夕日
「もう…………別れよ。」
急な発言に、君の髪の感触を味わっていた僕の手は止まった。聞き間違いだと思った。あまりの脈絡のなさに、自分の耳すら信じられなかった。
何か言わなきゃ。何か……何か……。
言葉が出てこない、極限まで引き延ばされた時間が流れる。
不意に、君は立ち上がった
掻き乱された僕の心を河川敷のベンチに置いて、君は駅の方へ一人歩いて行った。
目は必死に君を追ったが、声をかける勇気はすでに失われていて、徐々に小さくなっていくその背中を見ながら、ひたすら回想を巡らせて、過去の僕がしたであろう過ちを探すことしかできなかった。
向こうに広がる青空は鬱陶しいほどにその色を誇示していた。
何がいけなかったのだろうか。
君に告白した去年の春からもう1年が経っていた。
僕らは確かに普通のカップルだったはずだ。
互いに暇だと分かった休日の午後は、電車に乗って小旅行をした。
君は車窓に広がる大きな海に興奮して、それを見て僕は笑った。
橋の下から響くトランペットの音に気を取られ、小石につまずいた僕を見て君は笑った。
そのえくぼが愛おしくて僕も笑った。
僕は、幸せで満たされていた。
もちろん僕の心には隙間なんてなくて、それは君も同じ事だと思っていた。
僕は自己満足の幸せに浸っていたのだろうか。
冷めない体が眠りを妨げる夜は寝静まった町へ繰り出した。
あれは夏が終わりを告げ、肌寒さが僕らを逆撫でていた頃だった。
誰もいない住宅街の空気は澄んでいて、無機質なこの星には僕らしかいなくなったかのように思えた。
車道を横切って、左右を見れば、そこはもう僕らだけの場所だった。
夜遅くとも、未だ光の灯った小窓からは、日常が目一杯こぼれていた。
君はこっちを見て、走り出した。
僕はそれを追いかけた。
街灯がリズムを刻んで僕らを照らし、それはスポットライトのように、小さい僕らの存在を示した。広大な世界の中で、せめて君だけの場所だけでも守れるように。君に追いついて後ろから抱きしめながら、そう考えた。
あの時の僕はわがままで、傲慢で、君のことなんて全く見えていなかったのだろうか。
気づけば、青空が蜘蛛の子を散らすように海へと追いやられ、山には深い赤が大きく陣取っていた。
君から「今すぐ会いたい」と電話が来た時は、鍵だけ握りしめて家まで走った。
こんな住宅街にタクシーなんて来るはずもなく、ひたすらに走った2.5kmは、いつもよりも長かった。
君は玄関で待っていて、ベッドまで待ちきれない僕はその場で君の甘い体を抱きしめた。
猛暑が街を襲った7月の終わりごろ、サウナみたいに高温多湿になった部屋で、エアコンもつけずに耽った。
僕らはただひたすらに熱中していて、脱水症状が出ようが、夢中に求め合うばかりだった。
海水浴に行った時、海の家の端っこの方で、水平線を眺めてタバコを吸う君の横顔は、この世のものとは思えないほど端正で、彫刻のような完璧さを持っていた。
不意にその顔が歪んだと思えば、大きなくしゃみをして、そのあまりの変化に僕は笑いを堪えられなかった。
君の顔はすぐに赤くなって、睨みを効かせた目を僕に送った。
ひたすら溢れ出る思い出に、不幸せな物はなく、この現状に説明をつけ得るものは、僕の記憶には思い当たらなかった。
始まった思案の着地点は見つからず、終にそれは僕の心に巣食う寄生虫となった。きっと僕は、この虫のために行動を制御され、やがて死に至るのだろう。
きっと君はそんな僕に嫌気がさして、こんな強行にでたのだ。
赤みがかった空気は沈み、徐々に闇はその深さを見せた。新月のその夜は星がその分主張をしていた。
僕は膝を抱え込んで、それをただ見ていた。
おそらく、僕の春は終わりを告げた。きっと僕の人生において、ここまで人を好きになることはないだろうし、自分の性格が捻じ曲げられるような、そんな強烈な愛はもうこの先ないのだろう。
向こう岸では、並ぶ住宅に明かりが灯っている。
僕は、騒がしい春の陽気に背を向け、独りごちた。