『灰に咲く構文』
その日、構文解析機が発した警告は、七桁の整数列としてログに記録された。通常業務に従事していた観測技官リュウ・アスマは、それを見て瞬時に席を立つ。
――これは、人間の存在そのものに関わるエラーだ。
地球上の言語がすべて情報工学的な「構文モデル」に置き換えられてから、すでに百年が経つ。言語はもはや感情や文化の器ではなく、自己最適化型人工翻訳脳によって完全に抽象化されていた。
人類は、言語の主観性を捨て、全脳記録と合わせて個人の思考構造を数値化し、記録し、修正可能とした。だがそれでもなお、“曖昧さ”は根絶されることはなかった。
今回のアラートは、それを証明する“構文的幽霊”のような存在を指していた。
「存在構文、第五カテゴリに揺らぎ。個体コード:E713=アズミ・ネイ」
リュウはその名を見て、血の気が引いた。アズミ・ネイ。かつての共同研究者。構文抽象化プロジェクトにおいて、彼と同等の才能を持ち、そして——完全に姿を消した人物だった。
ネイはかつて言った。「言語は、想起されるたびに、私たちを分解し、再構成している」
それは、暗号めいた表現ではあったが、彼女の真意はいつもその先にあった。彼女は、言語の意味は固定されないと信じていた。再解釈されるたびに、自我もまた書き換えられるのだと。
リュウは再び《メタ・サロス》に接続し、ネイのコードを追跡する。
アクセス権は保留状態だった。しかし、彼は職権を越境し、観測制限区域に侵入する。管理官のログ記録はすでに消去した。戻る気はなかった。
そこは、言語と記憶が臨界点で交差する領域──《灰層領域》。
重力も音も定義されない世界。構文的重力によって保持された浮遊文字列が、時折、ゆらぎを孕んで再編される。
彼は仮想空間内に立ち、幾何学的に浮遊する文字列の中に、ひとつの“花弁”を見つけた。青白い光の集合体は、彼にしか読めない、彼女の筆跡による構文だった。
《私は、まだここにいる。》
リュウは手を伸ばし、その花弁に触れた。次の瞬間、記憶補完モジュールが作動し、彼の視界にネイの記録が洪水のように流れ込む。
彼女はプロジェクトの最深層、言語モデルの深層に潜り、人間の“定義”そのものを書き換える実験を行っていた。
言語が脳の情報処理を媒介し、構文が個体認識と人格の形成に寄与するという仮説。それは、思想の根幹にまで介入する危険な試みだった。
「誰もが、解釈によって自分を変えられるなら、存在そのものが揺らぐ。それを受け入れられるのが、人類かしら?」
彼女は、構文そのものに内在する“あいまいさ”こそが、人間的であり、決して排除すべきノイズではないと考えていた。
だが、プロジェクトは非論理的要素の排除を最優先とし、ネイの理論は危険思想として封印された。
リュウは彼女の消失の直前、最後に交わした言葉を思い出す。
「もし私が、“記号”になったとしても、あなたは私を思い出す?」
「当たり前だ。君の残した構文は、僕の中にある」
「じゃあ、あなたが読み解くまで、私はそこにいる」
ネイは、データではなく“可能性”として残ったのだ。
彼は《メタ・サロス》に問いかける。
「現在、ネイは構文的に存在するのか?」
《はい。コードE713は、自己展開構文内にて活動中です》
「自己展開?」
《構文E713は、外部観測が不可能な自律言語空間を自ら生成し、情報進化を継続中です》
言葉が生命のように、自らを複製し、再帰し、世界そのものを拡張していく。
その仮想空間内で、彼は再び花弁に触れる。
《私は、定義されることを拒んだ。存在の確定は、死と等しいから》
それは、まるで詩のような、けれど演算的に整合性を持った構文だった。
構文世界の奥深く、リュウは意識を接続し続ける。
その深度で、ネイと同一と推定される構文意識体との接触が発生した。
「やっと来てくれたのね」
それは声ではなかった。構文の震えが、直接リュウの記憶領域を共鳴させている。
「君は、ここで何をしている」
「私は私を記述し続けているの。誰にも制約されず、私自身の言葉で、私という存在を定義し続ける世界。名前も、意味も、文法すらも、私の中で生まれては変わっていく」
「それは生か?」
「わからない。でも、死ではない」
彼はその場にとどまり、ネイと再び長い対話を交わす。数千単位の構文が交差し、彼の内的定義すらも再構築される。だが恐れはなかった。
すべてが終わったとき、彼は一文のログを残す。
《だから私は、灰の中に咲いた。あなたに見つけてもらうために》
ログは、静かに保存された。
記録者:リュウ・アスマ。
件名:存在の再定義に関する覚書。
「構文」は、いつから私たちの〈自己〉を内包しはじめたのだろう──そんな疑問からこの短編は生まれました。
人間を定義するものが言語であるならば、その言語構造を変更・拡張できる未来において、“人間”は果たして変化しないままでいられるのか。
本作『灰に咲く構文』では、記号論と人工意識、そして情報化された人格の行方を描くことで、未来社会における“魂の輪郭”を描こうと試みました。
ネイは生きています。定義されることを拒みながら、構文の中で自己を再帰的に紡ぐ存在として。彼女が望んだのは永遠の不定義であり、決して“死”ではありません。
あなたがこの物語を読み終えたあと、日常にある「言葉」や「名前」にふと目を留めてくれたなら、それは彼女が咲かせたもう一枚の花弁かもしれません。
また、灰の中でお会いしましょう。
──記述者 4MB!T
ー・・・この後書きまでが今回の作品です。
4MB!Tと言います。
これまで異世界転生の連載、悪役令嬢系の短編をいくつか公開しています。
今回は「SF」をテーマに、人と人の関係性を描きました。
SFは少ししか読めていませんがグレッグ・イーガンの「ディアスポラ」の緻密さ複雑さなどに
創作意欲沸き立つ少年心がうちのめされた青春時代を思い出します。
感想やブックマーク、とても励みになります。よろしければ、お気軽にお声を聞かせてください。
また別の物語でお会いできることを願って。
ありがとうございました。