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「ただいまー」
沙良が、声を掛けながら家に入ると、ドタドタと慌ただしく階段を駆け下りる音がする。
「姉ちゃん!おかえり!」
弟の圭吾だ。もう直ぐ高校生になるいうのに未だに姉のことが大好きな弟。そんな圭吾を疎ましく思ったことは一度もないのだけれど。
「おかえりなさい。今、ご飯を準備してるところだから遥斗くんを呼ん出来てくれる?」
そう言ったのは、キッチンにいる母だ。他所の家庭では互いのことをお母さん、お父さんと呼び合ったりするらしいが、沙良の家では名前で呼び合っている。他所からは「珍しいね」なんていわれたりするが、ずっとそれで過ごしてきた沙良にとっては別に普通のことだ。
「父さんね。また、いつもの場所?」
「ええ。一日中ずっとこもってるの。仕事熱心なのは良いんだけどね……」
母の言葉に苦笑いを浮かべながら、父の仕事部屋まで早足で行く。二階ではなく、一階が部屋だから父の部屋へは行きやすい。圭吾を呼びに行こうと思うと、階段を登るので面倒くさいのだ。
「父さん?」
軽くノックをしてみても反応がなかったので、ドアを勝手に開ける。どうせ、仕事に夢中で聞超えていないだろうと踏んだからだ。案の定、父はパソコンに向かって何やら熱心に打ち込んでいた。
「父さん!ご飯だよ!」
父はこうなると音が聞こえなくなってしまうため、仕方なく後ろから抱きつく。恥ずかしいだのとは思わない。流石に、思春期のときには恥ずかしかったが。だがそんな時期はとうに過ぎた。
いきなりの衝撃にびっくりしたのか父が振り向いた。
「なんだ!?って、沙良か。全く、びっくりさせないでくれよ」
「あはは。ごめんごめん。でも、こうしないと父さん全然気づかないんだもん」
「それにはぐぅの音も出ないな。それでなんのようだ?ご飯か?」
「御名答!母さんが呼んでこいって」
言いながら、無理やり父をデスクから引き剥がす。このまま放置していたら再び仕事に戻りかねない。友達にこういった事を話すと「そこまでしなくても」と言われるのだが、一度ならず、三度ほど過労で倒れたので信用ならないのだ。
「父さんも課長だし、やらなきゃいけないことがあるのも分かってる。父さんが楽しんでやってることもね。でも、皆心配してるからそこそこにしてよ?」
釘を差すようにそう言うと、父はあからさまにしょんぼりしていた。仕事人間な父にとっては、家族の次に大切なものだからだろう。沙良だって、好きなものを制限された悲しくなってしまう。だから、傷心している父に心が痛まないでもないのだが、此処で甘やかしてはいけないことは沙良が一番わかっている。
なにせ、甘やかしてしまっては、再び倒れてしまうからだ。今までの三回も甘やかした所為だし、流石に四度目は違う。父には、過労死はしてほしくないのだ。
父の身体に手を添えてダイニングまで連れて行く。美味しそうな香りが漂っていて、沙良はお腹が空いてしまった。ドアを開けて、中に入ると、席には沙良と父以外はもう座っていた。
「お待たせー!」
「よし。これで全員揃ったしご飯にしましょう」
母の声を合図に、一斉にいただきますと言う。家族皆がハモるこの瞬間は、なんとも言えぬ心地よさを沙良に感じさせる。
家族全体が一丸となっているような気がするからだ。友人に言えば、「え?そう」なんていわれてしまうのだが。
「そういや、今日なんで帰ってくんの遅かったんだ?」
圭吾の言葉にむせそうになる。他意はないのだが、千秋のこと思いだして顔が赤くなってしまった。
「先輩のことを待ってたの!」
半ばキレ気味で返してから、こんな態度では逆に勘違いされてしまうのではないか。と思い当たる。そぉっと圭吾の方を覗き見たら、気味が悪いくらいにニヤニヤしている。
こういう時は、たいてい良くないことを考えているときだ。気づかなかったふりをしよう。そう思って、圭吾の顔から視線をそらす。ふと圭吾の違和感に気づいた。いつもは制服から着替えている圭吾が、今日はそのままなのだ。
「あれ?圭吾。なんで今日は制服なの?」
「え?あぁ、これ?実は美術部でイラスト描いててさ。帰るのが遅くなったし、着替えんのも面倒になったから」
「へぇー。って美術部なんだ!?」
「今更?俺、結構前に言ったと思うけど。描きたい絵があるからって」
「え?うそ。母さん。圭吾、そんなこと言ってた?」
「ええ。家族皆が揃った絵を描きたいって。だから、美術部に入ったのよね?」
「〜〜ッ!」
母の言葉に、圭吾が照れた。こんなにはっきりと照れている圭吾は珍しい。無意識のうちにスマホのシャッターを切っていたのか、カシャリという音が響いた。
「……姉ちゃん。写真、撮った?」
ゆっくりとした動作で圭吾がこちらを向く。こちらを睨めつける圭吾の背後から黒いオーラが漂っているような気がして非常に怖い。思わず生唾を飲み込んでしまった。
此処は誤魔化し一択だ。
「そんなわけ!気の所為じゃない?」
スマホをゆっくりと後ろに隠す。だがしかし、このくらいで誤魔化せるような弟じゃないことはよく知っている。
そして、こういう場合、この後どうなるかはよく分かっている。とりあえず、最悪の事態を想定して、手元のお皿を見てみる。
何もない。
圭吾の方は残っているようだが、そんなことは知ったこっちゃない。
(良かった〜!私は食べきってる!)
そう思ったのも束の間、予想通りと言うべきか、圭吾が襲いかかってきた。いきなり過ぎる攻撃に慌ててのけぞる。
圭吾の手は、確実に沙良のスマホを狙っていた。
「だったらそのスマホはなんなんだよ!消せー!」
やっぱりスマホを隠したのは気づかれていたようだ。にしても、怒っている圭吾の写真も取りたくなってきた。
そんな事をする余裕もないし、余計怒られそうだから止めておくが。
(子供の頃ならもっと自由に出来たのになぁ)
と思うのだが、仕方ない。子供の頃とは違って、圭吾も成長したということだ。此処は素直に喜んであげるべきだろう。
母が、沙良の方を見て仕方がないというように溜息をついたので、許可がおりたということにする。
「ごちそうさまでした!」
と叫びながら、椅子から立ち上がって家中を逃げ回る。当然圭吾も着いてくるので、暫く鬼ごっこが続いたのだった。