓海
警察が来た時はひどくヒヤッとした。沙良の手入れを終えた後の所為で、手錠も足枷も出来ていない。もしも、沙良が逃げ出していたらどうしよう?玄関はロックが掛かっているが、もしかしたらと不安を抱いてしまう。
警察の話はしょうもない話だったし、本当は直ぐにでも家に返してほしかった。半日も拘束されるだなんて聞いていない。
急ぎ足で自宅に向かいながら、由美のことをふと考えた。
確か、あの後は、由美に千秋の遺体を任せたはずだ。処理をミスったのだろうか。とんだ役立たずだ。当時は、沙良を手に入れるためには役に立ったが、此処まで来ると邪魔でしか無い。だが、全責任をなすりつけるにはちょうどいいかもしれない。
そんな事を考えているうちに、自宅に着いた。幸いにも鍵はかかったままだ。沙良が掛け直していない限りは出ていないということ。
「……ハァッ……沙良!」
ドアを勢いよく開け、沙良の名前を呼ぶ。焦っているわけではないが、視界にいないとどうしても不安が芽生えてしまう。
沙良のことになると理論よりも感情が強く出て、時折怖くなるほどだ。昨日だって、がっつきすぎたくらいだし。
「拓海……?よか、った……」
声が聞こえたのは、キッチンの方からだった。同時に、キッチン側のドアが開き、泣きそうな顔をした沙良が現れる。
「……っ沙良!」
駆け寄って沙良を抱きしめる。温かい。嘘じゃない。此処にいるのはちゃんと沙良だ。少ししてから背中を叩かれ、無意識にきつく抱きしめていたことに気がつく。
そこでようやく、心が落ち着いた。
「ッ拓海……。いなくなっちゃったのかと思ったよ……」
「違う!沙良をおいて僕がどこかに行くわけ無いだろう?」
答えながら、ふと違和感を覚える。沙良が。沙良が拓海に縋っている。可愛い。可愛い。だけど、なんで?どうしていきなり沙良はこんなにも縋ってくれるようになったのだろうか?ストックホルム症候群が発症した?それとも、抱いたから?
「お願い……お願いだから。離れないで。お願い」
震えた声で、何度も懇願する沙良に、疑問は吹き飛ばされた。理由なんてどうでもいい。たとえどんな過程を通したとしても、沙良が拓海に心を開いたという事実だけがあるのだから。
「……っあぁ!離れない。絶対に、離さないから」
その言葉に安堵したのか、沙良は拓海にもたれかかってきた。ふわりと倒れ込む沙良の身体を咄嗟に支える。
沙良の心音が聞こえる。今までで一番早い脈拍だった。怖い。のだろうか?否、拓海が触れて、ドキドキしているからに相違ない。
突然、ギュルルルルとお腹の音がなった。沙良のお腹からだ。なんとなく、感動的だった雰囲気が壊されてしまったが、そんなことは別にいい。沙良がお腹をすかせていることのほうがよっぽど死活問題だ。
「沙良、お腹空いてるの?なにか食べた?」
「ううん。拓海がいないと、何にも出来なくて。ご飯、一応作ったんだけど、喉を通らないの」
なんだそれは?可愛すぎるじゃないか。拓海がいないとまともに生きていくことすら出来ないだなんて。念願の拓海がいないと死んでしまう沙良になったのが、ひどく嬉しく感じた。
沙良が作ったというご飯を、温め直しながら、沙良に、拓海のことを話すことにした。面白みもない過去の話だが、沙良が聞きたがっていたからだ。
「過去、かぁ……」
拓海は、一ノ瀬グループの唯一の跡取りとして生まれた。しかし、神に気に入られていたのか、経営者に必要な要素はすべて備わっていた。
知力、統率力、感情よりも利益を優先すること、正しい情報を常に得続けること。この四つにおいては天才的な才能すら持っていた。
父、響也は拓海をこう評した。
「時折私も怖くなるほどの子だ。将来は大物になるに違いない」
会社の代表挨拶でもこんな事を言うものだから、当然多大なる期待が拓海には寄せられた。だが、拓海はそれにプレッシャーを感じることなどなかった。なにかミスをしでかして幻滅するような輩がいればそいつを排除すればいいだけだと考えていたからだ。
その考えを両親に話した時、二人ともひどく驚いた顔をしていたような気がする。母は優しく諭し、父は、なにか思案をしていたようだった。
「自分にとって都合の悪いものを消してはダメ」
母が告げた内容は要約するとこうであった。母が言うのならばそうなのだろう。あくまでも純粋だった拓海は素直にそれを信じた。
そのことに母もホッとした様子であったが、この所為で拓海がおかしくなったことには気づかなかったようだった。
数ヶ月してから、父に提案をされた。
「もしも他人の感情を図るのが難しいのなら、自分に利益が出ないことをしてご覧。本当に手に入れたいものは、感情を捨てるしか無い。だが、そうでない場合は、利益が出ないことをしたほうが利益になるんだよ」
当時は、その言葉の意味がよく分からなかった。だが、今なら分かる。利益を追求しすぎると、個人の感情を蔑ろにし、異端扱いされる。だから、その他大勢に紛れ込めと。そういうことなのだ。だが、真に手に入れたいものは、貫けと。確かに言われたとおりだ。
手段を選んでいては、何も手に入らない。常に貪欲に。かつ慎重に。それさえ守れば何も問題はないのだ。
拓海は、ちゃんといわれたことを素直に受けとり、守って生きてきた。ときには周りよりも厳しい教育もあったかもしれない。だが、それは拓海にとって普通のことで、なにか特別な感情を抱けるものではなかった。
幼い頃、唯一と言っていいほどのめり込んだのは、論文だ。分野をとわず、論文を読んでは新たな知識を手に入れる喜びに酔いしれていた。思えば、この頃にはすでに執着の片鱗は頭角を現していたのかもしれない。
しかし、拓海を含め、誰一人としてそれに気がつくことはなかった。むしろ、熱心なことだと褒め称えすらしたのだ。
そうして、周囲との歪に気づかぬまま、拓海は成人を迎えた。
その結果が今である。世論では犯罪者などといわれる部類に入るだろう。異常者ともいわれるかもしれない。
それでも、ずっと欲しかった沙良が手に入る。
それだけで、満足なのだ。
誰が何を言おうとも、沙良さえそばにいれば……それで。
響也は知らないだろう。拓海が誘拐も殺人も行ったことなど。知っていれば、今頃連絡が殺到するはずだ。
「沙良がいてくれて、僕は幸せだよ」




