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愛の導  作者: 瀬名柊真
十一章 信頼

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side沙良

 あれから拓海は三つ契約をした。といっても、契約書などないが。


 一つ、沙良が反抗したり、拒絶したりすれば沙良の周りの人間を殺すこと。

 二つ、沙良がしてほしいことは出来る限り叶えること。

 三つ、拓海以外のものを口に出す、若しくは逃げようとすれば、躾をすること。


 内容はむちゃくちゃだが、最初に提示してくれるだけでグッと過ごしやすくなる。

 最早助けが来ないことなど沙良が一番わかりきっていた。ならば、どれだけ過ごしやすい環境を作るかのほうが今は大事なのだ。

 しかしながら、沙良にとって最も面倒くさいのは三番目だ。「拓海以外のもの」というのは些か範囲が広すぎる。あの本が読みたいだの、あれが欲しいだの。そういった欲すらも禁止されているのだ。許されるのは、お風呂に入りたい。ご飯が食べたい。お手洗いに行きたい。一緒に何かしたい。それくらいだ。

 だが、沙良はそれを遵守してきた。一回も契約を違うことなく。

 ある時、拓海はプレゼントをくれた。

 小さな指輪。

 マリッジリングのようにシンプルで、高価そうなそれ。


「僕たちの一周年記念だよ」


 そう言って嬉しそうに笑って、薬指に指輪をはめた。

 それから、沙良も拓海の薬指に同じように指輪をはめさせられた。

 拓海は、沙良の手の甲に軽くキスを落とそうとして……触れる直前で止めた。

 一年も経っているのに、拓海は一度も手を出したことがない。

 一度キスを拒絶したからだろうか。もう一度沙良に拒絶されたら。此処まで脅しておいて嫌がられたら。そう思うと出来ないのだろうか。

 あの日のキスですら、結局されていないのだから。

 けれど、沙良は「触れていいよ」なんて言わない。

 従順に過ごしたほうが生きやすいからそうするだけであって、拓海のことはやっぱり好きにはなれない。

 一年も一緒にいると、拓海自身について理解が深まる。けれど、どこまでいっても、どこか拓海は壊れている。


(倫理も情もこの人の前では無意味だ)


 そう何度も思わされる。

 拓海は正しい愛し方を知らない。それは一緒にいてよく分かった。本当に自分を愛していることも。だが、もしも拓海が正しい愛し方を知っていたとして。それでも、拓海は同じ道を選ぶ気がするのだ。

 約束は守ってくれるし、対応も懇切丁寧。鎖さえなければもてなされていると勘違い出来るほどに。

 それでも、ふとした時の発言がやはり人間味にかけている。普通なら喜ぶことも、喜ばない。嫌がることも嫌がらない。つまるところ、何事にも無関心なのだ。拓海自身に影響があるものでさえそれは適用される。

 これがサイコパスというものなのだと無意識に理解した。

 筆舌に尽くしがたいほどの嫌悪感を伴っているくせに、誰もその事を知らない。ただの一般人と同じように人間社会に紛れ込む化け物。

 いつか自分まで壊されそうで。いや、壊されているのかもしれないけれど、それでも尚、その深淵に辿り着くことはないように感じる。

 出来ることなら関わりたくなどなかった。沙良は何もしていないのだ。

 たまたま同じクラスだっただけ。

 たまたま同じ学校だっただけ。

 話すことも、仲良くすることもなかったはずなのに……。何故、何故彼が此処まで執着するのか、沙良には何一つ分からなかった。

 それでも左手に光るものがある限り、この呪縛からは逃れられないのだと知っている。

 知っているから、信用されたい。

 信用されれば、鎖が外されるようになるかもしれない。

 信用されれば、外へ出られるようになれるかもしれない。

 そんな淡い期待があるから、信用されたいのだ。

 千秋のことを思い出すことは少なくなった。圭吾のことも。思い出せなくなったのではない。思い出そうとするのを止めたのだ。それでも時折思いだしては、吐き気に見舞われる。

 千秋も、圭吾も、どちらも大切な愛しい人。もう二度と言葉をかわすことも許されない人。

 一度だけ、拓海に言ったことがある。


「千秋先輩と、将来を約束してたのに」


「圭吾、家族皆の絵を書くんだって、頑張ってたのに」


 それは、思わず漏れた心の内だった。吐露するつもりのなかった。大事な大事な沙良だけの思いだから。拓海に見せて、壊されたくなどなかったから。

 そんな沙良の気持ちなど知らない。そう言わんばかりに拓海は沙良の心を壊す。

 たった一言。


「ふぅん。だから?」


 それだけで。

 その日は目が赤くなるまでないた記憶がある。

 拓海がお風呂に入っている間に、布団に突っ伏してただひたすらに泣いた。気がつけば朝になっていて、泣きながら寝落ちしていたことに気がついた。

 拓海は部屋にはいなくて、ただ「買い物に行ってる」とだけ書かれた紙が置かれていた。

 少ししてから帰ってきた拓海が持っていたのは、ハーブだった。


「昨日、泣いてたから」


 ハーブを手渡す拓海は、何故沙良が泣いたのかなど分かっていないのだろう。それでも決まりが悪そうにしている。泣いたからと、尽くしてくれる。

 何故、この優しさを他人に向けられないのだろうか。沙良に対する優しさを少しだけでも均等に分けることが出来たのなら。

 考えても同仕様もないことばかりが沙良の胸中を占めた。

 だから、封をした。もう苦しまないように。しんどくないように。大切な思い出は大切なまま、鍵をかけた。

 こじ開けようのない心のなかに。

 いつしかその鍵の上に拓海が新たに取り付けた鍵がついた。いや、本当は、沙良自身が鍵を失くしたのだ。

 時折漏れ出ては、存在を知らせる思い出をふたたび見る方法など分からなくなってしまった。

 何れ、すべて思い出せなくなる時が来るのだろう。そうなるのは嫌だ。怖い。だから、沙良は上書きをした。

 拓海との思い出は大切だと。

 そうすれば、その少なくともその一つだけはいつまでも持ち続けていられる。

 逃げ出せることなら逃げ出したい。だが、今だけは。今だけはそう思い込んでいたかった。

 左手の指輪は呪縛だ。いつまでも外れない呪縛。でもそれは、拓海の所為でもなんでもなくて、自分を守るために沙良がつけたものだった。

 だから、なるべく笑顔で沙良は言うのだ。


「一ノ瀬くん。ありがとう」


 それが全部虚構だとしても。

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