ステージ5
1
2024/04/20
姉が帰ってくることを、薫は朝食を食べながら知った。
「私は出かけてくるから、倫子とお昼食べててね」
母はそう言って出かけていった。学生時代の友人と、お茶してくるらしい。
(友達か……。……姉さん、何時くらいに帰ってくるんだろ)
食器洗いや洗濯、掃除といった家事をしながら、薫は姉のことを考えていた。
姉の倫子は今年で大学生となったので、一人暮らしを始めている。大学の費用は奨学金を使
い、一人暮らしの費用はアルバイトをして稼いでいる。
高校時代は学業と部活を両立させて家事もこなすという、学生らしからぬ自立力を見せてい
た。なので、母親も心配せずに一人暮らしの許可を出している。
そんなハイスペックな倫子でも、母に隠れて泣いている時があったことを薫は知っている。
その度に薫が倫子を慰めようと声をかけると、大丈夫と言って笑って抱きしめてきた。
(あんなに良くできた姉さんでも、辛いこととかあるんだから……。そうだよ……僕だけじゃ
ないんだ……)
薫が家事を終え、少し前向きに物事を考えていると、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
薫がリビングから姿を現して、倫子は少し驚いている。
「あれ? 部屋にいなかったの?」
「……うん、ちょっと掃除してたんだ」
「そっか。お昼、オムライスでいい?」
「うん。……あ、僕が作ろうか?」
「いいよ。たまには、おねーちゃんのご飯食べたいだろ?」
「……そうだね。じゃあ、お願い」
薫の返事を聞いた倫子は、微笑んでから洗面所へと向かった。
それを見送った薫は階段を上り、自室へと向かう。
(何か……新しいもの……他にないかな……。……でも、始めても結局……僕には続かないか
もしれない……。人に嫌な思いさせて……僕も嫌な思いして……。……姉さんに新しいこと始
める時の……きっかけ? とか聞いてみようかな……)
みたらしをフレンド解除してから、この一週間。薫はパソコンでウィーストリームに上げら
れている動画を見漁っていた。
興味がある、ないに関わらず、何か引っかかるものがないかと見ていたので、自然と考え事
に集中してしまう時も多々あったが。
それでも、何かを探していた。代わりになりそうなものを。
「薫ー! ご飯できたよー」
そんなことを繰り返していると、階下から姉の声が聞こえてきた。
それに反応して、薫はキビキビと動いてリビングへと向かった。
「良い匂い。美味しそう」
リビングに入った薫は、開口一番そう言った。甘い卵の匂いと、ケチャップソースの仄かな
香りが鼻腔をくすぐったからだ。
「そう? ありがと」
倫子は笑顔でカウンターに皿やコップを並べていくので、薫はそれをテーブルへと運んでい
く。その最中、姉の席に食器を並べることが、どこか懐かしく感じた。ほんの一、二ヶ月前の
ことなのに。
そうして、席についた二人は一緒に昼食を食べはじめた。
「最近、何か面白い動画とか配信、あった?」
「いや、あんまり見ないから……探し中。相変わらず、母さんとドラマ見ることが多いかな。
姉さんはどんなの見てるの?」
「私は、もっぱら料理系かなぁ。あとは動物とか……アウトドア系?」
「そっか。メニュー考えるのも楽になるもんね」
「そ。味付けは基本、お母さんに教えてもらったのだけどね」
「そうだね。母さんも姉さんも料理上手だから」
薫は教えてもらった通りに作っても、母の味に似ているだけで、そこまで美味く作れない。
だが、姉は母の味に限りなく近い。同じ手順、同じ味付けで作っても、同じ様なものになるだ
けで、美味しさには姉弟≪きょうだい≫でバラつきが出てしまう。だから、料理は奥が深い。
薫はそう思いながら、母の味を引き継いだ倫子のオムライスを食べていた。
「美味しい?」
「うん、美味しいよ」
「よかった。……ようやくいつもの顔、見せてくれた」
「え……?」
薫はスプーンを止めた。上手く隠せていると思っていたからだ。
「何かあったんでしょ? 学校? ゲーム?」
倫子はスプーンを止めず、軽い感じで訊いている。
「……うん……。どっちも、かな……」
観念した薫は、何をどう話すか考えながら、話しはじめる。
「姉さんは、さ……何か新しいこと始める時……どうする……?」
「どーするっていうのは……そーだねぇ……。やっぱ、少しでも興味のあるもの、とかが基準
かなぁ」
「そう……だよね……。でも……やってみたいこととか、そーいうのがないんだ……。部活に
しても、何にしても……」
「ハマってたゲームは……やめちゃったんだ」
「……うん……。……いろいろあって……」
「……そっか。……でも、やめたくないんでしょ? そのゲーム」
「それは……そうだけど……もう、戻れないんだ」
薫は俯いたまま、ゆっくりとオムライスを食べ進めている。その間に食べ終わっていた倫子
は、食器を持って立ち上がった。
「薫はさ、自分の意見とか考えとか、もっと言っていいと思うよ。薫ばっかりが我慢すること
もないよ」
そう言って、倫子は流しに食器を下げにいく。その背中を見ながら、薫は思った。
(そんなこと言ったって、どうしようもないよ……。もう、ピリオドは続けられないし、他の
ゲームだって……やりたいのなんて……)
薫も食べ終わったので、席を立った。
「コーヒー飲む? それか、何か飲みたい物ある?」
薫がカウンターに食器を置いた時、倫子は食器を洗いながら声をかけた。
「……コーヒーでいいよ」
「オッケー、ちょっと待ってね」
倫子が食器を洗っている間、薫は魂の抜けたような顔で考えていた。もう一度、ピリオドに
ついて。
クラスメイトと会話する機会があったら、趣味などを積極的に訊いた。部活も、少しでも面
白そうだと感じたものは見学したし、体験させてもらった。そういった誘いにも積極的に参加
した。
ゲームだって、今後発売されそうな新作は全て調べた。既存のものも調べた。好きなジャン
ルではないものも調べたし、ゲーム実況者や配信者の動画もチェックした。
そのどれをしていても、ピリオドが頭にチラついた。話題にしたくなるし、情報を調べたく
なる。オフラインイベントも気になるし、アップデートも気になる。普段は見ない、他の人の
プレイ動画も見たくなる。
(……自分に正直に……。僕が我慢することもない……。……でも……)
正直に思うと、薫はシリウスを消して、新しくピリオドを始めようと思ったことが何度もあ
る。だが、それを自分≪シリウス≫が許さなかった。
「お待たせいたしました」
薫が裸のスマホを見つめて考え込んでいると、倫子がマグカップを薫の前に丁寧に置いた。
「ありがと。……そーいえば、スタボでバイト始めたんだっけ?」
「そ。だから、コーヒーの淹れ方も上手くなったよ。……たぶん」
「……うん、美味しい」
「そっか、よかった」
匂いも味わいながらコーヒーを飲む薫の顔を見て、倫子は微笑んだ。
「姉さんは、さ……。……友達に……レズって告白されたら……どう思う……?」
薫は己の中で閃いた直感を信じて、意を決して相談を始めた。
スタボ、相談、シリウス。これらのワードが薫にある作戦を閃かせていた。その作戦名は、
友人≪シリウス≫と自分作戦。
本当は全て自分の相談だが、「友達の相談」という体にすれば自分のことだと思われずに済
む。だが「友達の」や「知り合いの」という話しは、得てして本人ないし、本人が深く関わっ
ている話しだ。それならば、と薫は自分の相談も織り交ぜるという形を取り、本当のことを煙
に巻こうと考えた。
薫は脳内で言葉を選び、手繰り寄せるように相談内容を決めていく。
「えっと……それは……レズの友達から私が告白されたら、付き合うか? ってこと?」
倫子は驚いた表情で足を止め、薫に聞き返している。
「それもあるし、打ち明けられたらどうするってことなんだけど……。その……告白……され
ちゃって……」
薫は言いにくそうに話した。本当のことなど言えるわけもないので、嘘を吐くのは仕方ない
が、どうしても後ろめたく思ってしまう。
「……マジか……」
倫子はそう呟きながら、自分の席に座った。驚きのあまり、自分の分のコーヒーに口をつけ
ず、薫をまじまじと見ている。
「そうだなぁ……。……どのくらい仲良いかによる……わけでもないなぁ。私、男好きだし。
薫も、女の子好きだよね?」
「う、うん……。だから……断りたいんだけど……断りにくくて……。どうすれば、なるべく
傷つかせないかなって……」
「難しいし……辛いことだけど……やっぱり、正直に女の子が好きって言っちゃうしかないん
じゃない? 仲良い友達なんでしょ? ……なら、変に期待を持たせるより、ちゃんと薫の気
持ちを伝えた方がいいと思うよ」
「……それで、友達関係が終わっちゃっても……?」
薫は上目遣いで倫子を見るが、倫子はしっかりと薫を見つめている。
「うん。辛いとは思うけど、その友達のことを想うなら。きっと、ズルズル付き合う方がその
子にとって辛いと思うから」
その通りだ。自分の考えは間違いじゃなかった。
薫はそう思って、次の相談に話しを進める。
「……僕は大丈夫なんだけど、姉さんはそういう話しされても大丈夫……? その……気持ち
悪い……って、感じない?」
倫子は表情を真剣なものから少し緩め、コーヒーを一口飲んでから答えた。
「私は大丈夫かな。……たぶん、身近にいたし」
「えっ、そうなの……!?」
「うん。告白まではされなかったけど、明らかに距離の近い子とか、距離を縮めたがってる子
とか……一学年に一人はいた感じかなぁ」
「それで……どうしたの?」
「どうもしないよ。距離を置いたりもしないし、気持ち悪がったりもしない。他の子と同じよ
うに接してたよ」
「そっか……。周りの人たちは何か言ってたり……気にしてたりした?」
「まぁ……陰口言ったり、からかったりする奴はいたけど。だから、私は逆にその子たちと距
離取ったよ。だって、別によくない? 誰が誰を好きで……は、気になるけど……それが異性
でも同性でも。なんも迷惑かかんないじゃん。……いや、かかる場合もあるか」
倫子は少し困ったように笑っている。その笑顔を見て、薫は自分の心が軽くなっていく気が
した。
「そうだよね……うん……!」
「ちゃんと伝えられそう?」
倫子は薫の表情を見て、笑顔のまま訊いた。
「……もう一個、いい? ……もし、自分の気持ちを伝えて……受け入れられなかったりした
ら……どうすればいいと思う……?」
その問いに、倫子は微笑みながらも真剣な眼差しで答える。
「その時は……しょうがないって割り切るしかないよね。そこで無理して付き合っても、お互
いに良いことはないと思う。じゃあ、嫌われたり、スッパリ喧嘩別れする、とかじゃなくて、
距離を置くのがいいと思うんだ。時間が経てば、互いに歩み寄れるかもしれないし。それに、
そっちの方が楽でしょ?」
「……うん……!」
薫の中で合点がいった。自分と気が合わない人とは距離を取る。スタークロニクルオンライ
ンをやっていた頃も、つい最近も、そうしていた。
薫は自分の中でブレていた処世術を思い出した。
いや、新たに姉が授けてくれた。自分の気持ちを押し引きし、合わないのなら距離を置く方
法。これならば、相手が傷つく可能性が減り、自分の傷も減る。
「悩み、少しは晴れた?」
「……うん。ありがとう、姉さん……!」
そう言って、薫は微笑んだ。それに倫子は満足げに頷き、コーヒーを飲んだ。
2
2024/04/20
薫は再びピリオドをプレイする決意をした。
奇しくも、ちょうどピリオドをやめようと思った二週間前と同じ時刻だ。
(……ヒロは、みたらしさんに関わらなければ続けてもいいって言ってた。でも……無視はし
ない……! 偶然出会っちゃったら……正直に話す! 僕の気持ちを……! そうだよ……逃
げちゃダメだっ! ……シリウス……僕に力を貸してくれっ!)
薫は自らを鼓舞するように頭の中で台詞を唱え、席に着いた。
アプリの起動中にイヤホンを耳に付け、スマホを準備。ピリオドが開いたらスマホのアプリ
と同期し、ログインする。
いつもやっていた準備ルーティーンだ。それが懐かしくもあり、緊張する。
(ごめんね、シリウス。お待たせ……。もう一度、一緒に始めよう……!)
薫はシリウス≪自分≫に謝罪してから、ピリオドの扉を開けた。
画面の暗転後に広がる、石畳が敷かれた円形の広場。その、はじまりの広場に着くなり、シ
リウスは周囲を見回した。
(……みたらしさんも……ヒロもいない……。よかった……。じゃあ、まずは――)
「すみません、シリウスさんでお間違いないですか?」
シリウスが一息ついたのも束の間、知らない人物から自分に向けてチャットが飛んできた。
普通に声をかけられることは今までに何回かあったが、名指しとは驚きだ。嫌な予感がしな
がらも、シリウスはチャットを返す。
「はい、そうです。あなたは……?」
「私は白縫≪シラヌイ≫という者です。普段はワンハンドメイドの初心者支援と勧誘をしてい
るのですが、今回はシリウスさんにお伝えすることがあって、声をかけさせてもらいました」
黒いスーツの様な服装の老紳士風な姿をしている白縫は、その姿に似合った丁寧な口調でシ
リウスに事情を説明した。
「カドゥケウスさんが、私に?」
「はい。会いたい、と伝えてほしいと仰っていました」
カドゥケウスとは、チーム「ワンハンドメイド」のリーダーだ。ピリオド内で最大級のアイ
テム製作系チームのリーダーに会いたいと言われ、シリウスは困惑した。
「なぜ、私に会いたいのか聞いていますか?」
「いえ。アスカも会いたがっている、と言えば判る、とだけしか聞いていません」
その名前を聞いて、シリウスの頭に電流が走った。
「わかりました。カドゥケウスさんに今から会いに行くと伝えてもらってもいいですか?」
「わかりました」
白縫がメッセージを送ってくれている間に、シリウスは思い出していた。クローズドベータ
テストの時の、あの出来事を。
(でも……なんで今なんだ? 二週間ピリオドから離れてたのに、どうして……? アプデで
プレイヤー検索機能でも入ったのかな……)
「メッセージを送っておいたので、私たちのホームに行っていただいていいですよ。ほとんど
のメンバーはシリウスさんの話しを聞いていますので、案内してくれると思います」
シリウスがシステム面のチェックをしようとした時、白縫から声がかかった。
「ありがとうございます。じゃあ、お邪魔します」
そう返事をしたものの、内心ではかなり驚いていた。
(そんなにいろんな人に声かけてるの!? ……プレイヤー検索機能なんてついてたら、直接
メッセージ送ればいいから、やっぱり違うな。……じゃあ、本当にアスカが見つかったから、
それを伝えたくて僕を探してるのかな? ……でも、そうなると……みたらしさんとも……)
クローズドベータテストが終わる時、四人は約束していた。「再び、ピリオド≪この世界≫
で会おう」と。
だが、互いに探し合わず、運命の導きに従うと言っていたのは、当の本人だ。それを、チー
ムメンバーに手伝わせてまで探すというのは、おかしな話しだ。
心変わりしたのか、それとも事情があるのか。
シリウスはそう考えながら、拠点大通りを真っ直ぐ歩いてゆく。
そうして、シリウスは大きな十字路に差し掛かった。
右に行けば、フィールドやダンジョンへと繋がる転送門の広場に出る。左に行けば、女神の
広場や城壁が存在する居住地エリアへと出る。
シリウスが向かう場所は、そのまま真っすぐ歩いた先にある、上位チームのホームショップ
が並ぶ区画だ。
大通りと同じく左右にホームショップが広がり、プレイヤーたちで賑わいをみせているが、
連なる店や対面の店が同じチームのホームショップである部分が大通りと違う。
拠点貢献度が上位十番以内に入るチームは、ほとんどの場合ホームショップを二つ以上運営
している。
拠点貢献度とは、拠点に対しての寄付額や有益な施設の建設などで上昇
していき、その上位十番目までがチームと個人で分かれて、名前のみ公表されている。
なので、そのチームたちがこの通り――通称、ランカー通り――に軒を連ね、中・上位プレ
イヤーたちを対象にした商いに勤しんでいる。
その中で最奥に居を構え、ホームショップの数も十二と、群を抜いたチームが存在する。そ
れが、貢献度ランクトップのチーム、ワンハンドメイドだ。
(ここに来たら、空気感が変わるもんな……)
シリウスはランカー通りの奥地に足を踏み入れ、久しぶりにその感覚を味わった。
遊園地やテーマパークの一帯や、土産屋に入った時のように好奇心をそそられ、思わず財布
の紐が緩むような感覚。それがワンハンドメイドのホームショップからは醸し出されている。
ギリシャ神話に出てくるような、白亜色の神殿をモチーフに作られた屋根。そこに掛かる看
板は、武器屋なら剣、防具屋なら鎧といったように、その店を象徴する品物と一緒に並んでお
り、それが淡い後光を放っているので、何の店だか一目で判るようになっている。
ワンハンドメイドのホームショップとして統一感があるのは、そこまでだった。
ショップ内のレイアウトやディスプレイは各店の特徴や色が出ており、そのどれもが何とも
絢爛な佇まいをしている。
その光景を久々に見たシリウスは思わず立ち止まって、商品チェックをしようかと思った時
だった。
「もしかして、シリウスさんですか?」
この区画の一番手前にある武器屋の中から、チャットが飛んできた。シリウスに向けて打た
れているので、チャットの字体が大きくなって強調表示されている。
おそらく店員の発言だが、気になってそのチャットにカーソルを合わせると、やはり店員が
点滅した。
「やっぱり、聞いてた通りだ」
武器屋の対面にある防具屋の中からも、シリウスに向かってチャットが飛んでくる。こちら
も確認したら、やはり店員のものだった。
「カドゥケウスさんに会いに来ました。このまま一番奥に行けばいいでしょうか?」
誰に返そうか迷ったシリウスは、どちらにも見えるよう前方向にチャットを打った。
チャット――サブタイトルチャットには、ミュート機能や対象同士間のみでの会話機能は実
装されていない。だが、誰に、どの方向に発言するかを選ぶことができるため、ある程度なら
会話したい対象を絞れる。また、汎用スキルの<集中>を使えば、聞きたい方向の話しのみ鮮
明に聞くこともできる。
「はい、大丈夫ですよー」
「もう来てると思うので」
「ありがとうございます」
シリウスは再び前方向にチャットを打って、そそくさとその場を離れた。周囲の客たちもこ
ちらに注目していて、恥ずかしかったからだ。
「もうカドさん来てますよ」
「ボスはお待ちですぜ」
奥に向かうシリウスに、左右からチャットが飛んでくる。
皆、親切心で声をかけてくれているのだろうが、やはり恥ずかしい。それと同時に、特別な
イベントに遭遇している気がして、少しだけ心が弾む。あの時のように。
薫は血液とは違う何かが自分の身体を巡っている気がして、シリウスが生きていることを実
感した。
(僕がシリウスってバレてるのは、この帽子のせいかな……)
シリウスは面が割れていることに心当たりがあった。というのも、今被っている帽子はここ
で作られた装備の一つであり、イベントアイテムなので特注に近い。
作ったのも一ヶ月程前なので覚えていてもおかしくはないが、レイドボス(多人数で戦うこ
とが前提の強力な敵)の報酬なので、製作した数はそこそこあるはずだった。
(それも……聞けば分かるか)
シリウスは期待と少しだけの不安を抱えて、区画最奥へとやってきた。通りの行き止まりに
は一軒のホームショップがあり、そこだけが厳かな気配に包まれている。
それは、祭りや祝宴の席などで不意に人の輪から外れた時に訪れてしまった、神社や寺、教
会の静けさに似ていた。
統一された屋根たちは、ここから来ていたと納得させられる程の荘厳さを誇る、白亜の神殿
がそこにあった。
床は大理石の様な美しい模様と光沢を放つ石でできており、天井から降り注ぐ光を反射して
いる。左右の壁際はガラス張りのショーケース風になっていて、様々な武具、魔道具が閲覧で
きる。まるで美術館や博物館のようだ。そして、部屋の中央には古代文字と神を表しているで
あろう絵が彫られた石板が安置されている。石板も屋根や柱と同じく、白亜色の石で作られて
いる。
(こんな石板ができたんだ……。前は台座と……棺? だったのに)
「ようこそ、シリウスさん?」
シリウスが神殿の入り口で思い返していると、神殿の奥へと続く通路から突如チャットが飛
んできた。
「はい、そうです。カドゥケウスさんに会いに来ました」
「あぁ、やっぱりあなただったのね」
返事と共に姿を現したのは、七色に輝く虹の羽衣を身に纏った女性だった。
流れるような金の長髪に、白銀色のローブを優雅に着こなす姿は、まさにこの神殿に住まう
神のようにも見える。
「あなたがカドゥケウスさんですか?」
「その通りよ、シリウスさん。お久しぶりね」
シリウスがこの帽子をワンハンドメイドで作ってもらった時は、カドゥケウスには会ってい
ない。つまり――
「エメスさん、ですよね?」
「ご明察。覚えててくれて嬉しいわ」
「忘れるわけないですよ。もう一度会いたかったですし」
「私もよ。せっかくだから、ボイチャで話さない? その方が詳しく話せるけど」
「分かりました」
そう言って、シリウスはカドゥケウスにパーティー申請を送った。
「……聞こえる? シリウスさん?」
パーティーとなり、ボイスチャットを繋げたカドゥケウスの声が聞こえてくる。自分より年
上に感じる、キーは高いが落ち着いた女性の声だ。
「はい、聞こえます。……エメスさんと話せる日が来るなんて……ちょっと感動してます」
「今はカドゥケウスになってしまったからね。あの頃が懐かしいわ」
あの頃は、三人でよく冒険した。イベントが発生すれば、アスカたちとも一緒に冒険した。
シリウスにとっては、その全てが鮮やかな記憶だった。
「……あの頃の約束、覚えてますか?」
「ええ、もちろん。……ごめんなさい。アスカの名前は、あなたに興味を持ってもらいたくて
出してしまったの。私もまだ会えてないわ」
「そうなんですね。……いえ、そんな気がしていたので」
そう言いつつも、心のどこかでシリウスは期待していた。NPCのアスカたちが自分たちを
覚えていて、会いたい、もしくは連れてきてほしいと言っているのかと。
「……もし、会っていたとしても、あなたたちには自力で見つけてほしいと思っていたわ。む
こうも私たちのことは覚えていないでしょうし」
「そう、ですよね……。ということは、それ以外で何か大きな問題があって、私を探していた
んですか?」
シリウスは覚悟を決めて話しを進めた。恐らく、みたらしかオフラインイベントが関係して
いると予想していたからだ。後者で力を貸してほしいと言われたら、肩の力を抜いて協力しよ
うと考えている。だが、前者だった場合は……。
「良く覚えてくれているのね。素晴らしいわ。……私もどうしようか迷ったの。こういう形で
の再会は望んでいなかったから。もっと偶然に……運命的にしたかったから。でも、これもあ
る意味、運命なのかもしれない」
「……みたらしさんが関係してるんですね……?」
「やっぱり……。あの子の名前を出したら、あなた来なかったでしょ?」
「……はい」
どちらか判らなかった。みたらしが自分を探しているのか、ダンゴが監視しているのか。
みたらしは性格的に、こんな大々的に捜すことはできない。ましてや、カドゥケウスがエメ
スと気づいていないのに。
だが、ダンゴ――弘樹なら可能性はある。元々の行動力の高さに加え、妹を守ろうという強
い意志がそれを後押しして、ピリオドの有名なプレイヤーやチームに声をかけたのかもしれな
い。約束通り、決定的なことは言っていないと思うが、現状のように多数のプレイヤーの目に
つくように仕向けているのかもしれない。
「どうして何も言わずに、みたらしさんの前から消えたの?」
カドゥケウスの声は、トーンは変わっていないものの威圧感が増している。静かに尋問され
ているようにシリウスには感じた。
「……ある人との……約束で……。……ピリオドをやめようと思い……それで……みたらしさ
んをいつまでも待たせるわけには……」
いかなかったから。だから、消えた。それを何故、カドゥケウスは知っているのか。
ただでさえ小声だったシリウスの声が、疑問が生じると同時に消えていった。
「その人との約束を聞かせてもらってもいい?」
「そ、その前に……どういった流れで私を捜すことになったのか、教えてもらえませんか?」
「わかったわ。その代わり、約束、というものも絶対に聞かせてね?」
「……わかりました」
みたらしからも、カドゥケウスからも、ピリオドからも、もう逃げるわけにはいかない。
ぶつけよう、自分の想いを。
そう自分に誓ったシリウスは、一言一句漏らさぬようカドゥケウスの話しを聞いた。
3
2024/04/1X
みたらしは何度も考えたが、やはりこれ以上の案は出てこなかった。
はじまりの広場や女神の広場でシリウスを待ちながら、みたらしはいろいろなことを考えて
いた。
シリウスを待つか待たないか。独りで冒険するかしないか。アイテムの物価をこれまで通り
毎日チェックするべきか否か、などなど。
その中で、シリウスを捜すならどうするべきか考えていた時に、この案が浮かんだ。
ワンハンドメイドに協力してもらうこと。この最上案が。
ピリオドにおいて中・上級者としてプレイするならば、ワンハンドメイドはもはや避けては
通れない存在となっている。よって、シリウスがピリオドを続ける気があるのなら、確実に姿
を現すはずだ。
仮にシリウスが装備や見た目をガラリと変えても、名前だけは変えられない。たとえ偽名を
名乗ろうとも、商品などの購入・製作履歴には必ず本名が残る。
もう一つ仮に、薫がシリウスを消去して、新たなキャラクターを作る場合も考えられる。そ
の場合は捜索が極めて困難になるので、諦めるしかない。
(でも、諦めたくないよ……! でも……)
みたらしは拠点大通りの十字路で立ち竦んでいた。あと一歩、勇気が出ないからだ。
シリウスの捜索を頼むには、ワンハンドメイドに多少の手間をかけてしまう。
履歴を都度確認してもらうことや、本人が来た際にはチャットで声をかけてもらうことなど
を考えているが、それは面倒とも言える。もちろん、みたらしもワンハンドメイドに迷惑をか
けると思っている。
(やっぱり……私がチーム員になって、働きながら捜すしかないよね……)
それが一番筋が通った頼み方だと、みたらしは考えていた。しかし、それをリーダーの人が
許可してくれるか、そもそも一員になる条件を満たしているのか、根本的な問題として手伝っ
てくれるのか、などなど。考え出したらキリがないと言える。
(……、……いかなきゃ……。いかなきゃ……シリウスさんと逢えない……。大丈夫……ボイ
チャ繋がなきゃ……女の人に頼み込むと思って……)
みたらしは少しずつカクカクと動きながら、大通り最奥の区画へ向かおうとした、その時。
目の前を颯爽と通り過ぎる、虹色の光を見た。
(え……今の……!)
みたらしは知っている。人混みに紛れようにも紛れられない、その神々しい後ろ姿を。
それを追いかけるように、みたらしは駆け出した。
前方では左右からチャットが飛び交ってきている。「おかえりなさい」と。そして、それに
応えるように七色の女性は「ただいま」とチャットを打っている。
(やっぱり、そうだ……! カドゥケウスさんだ……!)
幸運の女神。渡りに船。他のプレイヤーに声をかけなくて済む。
みたらしは直談判するチャンスを逃すまいと、他のプレイヤーを避けつつ懸命にカドゥケウ
スを追った。
だが、このままではホームショップに入られて、チームルームに行かれてしまう。そうなる
と、こちらからコミュニケーションが取れない。
「カドゥケウスさん、待ってください!」
意を決したみたらしは、チャットでカドゥケウスに声をかけた。それに反応したカドゥケウ
スは、こちらに振り返った。
「お願いします、少しお話ししたいことがあるんです」
高速でチャットを打ったみたらしは、立ち止まっているカドゥケウスに近づいていく。
「何かしら?」
カドゥケウスの神々しい姿に気圧されつつも、みたらしは頭をフルスロットルで回転させな
がら文章を打ち込んでいく。
「お願いしたいことがあって、声をかけさせていただきました。私はみたらしといいます」
その文章を見て、カドゥケウスは固まっている。そして、みたらしが少し不安に感じるくら
いの間が空いた後、パーティー申請がきた。
「嘘じゃないのなら、受けて」
みたらしには何のことか判らないが、嘘など吐いてないので申請を許可し、カドゥケウスと
パーティーを組んだ。
(……。……私に気づいて声をかけてきた、という訳ではなさそうね……)
カドゥケウスは思案していた。ここで自分の正体をバラすかどうかを。
「あの……カドゥケウスさん?」
「お願いしたいことがあるのよね? いいわ。移動した後、聞きましょう。何でも言ってちょ
うだい」
カドゥケウスはパーティー用のチャットを打った。これなら誰かに聞かれることもない。
それに合わせ、カドゥケウスは自分のホームショップへと移動していく。周りのチャットが
見えなくなる位置――ホームショップ内部の石板の裏まで来たところで、カドゥケウスは足を
止めた。
「さぁ、どうぞ」
「わかりました。なるべく簡単に説明しますので、よろしくお願いします」
そう言って、みたらしはカドゥケウスに事情を説明した。
シリウスから急にフレンド登録を解除されてしまったので、その理由を聞きたいから捜した
いということを。そして、そのためにワンハンドメイドに協力してほしいと。その見返りとし
て、捜している間はワンハンドメイドに在籍させてもらって、チームのために働きたい、と。
そこまでの説明を黙って聞いていたカドゥケウスは、複雑な感情と共に自分の答えを練り上
げようとしていた。
みたらしとシリウスは既に再会して、パーティーを組んでいた。少し羨ましかったが、それ
はいい。問題は、そんな運命的な出会いをしておきながら、何も言わずに去ったところだ。彼
はそんなことをする人間ではないと思っているし、みたらしもそれに同意見だ。ならば事情が
あるのだろう。自分もそれが聞きたい。本人の口から。
「ボイチャ繋げられるかしら? 嫌なら、このままで構わないわ。それで私の返事は変わらな
いから」
それを受け、みたらしは少し間を空けた後、カドゥケウスに話しかけた。
「……もしもし? 聞こえますか……?」
てっきり少女だと思っていたカドゥケウスは、みたらしの声を聞いて少し驚いた。
「……はい、聞こえていますよ。改めて、よろしくね。みたらしさん」
「はい……よろしくお願いします……!」
ボイスチェンジャー機能を使っても、流石に男性がここまで良い声の女性にはなれないだろ
うと思い、みたらしは安堵と共に少し緊張が解けた。
「それで……シリウスさんの外見や装備に、何か特徴的なものはあるかしら?」
「……はい。ここで作っていただいた帽子を被っています。朱色の。その時に……僕のこの服
も作ってもらったんですけど……」
そのことを聞いて、カドゥケウスは自分の記憶がカチリと組み合わさった。
「ねぇ……それって、蒼炎の巨鳥イベの時の報酬よね……?」
「そ、そうです! もしかして、覚えてるんですか? かなりの人がワンハンドメイドさんに
協力してたのに……」
「えぇ、覚えてるわ……。細部までは分からないけど……ふふっ」
カドゥケウスは自分の未熟さに思わず笑ってしまった。
協力してくれたプレイヤーの姿と全アイテムを覚えようとしたあまり、大事な出会いを見逃
していたなんて。全体像ばかりみて、細部を捉えていなかった。
「……カドゥケウスさん?」
そんな事情を知らないみたらしは、不安気に声をかける。
「あぁ、ごめんなさい。私って愚かだと思って……。その贖罪をさせてちょうだい。私たちワ
ンハンドメイドは、みたらしさんに全面的に協力するわ。あなたがチームに入ることもない。
チームのみんなにシリウスさんの外見を説明した上で、購入履歴もチェックする。見つかった
ら声をかけるわ」
カドゥケウスの提案に、今度はみたらしが沈黙している。
もしかしたら、不意に笑ったことに不信感を抱かれたのかもしれない。カドゥケウスがそう
思った時、みたらしは衝撃的な言葉を口にした。
「……その……もしかして……エメスさん……ですか?」
「え……!? え、エメス……?」
不意を突かれたカドゥケウスは、狼狽しながらオウム返しすることしかできなかった。
「……覚えてませんか? ……私たちのこと……」
みたらしの少し震えた声を聞いて、すぐさまカドゥケウスは本当のことを言う気になった。
「それはズルいわ、みたらしさん。忘れるわけないじゃない……!」
「え……。……エメスさん……!」
「どうしたの? ……ちょっと、泣かないで……良い子だから……」
途端にすすり泣く声が聞こえてきたので、カドゥケウスは目頭を熱くさせながらも、慌てて
みたらしをあやした。
「大丈夫よ」「どこにも行かないから」「不安だったのね……」
カドゥケウスは優しい声でみたらしを励ました。それしかできないからだ。
次第にみたらしは、その温かい言葉に小声で反応するようになってきて、静かに落ち着きを
取り戻した。
「……ごめんなさい……」
「いいのよ……何を謝ることがあるの。大丈夫よ」
「……ありがとうございます……。本当にエメスさんだったなんて……。シリウスさんと二人
で会いに来たかったなって思ったら……その……」
「分かるわ。もっと運命的に……ドラマチックにしたかったものね。そうだ、何で私がエメス
だと判ったの?」
「……話し方、です。前はチャットだけだったけど、雰囲気と言葉遣いは変わらなかったし、
想像していた通りだったから……」
「……素晴らしい答えだわ。それだけで……もう満足……!」
カドゥケウスは感動に打ち震えて耳を真っ赤にしながら、再会を祝してみたらしにフレンド
申請を送った。
「よく考えてみたら、これも充分感動的な再会だものね」
「……はい! ありがとうございますっ!」
みたらしの元気の良い声を聞いて、カドゥケウスは安堵したと同時にやる気が湧いてきた。
「じゃあ、今から計画を練りましょうか。シリウスさん捕獲作戦のね……!」
「は、はい……!」
カドゥケウスの静かながらもヤル気に満ちた声に、みたらしは少し不安を覚えた。
4
2024/04/20
シリウスは胃が締めつけられたようだった。
カドゥケウスはみたらしがどれほどの衝撃を受け、嘆き悲しみ、自らを責めたかを語った。
少々自分の感情も重ねながら。
「……それでも、あるんでしょう? みたらしさんに何も告げずに去らなければならなかった
事情が……約束とやらが。それを聞かせてちょうだい」
「それは……。……あります……! でも、これは自分の口で……みたらしさんに伝えないと
いけないんです。エメスさんには申し訳ないんですが……みたらしさんに伝えた後に、必ず話
します」
「……私に話せない理由は?」
「……みたらしさんの……ご家族が関わっているので、まず先に話して……どうなるか……」
「……分かったわ」
シリウスが重々しく理由を話すと、カドゥケウスは納得したように態度を和らげた。
「じゃあ、みたらしさんと話す時間を決めましょう。みたらしさんがインした時に私が伝えて
おくから」
「……わかりました。今日の21≪く≫時でお願いします。……私は21時にログインして、
そこからずっと女神の広場で待っていると伝えてください。みたらしさんは都合の合う時間に
インしてください、と……」
「ええ、分かったわ。今日の21時ね。……みたらしさんは21時に来ると思うわ。あなたに
逢いに」
そう言うと、カドゥケウスはシリウスにフレンド申請を送った。
「……ごめんなさい。本来ならこんな再会の形じゃなくて、二人でエメスさんに会いに来れれ
ばよかったんですが……」
「……そうね……。でも、あなたは逃げずに戻ってきてくれた。それが重要よ。だから、みた
らしさんとしっかり向き合ってきて」
事情が把握しきれていないカドゥケウスには、このくらいしか助言できなかった。
「……ありがとうございます。……たとえ、どんな結果になってもカドゥケウスさんには報告
に来ますので、待っててください」
「分かったわ。……二人一緒に来てくれることを祈ってるわ」
「……はい……! それでは……」
シリウスは決意を込めた返事をし、ログアウトした。
現在≪いま≫は夕方。21時までにやるべきことを済ませておくべく、薫は立ち上がった。
トイレや風呂の掃除をしながら、薫はカドゥケウスとの会話を反芻していた。
(まさか、みたらしさんにそんな行動力があったなんて……。僕も見習わなきゃ。……やっぱ
り、兄妹で似たとこがあるのかな。僕と姉さんはどっちかっていうと正反対なのに……。僕な
んか……待ってなくてもよかったのに……)
眼下に映る浴槽が濡れる。薫には、みたらしがどれだけ辛い思いをしながら動いていたか、
分かっていた。
ようやく男性に慣れてきたなかで、自分から慣れないコミュニケーションを取ってカドゥケ
ウスに協力を頼んだこと。そこに至るまでの葛藤。それ程までして捜したシリウスには、何を
言われるか判らない恐怖と不安。
そして、実咲が期待しているであろう答えを、薫は持っていないこと。
それらを想うと、薫の頭と胸は締めつけられるように痛んだ。
(……でも……エメスさんとフレンド登録してるなら……僕を除いて二人でピリオドできるか
ら……二人で、じゃないか。もうエメスさんは、カドゥケウスさんだもんね……)
シリウスは自分がいなくとも、ワンハンドメイドのメンバーとしてピリオドを楽しむみたら
しの姿を想像した。それだけが唯一、心を軽くしてくれる。
そこに自分もいて、三人でピリオドを遊ぶことができたら……。
そんな世界線も想像しながら、薫は黙々と涙を流しながら風呂掃除を進めた。
すると、玄関のドアが開く音が微かに聞こえる。母親と倫子が買い物を済ませて帰ってきた
ようだ。
(いけない……。切り替えなきゃ……。ちゃんと喋れるように……!)
薫は洗面所に顔を出すであろう母と倫子に心中を察されぬよう笑顔を作り、濡れた手で顔を
拭った。
そうして、薫が久々に家族三人で過ごした後――20時50分。
薫は席に着いて、ピリオドを起動した。
(大丈夫……。もう、嘘はつかない。自分の気持ちから……みたらしさんの気持ちから逃げた
りしない……! これで関係が終わったっていい……)
ログインはしたが、スマホのアプリは起動しない。シリウスの姿で、薫の声で気持ちを伝え
る。あの時のように。
そう想いながらシステムのブロック欄を開き、みたらしを解除する。
これで準備は整った。シリウスは女神の広場に向かう。
「ッ!」
シリウスはみたらしを待っている間に、話しの順序を整えようと考えていた。それなのに、
彼女はもういつものベンチに座っている。
いつから待っているのかは判らない。そんなことを考える間も作らず、声をかけることも忘
れ、シリウスは速やかに隣に座った。
「お待たせしました」
予測変換を駆使し、最速でチャットを打ったシリウスは、そのまま流れるようにパーティー
申請を送った。
みたらしは返事を打たず、静かにパーティーに入った。
「……聞こえますか?」
みたらしからの返事はない。
パーティー申請を受けたのだから、離席しているわけではない。そう思ったシリウスが、も
う一度声をかけようとした時。
「……聞こえます……」
か細い実咲の声が返ってきた。
「……ごめんなさいっ! 黙って消えたりして! 全部僕のせいなんです! だから、みたら
しさんはちっとも悪くないです!」
「……どういう……じゃあ……どうして……?」
思った以上に切迫した勢いに、みたらしは戸惑いながら理由を訊いた。
「その……スタクロの時からのことなんで……長くなっちゃうんですが……」
「……聞かせてください」
シリウスは先程の勢いとは打って変わって、申し訳なさそうな重い雰囲気で全ての事情を順
番に語ってゆく。それをみたらしは静かに聞いていた。
「僕がオフ会を嫌がっていたのも……それが理由なんです。その時のように女の子のふりをし
てるわけじゃないですが、みたらしさんも迷われていたように……。だから、あの時のことを
思い出して、性別を明かそうと思ったんです」
「そうだったんですね……」
上手いとは思っていたが、まさか本当に女性を演じてたことがあったなんて。
実咲は驚きながらも、複雑な気持ちだった。もし、自分がシリウスに同じことをされていた
ら、男性恐怖症が酷くなったかもしれない。そう思うと、相手のせいだとは言えなかった。
「……その時の相手が……みたらしさんのお兄さんだったんです……」
「……え?」
みたらしはシリウスの言葉に衝撃を受けつつも、何となく話しの繋がりを理解しはじめた。
「だから……今回も……嘘を吐いてみたらしさんに近寄ってるって誤解されちゃって……。そ
れで……みたらしさんに二度と近づかない約束をしたんです……」
みたらしの頭に様々な疑問が浮かんでくるが、脳内を一番占有した疑問は「え? そんなこ
とで二週間もシリウスさんに逢えなかったの?」だ。
「……なにそれ……。そんなの……お兄ちゃんが勝手に決めるなんておかしいよ……!」
「……おかしいことじゃないんです。それだけ……僕は酷いことをしたので……」
「おかしいよっ! シリウスさんは言い出せなかっただけで、お兄ちゃんと友達になりたかっ
ただけじゃない! それなのに、お兄ちゃんはシリウスさんを気持ち悪いって……! 気持ち
悪いのは、下心持ってたお兄ちゃんの方だよ!」
みたらしの語気は、心の底から溢れてきた怒りと共に荒くなっていた。
「……お兄さんのせいじゃないです……。それが……普通なんです……」
「そんなことない! お兄ちゃんが悪いよ! 私――」
「僕にも……下心があったんです……!」
「……え?」
「僕は……本当に……お兄さんが好きだったんです……」
その言葉を聞いて、みたらしは絶句した。
「だから……男だ、って言い出せなく……言い出したくなくて……隠して会ったんです……。
付き合うのは無理でも……友達なら……ずっと傍にいられると思って……」
薫の震えた小声が、それが冗談ではないことを告げている。
まるで事故に遭ったかのような突然の告白を受け、みたらしは完全に止まってしまった。
「……そう……ですよね……。気持ち悪い……ですよね……。でも……僕は……!」
薫は、応えを求めていた。だが、それは返ってこなかった。
「……、……これからは……カドゥケウスさんと……ピリオドを……楽しんでください……。
僕のことは忘れてください……。カドゥケウスさんにも……近づかないようにするので……。
その……じゃあ……今まで……ありがとうございました……。……楽しかったです……」
「……私も……楽しかった……」
実咲は本心から言葉を絞り出した。
「ありがとうございます……! じゃあ……さよなら……!」
薫はそれだけで充分だった。負の言葉≪かんじょう≫ではなく、正の言葉が聞けただけで。
「……。……ま――」
薫は初めて、みたらしより先にログアウトした。最初にして最後。その感覚が、目の前から
みたらしごと消えた世界が、徐々に実感へと変わってゆく。
薫の目から、堪えていたものが流れた。
放心状態でイスに寄りかかりながらも、不思議と虚無感はしない。痛みはあるし、辛く苦し
い。だが、いっそ清々しくもあった。
デスクトップの輝きに吸い込まれそうだ。待ち望んでいなかったはずなのに、こんな結末は
望んでいなかったはずなのに、夜が明けた気がする。
(……自分の気持ちを伝えるって……こういうことなんだ……)
薫は涙を拭いて、立ち上がった。




