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ステージ4



 2024/04/1X


 実咲は明らかに異常事態だと思っていた。

 ここ三日間、シリウスと連絡がつかない。


 最後に連絡――ピリオド内で逢えたのは、日曜の午前中だ。午後は実咲が両親と映画を観に

行っていたので、それが最後となった。日曜以降、シリウスはログインすらしていない。


 月曜と火曜日は、まだ待てた。とても心配だったが、恐らく風邪を引いてしまったのだろう

と思っていたからだ。


 だが、水曜日になってからは気が気ではなくなってきた。季節外れのインフルエンザ、もし

くは何かしらの重い病気、はたまた事故か。よからぬ想像ばかりが心を支配していた。


 そして、木曜日の夜。みたらしは女神の広場のベンチで座って、シリウスを待っていた。


(今日もインできないのかな……。やっぱり、コールで連絡を……、……でも、彼女でもない

のに……どうしたんですか? 何かありましたか? って連絡するのは……ウザいと思われる

よね……。……でも……!)


 実咲は我慢の限界に達した。心配で心配で頭がどうにかなりそうだった。現実のことがまる

で手につかない。


(シリウスさんは、そんなことでウザがったりなんかしない! 心配だったって言えば、気に

してないって言ってくれるよ! 送ろう、コール!)


 実咲は我慢が爆発した勢いのまま、みたらしを放置してスマホでコールのアプリを開いた。

そして、その勢いを殺さずにキーボード入力で素早く文章を打っていく。


「こんばんは、みたらしです。シリウスさんがインしていないのが心配だったので、連絡させ

ていただきました。返信できる状況でしたら、返信していただきたいです」


 必要最低限の文章だ。これなら大丈夫と思った実咲は、送信ボタンを押した。


 そうして一日が経ち、金曜日の夜。

 実咲はパソコンモニターとスマホを視界に映しながら、茫然としていた。


(既読すらつかない……。きっと何かあったんだ……シリウスさんの身に……)


 実咲は力なくスマホをいじりだす。

 ネットの検索エンジンに「神奈川 事故 学生」などの不穏なキーワードをいくつも入れ、

検索を繰り返した。だが、幸いにも北原薫の名前は出てこない。その名を打ち込んでも、別人

などのブログやSNSが出てくるだけだ。


(お願い、シリウスさん……。返信して……)


 起きてログインしたら、シリウスがインしている。コールの連絡が届いている。辛いことだ

けど、家族の誰かが入院したりして、そのお世話で手一杯だった、とか。


 実咲はベッドに入ったら、連絡が取れない理由を様々に妄想した。そうすることで、祈りな

がらゆっくりと眠りについていくことができた。

 だが、その祈りは届かなかった。


「なんでっ!?」


 実咲は朝イチでピリオドにログインして、思わず声を荒げた。


 フレンド欄からシリウスの名前が消えている。

 実咲はまっさらになったフレンド欄を無視して、アプリの方も確認する。当然の如く、アプ

リの方のフレンド欄も消えている。連動しているのだから、当たり前だ。つまり、エラーやバ

グではない。


 念のためポストワードをチェックしてみたが、不具合の報告やレターなどは無い。


 実咲は心臓の高鳴りが抑えられない。ピリオドにおいて、アカウントが運営にBANされて

勝手に消えることはない。凍結されたとしても、多分連絡がつかなくなるだけで、フレンド欄

には残る。

 だから、シリウスが自分でアカウントを消したことになる。自分でログインして。


 実咲はスマホを手に取ってコールのアプリを開き、北原薫のアイコンを押した。


(どうして……!? なんでピリオドやめちゃったの!? ……聞きたい、直接。シリウスさ

んに何があったのか……!)


 もう細かいことを気にしている余裕は、実咲にはなかった。

 通話ボタンを押した実咲は、食い入るように呼び出し中の文字を見つめた。だが、いつまで

経っても呼び出し音が空虚に鳴っているだけだった。


 実咲は通話終了のボタンをそっと押し、ピリオドからログアウトした。


 その後は、目頭に自然と溜まってきた涙を堪えつつ、ネットやポストワードで「友達 行方

不明 音信不通」などのキーワードを延々と検索した。

 そうしていると、実咲は信じられない可能性にヒットしてしまった。


(え……ブロック……? ……ゴースティング?)


 コールはブロックされたら既読も付かなければ、電話も繋がらない。ピリオドもフレンドを

解除してしまえば、ゲーム内で直接出会うか、IⅮ番号を教えてもらわなければ連絡を取る手

段はない。


 今のところ、シリウスに何かあったのか、ブロックされたのか判らない。だが、ピリオドに

ログインしなければキャラクターを消したり、フレンド登録を解除することはできない。つま

り、後者の可能性が高いということを、実咲は現実として理解しはじめてきた。


 実咲はブラウザを閉じると静かに立ち上がり、ベッドに横たわった。

 重さに引かれて、涙が頬を伝う。それと共に、考えたくなかった想像も溢れてくる。


(……嫌がってたオフ会も無理やり誘って……。お兄ちゃんにも付き合わせて……。めんどく

さい、ウザい奴になってたんだ……。インしたら、いつも付きまとって……。チームとか……

ホームショップも……羨ましがってた……。……私……邪魔だったんだ……)


 どこかのチームに入るにも、人見知りのみたらしが一緒では難しい。そして、日に日に自分

への依存度が増している。だから、このタイミングで姿を晦まそうとシリウスは考えたのかも

しれない。


 もしくは、シリウスも新しい学校で新しい出会いがあったのかもしれない。自分の兄のよう

に。それとも、本当は彼女がいて、その彼女にみたらしから距離を置けと言われたのかもしれ

ない。


 そう考える度に、実咲の気はどんどん堕ちていった。


「実咲ー、昼飯買いに行くんだけど、なんか食べたい物あるかー?」


 遠くから弘樹の声が聞こえる。気づけば、もう11時を過ぎていた。


(お兄ちゃん……、……お兄ちゃん……!)


 実咲は気づいた。弘樹はシリウスを知っている。それに、オンラインゲーム歴も実咲より長

い。こういう時に何ができるか知っているかもしれない。


「お兄ちゃん……!」


 実咲は掠れた声でドアを開けた。


「おいっ、どうしたんだ!? まさか――」


「シリウスさんと連絡が取れないの……」


 泣きはらした顔で実咲は事情を説明した。


「そうか……」


 話しを聞いた弘樹は口の前に右手を当て、眉間に皺を寄せて考えている。


「……言いにくいことなんだけどな、実咲……。オンゲとか……こういうゲームじゃ、少なく

ないんだよ……こーいうこと。仲良くなったと思ったら、急に距離取られたり……連絡つかな

くなったりさ……。現実と違って、簡単だろ? オンラインの関係切るってさ……。俺もやら

れたことあるから、分かるよ」


「シリウスさんは……。……お兄ちゃんは、その後どうしたの……?」


 実咲の悲愴な眼差しから目をそらした弘樹は、俯いたまま答えた。


「……そのまんま、俺もゲームやめたよ……。……実咲は一回会っちまってるから、なかなか

割り切るのは難しいと思う。でもな、オンラインってそんなもんなんだよ。連絡取れなくなっ

ちまったら、相手がどうなったのか……どう思って消えたのか、確かめようがないんだよ。だ

から、信じすぎちゃいけないし、期待しすぎちゃいけないんだよ」


 弘樹はなるべく優しく、諭すような口調で実咲に伝えた。


「……でも……私……シリウスさんなら……!」


 実咲は、やりきれない思いをこぼした。


「……泣かないでくれよ、実咲……」


 弘樹も悲しげな表情で、子供をあやす様に実咲の頭をそっと撫でた。


 それから、数時間後。

 少し気持ちが落ち着いた実咲は、モニターに映るみたらしの前に座っていた。


 いつもならモニターの向こう側にいた自分が、今はどこにも行けなくなってしまった。

 何をしても無意味。時間の無駄。願ったり望んだりした結果など、決して訪れない。


 虚構、虚飾に満ちた空間だからこそ楽しく、現実を忘れた先で空想≪好きなよう≫に生きら

れただけ。もう、決別する時が来たのかもしれない。向き合う時が来たのかもしれない。


 マウスポインターをシステムに合わせれば、一番下の欄に「キャラクターの削除」がある。

実咲は膝の上に置いたままだった手を、マウスに重ねようとした。


(……アンインストールでもいいかな……。でも……)


 実咲にとってみたらしは自分でもあり、戦友だ。この半年、いろんな冒険をみたらしと、シ

リウスと乗り越えてきた。そのみたらしを消すことには、どうしても抵抗がある。


「友達の……みたらしさんの力になりたいです!」


 その時、シリウスの声が聞こえた気がした。いや、前にトークバックで聞いていた、みたら

しの声かもしれない。


 これが妄想だって何だって構わない。諦めきれない。

 それが実咲の心が出した答えだった。


(今でもはっきり聞こえる、思い出せる……シリウスさんの声。ずっと一緒だった。いろんな

こと話して、相談して、攻略して……楽しかった。でも、シリウスさんにはそれが重く感じて

たのかもしれない……。でも……それでも……私はシリウスさんの言葉を信じたいよっ! 嫌

な思いをしてたなら、はっきり言われたいよ!)


 実咲の心が決まった時、夕日が差す部屋の中でみたらしの瞳に灯が点った。





 2024/04/1X


 薫はピリオドにログインした。


(午前中にデイリーは終わらせちゃったから、何してようかな……。夜はみたらしさんもイン

するって言ってたから、それまでに……)


 シリウスが扉を開け、はじまりの広場に降り立った時。シリウスの活動予定は全てキャンセ

ルされた。

 円形の広場から、ホームショップなどで賑わう大通りに向かう一本道の真ん中に、ダンゴが

仁王立ちしていたからだ。


 シリウスがそれに気づいて、慌ててボイスチェンジ設定を変更していると、ダンゴもシリウ

スに気づき、予想通りシリウスに近づいてくる。


「シリウス、話しがある。ちょっといいか?」


「はい、わかりました」


 ダンゴは人通りを避け、広場の端に移動する。シリウスもそれを追うように移動した。

 そうして、二人が向き合う形になった時。ダンゴはシリウスにパーティー申請をしてきた。


「もしもし? 聞こえますか?」


 ダンゴとパーティーとなったシリウスは、控えめに声を出した。

 せっかく男だとバレずに済んだのに、ここでバレては元も子もない。最低限の会話――恐ら

く、みたらしについてのことだけ話して、一旦ログアウトしよう。


 シリウスはそう予想し、考えていた。


「ああ、聞こえてる」


 ダンゴの声が返ってきた瞬間、薫は背筋が凍る感覚がした。いや、思い出した。


「俺の声も聞こえてるよな? ナギサ」


 ダンゴは低音のダンディな声色ではなく、声が低めの青年の声色で喋っている。素のままの

声で。その声を薫は忘れていなかった。忘れられなかった。


「……ど……どう……して……?」


 そんなこと、あるはずがない。薫は混乱し、震えた声で弘樹に訊いた。


「……そんなこと、どうでもいいんだよ。時間もねぇし、単刀直入に言わせてもらう。妹にこ

れ以上近づくな」


「……ほ、本当に……ヒロが……みたらしさんの……?」


「そうだよ。俺だって信じられなかった……信じたくなかったよ。ネカマの出会い厨が、今度

は妹に手を出してたんだからな……!」


「そっ、そんな……違――」


「何が違うんだよっ!? また、自分は女だ、って騙して実咲と会ってたんだろ!? 見て呉

れは良いからって、そのまま実咲を誑かしやがって! ふざけんじゃねぇぞ!!」


「……ごめんなさい……」


 薫は弘樹の怒声を聞いて委縮し、思わず謝ってしまう。


「……ここまでだ。不幸中の幸いっつーか、これがなきゃ許さねぇが……実咲の男嫌いは治っ

た。それは感謝してる。だから、ここまでで……実咲の前から消えてくれ」


「……それは……」


「キャラを消せとまでは言わねぇ。フレンド解除して、二度と連絡を取るな。コールの連絡先

も消せ」


「……ごめんなさい……! ヒロに嘘ついたことは……ずっと……謝りたいと思ってた……。

あんなことになったのも――」


「解ってる。悪気はなかったんだろ? 凄いニヤけ面で近づいてきたもんな? 俺たちのこと

は、もういいんだよ。それよりも実咲だ。もう関わるな。いいか? これ以上ウダウダ言った

ら、シリウスって奴は出会い厨の詐欺師野郎ってピリオド中に注意喚起して回んぞ」


 そう、悪気はなかった。その無神経さが弘樹を傷つけたし、自分をも傷つけた。


「……わかり……ました……」


 薫は拳を更に強く握りしめた。悔しさと悲しさが喉に張り付いている。


「……俺だって、そんな陰湿なことはしたくねぇ。だから、約束は守る。お前が実咲にさえ近

づかなきゃ、ピリオドやろうが何をしようが構わねぇ。実咲にだけは近づくな。それだけだ。

……話しは終わりだ。じゃあな」


 そう言うとダンゴはパーティーを解散し、シリウスの目の前から消えていった。


 薫はしばらく茫然とした後、拳を解いた。汗ばんだ手から感じる無力感が、薫をどうしよう

もなく不快にさせる。

 それをジャージにこすりつけてから、薫はログアウトした。


 デスクトップに映る、夜明けの水平線。窓から差し込む、春の温かな日差し。どこか幻想的

に淡く見えるそれらは、さっきまでの出来事が全て幻だったのではないかと薫に思わせた。

 だが、幻なんかではない。恐ろしい偶然も、思った以上に狭い世界も、全て現実だ。


 薫は背もたれに寄りかかり、力なく項垂れた。幻のように消えるのは、これまで紡いできた

半年間だからだ。

 思えば、ずっとみたらしと一緒だった。ベータテストからピリオドを始めて、今日≪いま≫

の今日≪いま≫まで。


 当初の予定とは大分違ったが、薫は、シリウスは楽しく冒険していた。

 そして、みたらしの困難な問題≪クエスト≫もクリアし、次は自分もと思っていた矢先、こ

れだ。だから、薫は薄々理解しはじめた。


(……僕は……どこにも行けない……クリアできないんだ……)


 涙が鼻筋を伝い、落ちてゆく。


 薫は、どんな物事でも卒なくこなすことができた。だが、薫が本当に望んだもの、努力した

もので結果や成果を出したことは、一度もなかった。

 友人関係、恋愛、試験、ゲーム。そのどれもが、最後には無惨な結果に終わる。今回もそう

だった。


 どうしようもないのは、今回も自分のせいで終わりを招いてしまったということだ。

 過去と向き合わず、再び誰かの心を弄ぶ結果になりそうな道を選んでしまっていたから、偶

然という名の天罰が降りかかったんだ、と薫は思っていた。


(……僕はどうしようない……嫌な奴なんだ……! 何度も何度も……同じ失敗して……ダメ

で卑怯な奴……! 出来損ない……どっちつかず……気持ち悪い……)


 どれだけ自分を責め、泣いたか判らない。頭が割れたように痛い。


 薫はよろけながら立ち上がり、ベッドに逃げ込むように寝転がった。

 それから、何度か母と会話をした気がする。内容は覚えていない。

 薫は白昼夢を見ているような、悪夢に襲われていたからだ。





 2022/02/2X


 ナギサは緊張していた。


「ヒロとまーりん、何話してるんだろ……」


「いや、まぁ……戻ってきてからのお楽しみなんだが……」


 ナギサの問いかけに答えたレックスも、心なしか緊張している様子だ。


「その……これなんだよ」


 そう言い、レックスはナギサにチャットでIⅮらしき番号を送ってくる。


「これって……!」


「……俺のコールの連絡先。俺はポスワやってねーから、コール教えとく。分かるっ、分かる

ぞ言いたいことはっ! でも、ノイボのアカは知ってるだろ? だったら同じだ。必要な時に

連絡してくれりゃあいい」


「……私……。……大事な話しって、このこと?」


「ああ。……向こうでは、まーりんがヒロに教えてると思う。俺は直接会わなくったって、気

軽に他のゲーム誘ったり、ゲーム外のこと話すだけでもいいと思うんだけどな」


「……? 私もそう思う」


 まるでヒロナイトと直接会うような言い回しが、ナギサには引っかかった。


 一方、その頃。

 ヒロナイトはまーりんから連絡先をチャットで送られていた。


「俺たちは待ってるぜ。お前たちが、自分の意志で会いに来てくれるのをなっ!」


「そう……だな。うん、そうだな……!」


 ヒロナイトは自分の両親に正直に話していた。だが結局、許可は得られなかった。


 ヒロナイトの両親は話せば大体のことには理解を示し、認めてくれる。しかし、こういった

危機管理については厳しかった。ヒロナイトがまーりんたちに会う最低条件として出されたの

は、連絡先と一対一の会話だった。

 流石にそこまでは二人にさせたくない。そう思ったヒロナイトは、二人に直接会うことを諦

めていた。


 だが、もう一人については諦めきれなかった。

 チームの解散が決まり、ヒロナイトもナギサもスタークロニクルオンラインをやめると決め

ていた。それでも、お互いにノイズボンド(パソコン専用のチャットアプリ)のアカウントを

知っているのだから、連絡を取り合えば他のゲームが一緒にできる。まさに先程、レックスが

言った通りだ。


 しかし、ヒロナイトは焦燥感を抱いていた。

 このまま解散して四月を迎えたら、お互いに新たな環境で忙しくなり、きっと疎遠になって

しまう、と。


 男共には気軽に連絡が取れる。おそらく、数年振りであっても。だが、ナギサはどうだ? 

ヒロナイトにとって気軽に話せる女子は、母と妹とナギサ以外にいない。その誰もが身近な存

在だからだ。その関係が遠くなってしまったら……その間に彼氏ができてしまったら……。

 ヒロナイトはこの数ヶ月間、ナギサのことしか考えていなかった。


「覚悟は決まったか?」


 少し間を置いて、まーりんはヒロナイトに話しかけた。


「……本当に……ゲーム内じゃなくて……リアルで告った方がいいんだよな……?」


「間違いない! 最近は電話とかメッセージとかアプリとかが流行ってるらしいが、男だった

ら面と向かって言わなきゃあダメだ! じゃなきゃ、熱い想いは伝わんねーだろ? 俺もそー

したぜ?」


「でも……やっぱ悪ぃよ。ナギサだって親に止められてんだし……」


 ヒロナイトはだんだんと小声になっていく。

 それを聞きかねて、まーりんは早口で活を入れた。


「でももへったくれもねぇよ! チャンスっつーのは、すぐ逃げてくぞ? それに、断られる

かもしれねーんだから、言ってみたもん勝ちだって! ヒロが安全で良い奴なのは俺たちが保

証するし、人の多い場所で先にヒロが待ち合わせ場所に行く、二人きりにならない、その他条

件は全て呑む! これで完璧よ!」


 三人で決めた「ナギサ説得プラン」を復唱したまーりんは、最後に大きく手を叩いた。


「はいっ! いってみましょぉぉぉー!!」


「まっ! う……お、おぅ!!」


 まーりんの真似をするように、ヒロナイトも膝を叩いて気合を入れた。


「お待たせ―。俺、次はレックスと大事な話しがあるから、ナギサはヒロと話しててな」


「うん。……その、私とは……?」


「あっ、あるよっ! あるよ? もちろんあるよ!!」


「そっか、順番だね。……よかった」


 焦ったように乱高下するまーりんの返事を聞いて、少し安心したようにナギサは頷いた。


「よし、じゃあ頑張れよ!」


 レックスは機嫌の良い声を残し、チームチャット部屋から出ていった。


「じゃ、じゃあ、また後でなっ」


 それに続いて、慌てた様子でまーりんも退出した。


「……ナギサも、まーりんと二人きりで話したいことあるのかよ」


 ヒロナイトは少しぶっきらぼうに話しを振った。


「ううん……。ただ、私だけになかったら寂しいなって思って」


「そっか……確かに、そうだな……」


「でも、珍しいよね。まーりんがこんなこと言い出すなんて。珍しいっていうか……初めてか

もね」


 ナギサは寂し気に話す。そこには、もう一月もすれば会えなくなってしまうからこそ、これ

までにないことも起こるよね、というニュアンスが含まれていた。

 そしてそれを、ヒロナイトも感じ取っていた。


「……レックスからは、連絡先送られたのか?」


「うん……。直接会わなくても、ゲームのことじゃなくても、連絡取ろうって」


 その言葉にヒロナイトは返事ができなくて黙っていた。本来ならば、それで充分だからだ。

 ヒロナイトが反応しないので、ナギサはポツリポツリと話しを進める。


「……私も、それでいいと思うって話してて……。何か相談したいことがあったり……気軽に

ゲームしたい時とかに集まれれば……それだけでもいいって……」


「……ナギサは、それでいいのかよ……?」


「……よくないよ。でも……しょうがないよ。皆、忙しくなっちゃうから……」


「……あの……二人は、な。……でも、俺は……」


 ヒロナイトはそこで言い淀んでしまう。そして、会話が停滞した。


「……違うゲームでも……また一緒に遊んでくれる……?」


 先に勇気を出したのは、ナギサの方だった。

 好きなゲームを一緒に、ではなくて、ヒロナイトと一緒にゲームがしたい。その想いを強く

込めて。


「俺は……俺も、ナギサと一緒にゲームがしたい……! いやっ、逢いたい!」


 ヒロナイトはナギサに背中を押され、力強く言い切った。


「えっ……!? その……リアルで……?」


「そう! どうしても、このタイミングで逢いたいんだ! 親に止められてるのは解ってる。

でも、絶対に安心できるようにするからっ! 人が多い場所で待ち合わせして、俺が先に待っ

てる! 二人きりになる場所とかも絶対行かない! 言うことは全部聞く!」


「……。……どうしても……リアルで逢わなきゃダメなの……?」


「……どうしても……逢いたい……!」


 ヒロナイトの言葉の熱≪あつ≫。それに圧され、ナギサの心臓は身体を震わすほど高鳴って

いた。


「……分かった……いいよ……」


 ナギサは胸の高鳴りに合わせるように、抑えるように、小声ではっきりと言った。


「……ホン……トか……? ――っしゃ――あぁ――!!」


 遥か遠くから、ヒロナイトの飛び飛びの歓声が聞こえてくる。それがナギサにも嬉しい。自

分と逢うことを、こんなに喜んでくれているのだから。


 その時のナギサは、それしか――ヒロナイトに逢うことしか考えていなかった。


 そして、数週間後。

 春の温かな日差しが増え、桜も咲こうという頃。

 弘樹は川崎駅の改札口前で薫を待っていた。


(三十分前到着は早いと思ったが、案の定電車が遅れたから丁度良かった。俺の読みは冴えて

いる。大丈夫。いつも通り話せばいいだけ。いつも通り、いつも通り……)


 集合時間の十五分前。弘樹は心を落ち着かせながら、改札口と対面の壁際に立っていた。こ

こならば、ナギサが遠くから自分を見つけられるだろう、と弘樹が考えてのことだ。


 弘樹の身長は178cmと大きく、現役で野球部に所属しているので体格も引き締まってい

る。ベージュ色のカジュアルなシャツに黒いティーシャツ、下はジーパンと地味な恰好だが、

何かしらアクションを起こせば充分に目立つ。


 その頃、薫も川崎駅のホームのベンチに座り、心を落ち着かせようとしていた。


(大丈夫……。ヒロなら解ってくれる……。でも……まず謝らなきゃ……。嘘ついてて、ごめ

んなさいって。最初は怒られると思うけど、その後は……友達として一緒に遊べる……。友達

として……)


 弘樹次第だが、薫は自分が弘樹のことを好きだと言い出したかった。


 弘樹はナギサのことを女子だと思って逢いに来ている。しかも、告白する予定で。

 それを薫は察しているが、それでも薫は逢いたかった。恋人には成れずとも、ちゃんとした

友達になりたかった。


 真っすぐな弘樹は、薫の裏切り行為に怒るだろう。でも、弘樹のことが好きになって、後に

引けなくなってしまっていた、と正直に説明すれば、きっと弘樹は解ってくれる、許してくれ

ると薫は思っていた。


「もうすぐ着きます」


 薫はトイレに向かう前にメッセージを送った。


「了解。俺はもう着くけど、慌てずに気をつけて来てな」


 弘樹からは最速で返信が来た。


(優しいなぁ……ヒロは)


 男子トイレの洗面台の前で、薫は自分の恰好をチェックしながら、そう思った。

 紺色のキャスケット帽子の被り具合、良し。帽子から出た前髪の整え具合、良し。グレーの

ダッフルコートの着崩れ、汚れ、なし。


 これでスカートでも履いていたら、女の子に間違われてもおかしくない姿を確認し終えた薫

は、トイレから出た。


「今、着きました。どこにいますか?」


 薫は改札が見えるところまで移動し、弘樹にメッセージを送る。


「改札出たところの正面、壁際に立ってます」


 緊張のあまり、弘樹は敬語で返してしまう。


(来たっ! 遂に……このどこかに……ナギサが……ッ!)


 弘樹は改札の向こうを見ては目を伏せる、という挙動不審な行動を何度も繰り返した。

 今のところ、自分を見つめている女子の姿はない。自分と同年代か、それより下――妹くら

いの女子の姿は。


(……あの人が……ヒロ……だよね……)


 薫は駅員室の手前付近の邪魔にならないところから、改札対面を観察していた。


 そこに一人だけ、自分より年齢が上――高校生か大学生くらいの青年が、ソワソワしながら

忙しなく周囲を見ている。


 長身瘦躯、爽やかな短髪、少し彫りの深い凛々しい顔立ち。薫が思い描いていたヒロナイト

が、そこにいた。


(どうしよう……カッコイイ……! ……えっと……合図……)


 少しの間、惚けたまま見つめていた薫は我に帰ると、二人で決めていた合図を送る。


「スマホを右耳に当てた後、左耳に当ててください」


「了解。今から当てる」


 薫にそう返信した後、弘樹は震えそうになる右手を必死に抑えて、スマホを右耳に当てた。

そして、ゆっくりと深呼吸しながら五秒数えた後、スマホを右手で持ったまま左耳に当てる。


 そのぎこちなくて微笑ましい動作を見て、薫は勇気づけられた。緊張しているのは自分だけ

じゃない、と。


(僕が女じゃないって判って、緊張が解けて変な空気になったり、おかしなテンションになっ

ちゃうかもな……。でも、怒られるよりマシか。……いや、怒鳴られるかもしれない……)


 不安と緊張を胸に、薫は改札を抜けた。


(どこだっ……!? 俺の方を見てる女子……! いや、あの子じゃねぇ……親がいるし。ダ

メだ! 可愛い子ばっか見るなっ! もっと……女……女の子……! ……ッ!)


 弘樹は自分に近づいてきている紺色の帽子姿の子に気づいた。一見、男っぽい服装だが、確

かにナギサは言っていた。自分は声も低いし、男の子っぽいと。


(いや……でも、髪も長くねぇし、雰囲気も男の子っぽいが……。いやっ、何言ってんだ! 

心に決めてきたし、まーりんたちとも約束しただろう!? 外見は絶対に気にしない! 生理

的に無理以外は受け入れろって! 大丈夫……俺より背デカくないし、筋肉ムキムキっぽくな

いし……)


 俯いて近づいてきた、その子の顔は見えない。何故か恐い。

 弘樹は中学生最後の夏の試合で立った、八回裏のバッターボックスを思い出した。


「……ヒロ……ですよね……?」


 小声で聞き取りづらかったが、確かに聞こえた聞き馴染みのある声。弘樹はこの子がナギサ

だと確信した。


「……ナギサか……?」


 弘樹が恐る恐る尋ねると、薫はコクンと頷いた後、ゆっくりと顔を上げた。


「……すいません、お待たせしました……」


 薫は喜びのあまり、はにかんだような笑顔を見せた。その表情を凝視して、弘樹は固まって

いる。


(え……? ……いや……おとこ……? え……いやっ、声……。いやっ! 失礼だろ! 可

愛い……)


 顔は悪くない。いや、むしろ美形だ。それなのに、頭に浮かんだ質問が喉に張り付いて離れ

ない。弘樹自身の女子センサーも全く反応しない。

 今しかない。逆に今しか訊けない。心の中の雄がそう叫んでいる。


「……やっぱり、驚いてるよね……」


(やっぱり? やっぱりって、まさか……)


 その言葉が、弘樹を突き動かした。


「……男なのか……?」


「……ごめんなさいっ!」


 二人は同時に喋った。だが、互いに発した言葉の意味は充分に理解できた。


「……そう……なんだ。その……当日まで、誰にも――」


「ふざけんなよ……」


 弘樹は急激に自分の身体が熱くなるのを感じた。


「今まで……ずっと俺を……俺たちを騙してたのかよ……!」


「ま、待って……ヒロ、落ち着いて――」


 薫は怒りと悲しみ、絶望に染まってゆく弘樹の顔を見て、慌てて謝罪しようとした。

 しかし、そのタイミングはとうに過ぎていた。


「ふざけんじゃねぇよっ! 気持ち悪ぃ! オカマ野郎がっ!!」


 弘樹は吐き捨てるように言うと、改札へと向かって勢いよく歩き出した。


「……ひ、ヒロ……ッ!」


 薫は声を絞り出すも、それはもう届かない。


(その声で喋りかけんじゃねぇっ! ……クソッ! クッソ……!!)


 弘樹は涙を堪えながら、改札機を乱暴に通り抜けた後、二番線のホームへと駆け込んだ。


 それを茫然と見送ることしかできなかった薫は、しばらくその場で立ち尽くしていた。


 その日、二人はどうやって家まで帰ったのか覚えていなかった。

 こうして、彼らの信じていた友情と絆は、壊れてしまった。

 現実以上の繋がりだと思っていた彼らの物語は、ここで終わっている。





 2024/04/1X


 薫は悪夢から目覚めた。


(そうだ……コール……)


 窓から差し込む朝日も気にせず、薫はまるで夢の延長線上のようにスマホをいじる。


(……あの時と一緒……)


 弘樹と碌な会話もできずに帰った、あの日。

 薫は三人のコールをブロックして非表示にしていた。これ以上、罵倒や誹謗の文字≪こえ≫

を受けたくない、という思いからだった。


 そして、今。理由は違えど、実咲に対して同じことをしている。


「薫ー、起きてるー?」


 控えめなノック音と共に、母の声がドアの前から聞こえる。


「起きてるよ」


 そう言ってドアを開けた薫は、母に向けて力なく微笑んだ。


「もう大丈夫。学校行けるよ……」


 そこから薫にとって、地獄の一週間が始まった。

 慣れない学校、クラスメイト、部活動紹介、体験入部期間。


 今週から来週にかけて小テストだということが、唯一の救いだった。本人もテストを救いと

感じる時が来るとは思いもしていなかった。勉強だけが、勉強しか考えなくて済むからだ。


 クラスメイトへの配慮、話題合わせ、部活動勧誘、空気を読んで巡る体験入部。

 どれも煩わしい人間関係だが、今までなら発散できていた。ピリオドがあれば。ピリオドを

みたらしと一緒にできれば。


 だが、それも今や過去のもの。二度と訪れない幸福な時間だ。


(……みたらしさんのことについて悩んでたのがバカみたいだ……。もっとちゃんと話して、

女性のフリをしなかったら……。少し距離を取って、ヒロとパーティー組まなければ……)


 何かしていない時は、常にそのことばかり考えていた。

 ふと気がつけば、赤信号なのに渡ろうとしたり、駅のホームでふらっと黄色い線の外側に吸

い込まれそうになる。


 夕方や夜が辛い。マンガやネットは目が滑り、映画やアニメは内容を半分も覚えていない。

勉強をしていなければ、ボーっと何時間もデスクトップを見つめていたりする。


 誰かと居なければ、何かをしていなければ、まるで頭が働かない。いや、何をするにも気力

が湧かなかった。


 そんな一週間も終わりが見えた、木曜の朝。

 悪夢から目覚めた薫は、ゾンビの様にゆっくりと起き上がった。


「薫……やっぱり何かあったの? 凄く具合悪そうよ?」


 起きてきた息子に、母は日課の如く心配そうに声をかけるが、その度に薫は顔に張り付いた

ような仏の笑顔を見せた。


「風邪気味かもしれないから、体調悪くなったら早退させてもらうよ」


「今日も朝ご飯いらないの?」


「うん。最近、朝に食欲でなくて……」


「……わかった。あんまり無理しちゃダメよ?」


「うん、ありがと」


 母の眼差しが痛い。だが、相談などできるはずもない。


(これは罰なんだ……)


 そう思いながら、家を出たところまでは覚えている。

 薫は今、見知らぬ天井を見つめていた。


 白い、清潔感があるが年季も感じられる天井。電灯もLEⅮではなく、蛍光灯だ。

 足側と右手側には白いカーテンが張ってある。上から見たら、L字に見えるだろう。


(病院……? どうして……)


 左手――窓側の淡いオレンジ色のカーテンも閉じていて、いまいち状況が掴めない。

 薫は白い掛け布団をめくって上半身を起こし、身体を伸ばして少しだけカーテンを開けた。


 アスファルトの通路の先に、赤や黄色の草花が揺れる花壇があり、そこを超えると青々とし

た木が数本並んでいた。更にその奥には校庭が見え、そこに体操服やジャージ姿の生徒たちが

薄っすらと居る。


(僕も体操服だ……)


 だんだんと状況を呑み込めてきた薫は、自分のジャージの上着が掛かったパイプ椅子を見つ

めた。


 よく覚えていないが、おそらく自分は体育の授業中に倒れたのだろう。そして、保健室に運

ばれた。別に怪我もしてないし、高熱があるわけでもないから、救急車は呼ばれずにここで寝

ている。


(そんな気がする……。英語の小テストして……その後、着替えた気がするから……二時間目

か……三時間目くらいかな……。教室……戻りづらいな……)


 薫はのろのろと回り始めた頭でそう考えながら、立ち上がろうとした。その時、保健室のド

アが開いた音が聞こえてくる。


 木目の床を歩くコツコツという足音が近づいてくると、白いカーテンの前から控えめな声が

かけられた。


「北原くーん、起きてますかー?」


 聞いたことのない大人の女性の声だが、おそらく保健室の先生だろう。薫はそう判断して返

事をする。


「はい、起きてます」


「起きたんですね、よかった。開けてもいいですか?」


「はい、どうぞ」


 薫がそう言うと、パイプ椅子が置いてある側のカーテンが開く。開けたのは、やはり白衣を

着た大人の女性だった。


 養護教諭は眼鏡を上げると、薫を注意深く観察しながら声をかける。


「どこか痛いところとかありますか? 調子悪いところとか……」


「いえ……特には……」


「眩暈とかしますか? ……ちょっと立ってみてください」


 薫のぼんやりとした顔を見て、養護教諭は心配そうに薫を見つめている。


「……そうですね、ちょっとふわっとするかもしれないです」


「ふわっと……。一回座ってください」


 そう薫に言った後、養護教諭は体温計を取りにいく。


 薫は言われた通りにベッドに腰かけ、室内を見ていた。すると、一つだけおかしな物が目に

ついた。


(え……14≪に≫時……!?)


 壁に掛かった茶色い時計の長針と短針は、2の数字の上で止まっている。


「先生……僕がここに来たのって……何時頃ですか……?」


「10時過ぎくらいですよ。座ってる最中に倒れたって聞いたから寝かしてましたけど、立っ

たまま倒れてたり、頭を打っていたりしたら、すぐに病院に運んでましたよ」


 養護教諭は当時の状況を話しながら、体温計を薫に渡した。


「貧血気味だったり、前にてんかん発作を起こしたことはありますか?」


「いえ……どちらもないです」


 倒れた理由は解っている。ピリオドができないから……いわゆる、ピリオド発作だ。

 そんなことを先生に言うわけにはいかない、と薫は違う原因を口にした。


「たぶん……朝ご飯を食べてなかったから、貧血気味になってたんだと思います」


 薫は計り終えた体温計を養護教諭に渡した。37度4分。熱が出はじめている。


「……やっぱり、早退した方がよさそうですね。熱っぽい以外で、身体に何か変な感じはあり

ますか?」


「いえ、特には……。一人でも普通に立ったり、歩けますし……」


 そう言って、薫はゆっくり立ち上がった。このままだと家族を呼ばれかねない気がしたから

だ。そうしたら、仕事中の母に迷惑がかかってしまう。それは避けたかった。


「……ちょっと歩いてもらっていいですか?」


「はい、わかりました」


 薫は少しだけ元気そうに返事をして、ベッドから真っすぐ歩いてドアまで近づき、そこから

ベッドまで戻ってくる――途中で、少しふらついてしまう。


 それを見た養護教諭が、少し慌てて近づこうとした時。ぐぅぅ、という音が室内に響いた。


「食欲があるなら、ここでご飯食べてってもいいですよ」


 そう言って養護教諭が微笑むと、薫は少し顔を赤らめながら、コクンと頷いた。


「……着替えと荷物……取ってきます」


 そうして薫は、入学早々恥ずかしい思いをしてしまった。


(……でも、いつも通りじゃないことが起きれば、忘れられたな……)


 家に着いてから、薫は改めてそう思った。非日常の出来事が起きている間は、自分のことや

実咲のこと、ピリオドのことを忘れられた。


(いつもと違う……何か新しいことをすれば……忘れていくのかな……)


 家事を終えた薫は、ベッドの上に座りながらぼんやりと考えていた。


 そして、金曜の朝。


(結局、心配かけちゃったな……)


 昨日の晩に熱が上がってしまった薫は、母に早退したこともバレて、薬局に薬を買いに行か

せてしまった。


 薫は学校を休みたくなかった。家に独りでいれば、否応なく考えてしまうからだ。


(時間ができるから……料理覚える……。それか、バイト……。たしか、大丈夫だったはずだ

から……。僕にできる……仕事……ゲーム……)


 熱で頭がボーッとするなか、昼食を食べて薬を飲んだ後、薫はベッドの中で天井を見ながら

考えていた。

 深い眠りに落ちるまで、これからのことを思いつくままに。


 寄せては返す思考の波に揺られ、意識を夢へと漕いでゆく。


 不思議な感覚だった。ここ半年間のピリオド内での出来事を、三人称視点で斜め上から見て

いる。まるで幽霊のように。


 その中で、シリウスは、みたらしは、出てくるキャラクターやNPCは、笑ったり悲しんだ

り怒ったりしている。

 生きている。彼らは確かに、あそこで。でも、自分は? 北原薫はどこにいるんだろう? 

どこで生きているんだろう。


 シリウスがこっちを見ている。みたらしも。でも、自分はどんどん浮かび上がってゆく。

 どこに行くの? どこに連れていかれるの? どんどん小さくなっていくシリウスたちを見

て、薫は自分が空に落ちていくように感じた。


「――ッ!!」


 何も見えない白い世界に落ちて、薫は目を覚ました。

 高所から落ちる恐怖に似た感覚が、薫の心臓を高鳴らせている。


(2時……。……カーテン、また開けたままにしちゃった……)


 薫はベッドから立ち上がると、窓際に近づいた。

 身体は軽い。どうやら熱は下がったようだ。


 窓越しに映る、街灯だけがポツポツと点いた、暗くて静かな世界。これもまた、いつもとは

違う体験だ。


(……ピリオドから……ゲームから旅立つ、良いキッカケ……って考えればいいのかな……。

そう考えられたら、楽なんだろうな……)


 暗い静寂を見つめながら、時折目が合う鏡の中の自分と対話する。何がしたいのか、どうし

たいのか。


(そんなの、決まってる……。……でも……それはできないよ……。する資格もない……。で

も……)


 やらなければならないことがある。そう想って、薫はカーテンを閉めた後にイスに座った。

 暗い部屋に、パソコン画面の明かりが点く。


(これに変えたのも半年前か……。結局、何も変わらなかったなぁ……)


 夜明け前の水平線の画像を見ながら、薫はピリオドのアンインストールも考えた。だが、今

はその時じゃない。まずはログインだ。


 薫はデスクトップに並ぶアイコンの中から、真っ黒い丸の中心に金色の点が打たれたアイコ

ン――ピリオドのそれを選び、ダブルクリックした。

 そのまま流れるようにログインしていくが、もうスマホは必要ない。動きかけた手を見なが

ら、薫は自分に言い聞かせた。


(システム……キャラクターの消去……消去……)


 スタートメニューに映るシリウスは、いつも通り無表情でこちらを見ている。それなのに、

薫には仮面を被っているような表情に見える。さっき見た表情こそ、素のシリウスなのだと薫

には思える。


(……でも……あそこには……もう……帰れないよ……)


 薫は涙ぐんで、シリウスを選択してゲームをスタートした。


 帰れないと思いつつも、薫にシリウス≪自分≫を消すことはできなかった。彼の生きた証を

遺したかった。


(……それでも……待たせるわけにはいかないから……)


 扉を開けるモーションをして、シリウスが拠点に降り立った瞬間。薫はコミュニケーション

コマンドを開いた。


 仮にみたらしが近くにいて、話しかけられようとも、薫は無視するつもりでいた。シリウス

を遺すと決めた時から、それは決意していた。


 フレンド欄を開いた薫は、その中に唯一いるみたらしにカーソルを合わせた。


(……、……さようなら……みたらしさん……)


 薫は震える手で、みたらしをブロックリストに追加し、フレンドを解除した。


 いくら覚悟していたつもりでも、決意した気になっていても、零れる涙と嗚咽を我慢できな

かった。みたらしがどれだけショックを受けるか、薫には容易に想像できたからだ。


 薫はキーボードをずらすと共に、机に顔を埋める。その胸の内では、届かない謝罪が木霊し

ていた。

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