指輪一つで買われた結婚。~問答無用で溺愛されてるが、身に覚えが無さすぎて怖い~
オリファント子爵邸には誰一人として使用人がいない。それは、オリファント子爵が領地から得られる収益から、何から何までギャンブルに使ってしまうからだ。
わずかに余ったお金も身分の高い順番に、オリファント子爵夫人、ステイシー姉様、スザンナ姉様、シビル姉様と振り分けられて屋敷の使用人を雇うお金などこれっぽちもない。
しかし、それでも貴族として体裁を保てる生活をできているのは、使い勝手のいい出戻りの末娘、シャロンがいるからだ。
シャロンはほんの半年前まではこのリュガーノ王国の第二王子と婚約をしていたが、異世界から聖女が召喚され、聖女に魅了された王子はシャロンとの婚約を破棄して、聖女と結ばれた。
そんなわけで出戻ってきたシャロンはオリファント子爵邸に居場所はなく、シャロンの居場所であった王都の小さなタウンハウスもすでに売り払われて無くなり、この屋敷の使用人用の一室がシャロンの居場所であった。
「ひぃ~、水が、つめ、たいっ」
体の震えに合わせて唇も震わせシャロンはそんな風に独り言を言った。
現在、家族全員分の洗い物をしているところだ。やはり冬場の洗い物は体に堪える。かまどに火を入れて厨房を温めたいところだけど、薪だってただではない。
ただではないものを勝手に使って無くなってお金をもらえなかったら買ってくることもできない、そうなるとどうなるか。
……う~ん。凍え死ぬよね。
テンポよく自分の思考に自分で答えを言って、シャロンは短い髪をくくった小鳥のしっぽのような金髪を震わせながら丁寧に食器を洗っていく。
すると、ガチャンと乱暴に厨房の扉が開いて、そこから豪奢な金髪をくるくるに巻いている美しい女性が出てきた。
彼女は豪華で刺繍のたくさんついたドレスを身にまとっていて、とても華やかな香水の香りがする。
「シャロン! お前昨日までに私の宝石全部磨いておいてっていたじゃないの!」
「あ……あ~」
ぷりぷりと怒った様子で、彼女はヒールの音をかつかつとさせながらシャロンに迫ってきた。
そしてその言葉を聞いてシャロンは、忘れていたような顔をしたが、しかし実のところしっかり覚えていた。
しかし、とにかく使用人がいないこの屋敷の事をすべてやるのは時間が足りない。
朝起きてから夜限界まで掃除洗濯炊事をしていてもまだ時間は足りない。なのでイレギュラーな事を頼まれるとそこまで手が回らないのだ。
「ごめんなさい、ステイシー姉様。今日中にはできるようにするよ」
「はぁ? それじゃ遅いわよ! 今すぐやりなさいよ!私にこんなに迷惑かけて、お前何様のつもりよ!」
「本当、ごめんなさい、でも洗い物をしておかないと次の食事の支度が━━━━
ステイシーの言葉に一生懸命に謝りつつも、シャロンは必死に手を動かしていた。それもこれもすべて、早く仕事を終わらせてステイシーの要望に応えるため。
しかし、平気そうに謝る妹にステイシーは唐突に怒りを沸騰させた。
「ッ、ぐ」
「何様だって聞いてんの!!」
思い切り振りかぶった平手打ちがシャロンの頬をはたいた。耳がじいんと変な音を鳴らして、頭がくらっとする。
びりっと頬が痛んで、長く伸ばしている彼女の爪で頬が傷ついたのだとすぐにわかった。
「大体お前ね、生意気なのよ、自分は王族と婚約していたってだけでそんなに偉いわけ? 今じゃそんな服着て、汚い手をしているのに」
「……ごめんなさい、ステイシー姉様」
手を止めて前掛けで水をぬぐう。たしかにシャロンは貴族らしからぬ下働きの平民が着るような服を着ていた。
それに、ここ半年で急に酷使されることになった手のひらは、酷いあかぎれだらけだ。
残り物以外を食べることを許されないので随分と痩せた。もしかすると今更社交界に戻っても誰もシャロンだとわからないかもしれない。
「お前みたいなプライドばかり高い女は、男に好かれないわよ?……ってあらごめんなさい、お前もう傷ものなのだから、元から誰にも見向きされないのだったっけ?」
「……うん」
決してシャロンはステイシーの事を見下してなどいないし、たしかに特殊な魔法を買われて第二王子の嫁にと望まれたが、一般の貴族からすると必要のない変な魔法だ。
それに比べてステイシーは器量もよく、華やかできちんとした魔法が使える。だからこそ尊敬こそすれ、見下したりしない。
しかし、自分より劣る女が、身分の高い相手と結婚する、その時点でステイシーのプライドを刺激していた。そして戻ってきたシャロンに一番きつく当たる。
つまりは嫉妬とひがみによってステイシーはこんな風にシャロンを詰っている。
シャロンはきちんと理解していた。だからこそ、何も言わなかった。何を言っても意味などないから。
「一度ほかの男と結婚間近までいった女なんて貴族の中では無価値同然。誰もお前のことなど見向きもしない、それなのにっ、こうしてっ」
ステイシーはいつもより機嫌が悪いらしく、シャロンの前髪を掴み前後に大きく揺らした。
「飼ってやってるんだから! もっと媚びて喜びなさないよ!!」
たしかに、シャロンは第二王子と結婚間近であったし結婚式の準備のための同棲も始まっていた。しかし体の関係などなかった。
シャロンの体はまだ清いままだ。しかしやはりこの姉にも、そして貴族社会にもそんな言葉は通じない。
「あっ、ありがとう、ございます」
「誠意が足りてないのよ! 本当に可愛くないわ! 」
「ありが、っございます」
頭をゆすられてくらくらとしてくる。必死に口にした言葉もステイシーの怒りを収めることは出来ずにまた何か怒鳴られた。
……目が回りそう。
忙しさにも、痛みにも、体をゆすられる感覚にもすべて。
一度、婚約していたというだけでも貴族女性の市場価値がぐんと下がる。さらには、婚約前の同棲をしていたとなると世間からはすでに傷もの扱いだ。
このオリファント子爵家にとってもお荷物であり、ここまで貴族として育てる為にかけたお金はすべて水の泡だ。交渉の材料にもならない女は打ち捨てられるか、安い労働力になるのが関の山だ。
「このごく潰し!」
その通りだと、シャロンは思った。しかし同意しただけではステイシーの怒りはまだまだ続いていて、結局小一時間そうしてなぶられたのだった。
昼に時間をロスしたことによって、シャロンは深夜とも明け方ともつかない時間までずっと宝石を磨いていた。
暗闇の中最低限の光で磨いたので綺麗になっているのかわからなかったが、やることはやった。
慣れた足取りで、使用人用の部屋にもどり灯りもつけず、着替えもしないままベットに倒れこんだ。
硬く布を引いてあるだけの簡素なベッドは冷たく寝心地がいいとはとても言えないがそれでも床で眠るよりはましだ。
それにどうせすぐに起きなければならない。
……やわらかいベッドで眠ると起きるのが大変になるから丁度いい……ね。
うんうんと納得してから、服の内側につけている。ネックレスを引き出した。
そこには宝石のついている指輪がつながっていて、小さな指輪は思い出の品だった。シャロンが持っている品物で、こうして前の生活を思い出せるのはこの指輪ぐらい。
これが高級品だったのならこれを売って何とか生きていこうと思えたかもしれないが、そこについている美しい空色の石には一本のひびが入りその価値を失っていた。
「……」
胸がなんだか苦しくて、暗闇の中、指でその日々を撫でる。辛くはないそう思うほかなかった。
忙しく生活していると、突然、このオリファント子爵邸に珍しく客がやってくることになったらしい。
いつもなら見栄っ張りなオリファント子爵であるシャロンの父、ランドルが予定が決まった時点で応接間の掃除を命じて、その準備に明け暮れるのだが、その来客は突然の事だった。
やってきたのはオリファント子爵とよくギャンブルに興じている友人のベイリー伯爵だった。
彼はなんだかとてもばつが悪そうというか、緊張しているような顔をしていて、隣には顔から何からすべてを覆うローブを羽織った男が立っていた。
その異様な有様にオリファント子爵は息をのんで変な顔をしたが、自身より身分が上のベイリー伯爵が連れてきた人間であるので何も言わず、応接間にすんなり通した。
そして、その給仕の為にシャロンは駆り出され、紅茶を淹れて茶菓子を出してオリファント子爵の隣にたたずんでいた。
「さて、早速で悪いんだがオリファント子爵……そ、そのどのように言ったらいいか、わたくしも困ってるんだが」
ゆとりのあるソファーにベイリー伯爵と謎の男は腰かけていて、隣の男に怯える様な目線を送りながらベイリー伯爵はオリファント子爵にぎこちなく笑いかける。
その異常な緊張感を纏ったベイリー伯爵にオリファント子爵は何も言えずに続きを促すように彼を見つめた。
「その下女が、末娘のシャロン・オリファントで間違いないか?」
「ん?……ああ、これですかな。そうです、これが親不孝にも出戻りおったバカ娘ですが……おい、シャロン」
……お腹、空いた。
話題が自分の事についてになるなど思っていなかったシャロンは、テーブルの上の茶菓子に夢中だった。
あまれば食べられる。そして、こういう深刻な場面ではお茶菓子は手を付けられない事の方が多い。
そうなればずっと栄養不足で常に満足に食べられないシャロンの腹も少しはマシになるかもしれない。そう考えての事だった。
しかし、呼びかけを無視したシャロンにオリファント子爵は、自分の優位性を示すために立ち上がって、シャロンの胸ぐらをつかんだ。
バツンと何かが切れる音がする。
「呆けおってこの女。まともに仕えることもできないのか愚図め!」
怒鳴られてハッとする、それから何の話だったか分からないが、目の前にいるオリファント子爵の事よりも、ネックレスのチェーンがちぎれた事の方に焦ってシャロンはすぐに自分の足元へと視線をやった。
……まずい。
「申し訳ありませんな、ベイリー伯爵。本当に愚鈍な娘でして……他人の前で恥をかかせおって! いい加減にせんと、おい! どこを見て」
一度振り返りことわりを入れてから、再度シャロンの方へと振り返ったオリファント子爵はシャロンの視線の先を追うように地面を見た。
そこには、案の定ちぎれてしまったチェーンと指輪が落ちていた。それをいぶかしみながらも拾い上げて、じろりと見てから、おもむろにオリファント子爵は振りかぶって殴るふりをした。
……っ。
ぐっと目をつむって、肩をすくめるシャロンに少し気分を良くしたのか鼻で笑って彼は言った。
「こんな下らんものを隠し持ってたとは、昔の持ち物はすべて売らせたというのに図太い女だ、まったく」
吐き捨てるようにしてその小さな指輪を見て、それからあざけるような顔をしたままベイリー伯爵と男に向かって振り返り、続けていった。
「とまぁ、こんな様子の器量の悪い女ですがこれに何か用事ですかな」
指輪は彼の手に収まったままであり、混乱しつつもシャロンは視線を下げて何も言わずにじっとしていた。
きっと一目見ただけで、金目のものに目がないこの男は石の割れた指輪になんか価値がないと気がついただろう。
話が終われば返ってくる。それでも長年つけていただけに、自分の手から離れているとそわそわとしてしまって仕方がなかった。
オリファント子爵に問いかけられて、ベイリー伯爵は隣の男を見た。彼は、間をおいてから立ち上がり、張りのある若い男性らしい声で言った。
「彼女を娶りたい」
「は、はぁ?」
混乱しているオリファント子爵に、ローブの男はまったく気にしていない様子でシャロンのそばへとやってきた。
どうやら彼は若い男性のようだが、酔狂なことを言う、シャロンのような傷ものの女性を娶るなど家族が大反対するに決まっている。
「何をおっしゃるかと思えば……」
すぐに笑い声と共に馬鹿にするかのように、そう口にしたオリファント子爵だったが、ベイリー伯爵がしきりに小さく首を振っていた。
そういう態度をとらない方がいい相手だとオリファント子爵も理解した様子で、目上の人間に対する態度へと変化させる。
「しかし、ですな。ほら丁度この指輪のように、この女はすでに他の男に貰われた身ですからな」
「構わない。この子は邪魔なのでしょう。先ほどから邪険に扱っているし」
「それは……もちろんこれを食わせるにも金が要るわけでして、生きているだけで何かと用入りですしな」
そうは言いつつもシャロンの家族はシャロンの労働によって、使用人を雇わなくてよくなったので、それなりに得をしているのだが、そうは言わずにきちんと面倒を見てやっているような顔をした。
「なら、問題ないのでは?」
「はぁ、まぁ……しかし、そうはいっても手塩にかけて育てた末娘ですから……すでに死んだも同然ですから、それほどとは言いませんが、これの飯代くらいは……ねぇ?」
言いながらもオリファント子爵はローブの男を上から下までじっとりと見つめる。
それはとてもいやらしい視線で、死んだものだとか言いながらも、何か金にならないかと探っている様子だった。
それに、ローブの男は特に狼狽する様子もなく、すっと自らの手に触れて、するりと抜き取って美しい大きな宝石のついた指輪を取り出した。
「これ以上、出せというのならこの話はなかったことにする」
きっぱりとそう言い切って、それを差し出した。オリファント子爵は目の色を変えてその指輪に飛びつくようにして彼に近寄り大切に手に取った。
しかしまだ、その手の中にはシャロンの大切な指輪が入っているはずだ。
「どうやら話は決まったようだね。シャロン、行こうか、持ち物があるなら待つけれど」
「……」
「シャロン?」
オリファント子爵はローブの男から貰った大きな指輪を光にかざしてみたりして、もうシャロンを好きにしていいとばかりの態度だった。
こちらの様子には気がついていない。
……今、返してもらわないと、一生……。
そう思うと目を離すことはできなかった。あれは、たしかに嫌な思い出もあるが大切なものだ。すべて忘れて手放してしまうつもりもない。
そんなシャロンの視線に気がついたのか、ローブの男は、軽くオリファント子爵に声をかけた。
「子爵、彼女から奪った方の指輪を返してあげてほしい。そうすれば俺たちはここを去る」
「!……ああ、いりませんよこんなガラクタ」
そういって軽く投げてよこすのだった。それを取ってローブの男はシャロンにそれを握らせた。それを握って彼を見つめる、素性はまったくわからないが、身分を隠して地位を失った女を買うなど、碌なことではないのだろう。
シャロンの身内に素性もわからないように配慮してるのは、シャロンがどんな目に合っていても助けにこさせないためだとも取れる。
……使用人扱いよりはましだといいね。
しかしシャロンは、いつものようにポジティブに軽く考えて、「ありがとう」と指輪を受け取ってそんな風に思った。怖い事は考えない以外、シャロンにはこの状況の対処法は思い浮かばなかった。
シャロンは気がついたら、華やかなドレスを着せられて、舞踏会に来ていた。隣にいるのはあの日のローブの男であるエディーだった。
「クロフォード公爵。ごきげんよう。そちらが噂のご夫人ね。すてきなドレスですわ」
「ああ、ありがとう。伯爵夫人、今日は一人なんだね」
「ええ、そうですの」
隣にいる男を見上げる。王宮で行われる大規模な舞踏会にも恥ずかしげもなくシャロンを連れて歩くこの男は、本当にどうやらクロフォード公爵らしい。
当たり前のように社交をこなし、あれこれと話をして去っていく夫人と別れて、貴族たちが社交を繰り広げる豪華絢爛なパーティーホールの中を進んで、適当なテーブルに腰かけた。
その向かいに座らせられて、シャロンは人形のように動かなかった。口もきかなかった。しかしそれをこの男はなにも指摘しない。
「シャロンは何か飲む? 俺は踊らないしワインでも貰おうと思うんだけど」
「……」
聞かれて首を振ると「そう」とほほ笑んで彼はウェイターに声をかけ、適当なワインを持ってこさせる。
それをあおるのをシャロンはただ見ていた。ただじーっと見つめて、これまでの事をよーく思い出してみた。
馬車に乗り込み、彼に連れられついた場所は、半年前に去った王都だった。そして到着したのは、王宮にも負けず劣らず豪華なつくりのクロフォード公爵邸で、たらふく食事をとらされた。
それからぐっすりベットに寝かされて、ついでに医者も呼んでみてもらって綺麗にされて、高そうなドレスを着させられた。
それはとても不思議な体験であり、正直なことろ都合のいい夢か、もしかすると薪を使いすぎて暖をとれなくなったシャロンが死んで見ている幸せ夢なのかもしれないと思う。
だって寒くもないし、手についたあかぎれもなおってはいないけれど丹念に薬を塗られて痛くない。不快な部分が少なくて実家を出てから生きた心地がしないのだ。
……やっぱり死んでるんじゃないかな。
本当に真剣にシャロンは考えていた。本当の本当に真剣だった。できるだけポジティブになろうといつも頑張っているシャロンだったが何度考えてもその結論にたどり着く。
だっておかしいだろう、数枚書類にサインしただけですでに結婚しているらしいのだ。いや、別におかしくないんだが、公爵夫人と王宮にきてまで呼びかけられて、流石に結婚したらしいと思える。
「……医者は心は病んでいないと言っていたけど、やっぱり少し、壊れてるのかな」
目の前にいるエディーも同じようにしてシャロンを見つめてそんな風にこぼす。そうも思うだろう。だってもう必要最低限のこと以外、二週間以上話をしていない。
彼は常ににこやかに話しかけてくるというのに、シャロンはまったく朗らかに返せていなかった。
殺伐とした場所から心が抜け出せなくて、そして何より意味が分からなくて、エディーの言葉にもやはり上手く返せる気がしなくて、口をきゅっと結んだまま居た。
無言でいると人々のざわめきが聞こえてくる。周りの貴族たちは声をかけて来はしないが、シャロンとエディーのことを探って噂を言っている様子だった。
それもそのはずシャロンは貴族社会の中では聖女に負けて捨てられた令嬢なのだ。
それを公爵が我が物顔で連れ歩いていたら誰しもぎょっとするだろう。
……嫌な視線も多い……気がする。
しかし、シャロンにとってはこの反応はなんとなく現実的で、その事実はすんなり受け止められた。
そして大衆の中には、当たり前のように同じ貴族であるシャロンの家族もいる。
こうして、公の場に出てきたのは今日が初めてだが、噂を聞いた時から彼らはシャロンとエディーの事を狙ってたのだと思う。
人々をかき分けてやってくるのは、あのオリファント子爵だ。彼は後ろに気の強いステイシーを連れていて、背後にはもっと気の強い、子爵夫人を連れている。
三人は特攻するように険しい顔で近づいてきて、エディーの目の前まで来てからオリファント子爵だけは媚びる様な笑みを浮かべた。
「ごきげんよう、クロフォード公爵お噂はかねがね」
言いつつも下卑た笑みを浮かべて、金を搾り取ってやると顔に書いてあった。
その状態を周りの貴族たちも様子をうかがうように見ていて、このテーブルの周りは舞踏会会場なのに妙に静かだった。
「積もる話もありますから、どうか場所を移しましょうぞ」
華やかな音楽だけが周りを包む。ぼんやりとしているシャロンが見上げると鬼のような形相をしているステイシーがいた。
彼女はすぐにでもシャロンに食って掛かりたいという顔をしていた。
しかし、シャロンの立場上そんなことは出来ないと必死にこらえている表情だった。
……あ……。
その顔を見たことがあった。というかしょっちゅう向けられていたと今更思い出した。
ガシャンとガラスの割れる音がする。シャロンにとってその音は今までガラスの向こう側だったような、彼に買われてからの生活が、現実味を帯び始める音だった。
実際にはエディーがグラスを床に落とした音であり、中に入っていたワインはオリファント子爵の足元に広がる。
「すまない、子爵。手が滑ってしまった」
「な、何をされるんです」
「つい、君のような下衆の顔を見るのが苦痛でね」
「なんですと?!」
にこやかに言うエディーは徐に立ち上がって、オリファント子爵を見下ろして、周りには聞こえないような少し声量を抑えた声で言った。
「娘の婚約破棄の慰謝料をすべて遊びに使ってしまうような人間と、誰が話をしたいと思うんだよ」
「っ、なな、なぁんの事だかわかりませんな」
「その慰謝料、使い道を指定されたうえでの支払いだったはずでは?」
「っ……」
「今ここで話しても俺は構わないけど」
エディーはにこやかなままオリファント子爵にそう告げた。それはシャロンのまったく知らない話で、初耳だった。
しかし何故そんなことを知っているのだろう。というのも疑問だがそもそもこの人、クロフォード公爵だというが、シャロンは一度だって社交界で彼を見たことがない。
「靴、履き替えに行くのをすすめるよ」
じっと見つめられたまま言われて、オリファント子爵はひくっと頬を引き攣らせて踵を返した。
それに驚いている様子のステイシーとオリファント子爵夫人は去っていく背中とシャロンを交互に見てから、やはり同じく踵を返して歩き去っていった。
それを見てエディーは笑みを深めて「情けないね」と軽く口にする。それにシャロンはやっと答えた。
「……エディー」
「!……えっと、どうかした?」
突然喋ったシャロンにエディーは驚いた様子で座り直してこちらを見た。それにシャロンは今更とんでもない状況であることを認識して出てきた冷や汗を背中で感じながら口にした。
「エディーって何者?」
「見ての通りだけど、場所変えようか」
注目している周りに聞かれないようにするためにか、シャロンの手を取って引いていく。連れていかれた場所はホールの外のテラスだった。ここなら人もまばらで聞かれる可能性もない。
ホールから漏れ出た光が、丁度うす暗くなる程度の光源になって無駄にロマンチックだった。
「それで、急に話し出したと思ったら、何者って、急だね」
「いや、なんか本当に現実味がなかったっていうかなんて言うか」
「それで今まで喋らなかったの? 俺も少しは凹んでたんだよ」
「ごめんなさい」
言葉を交わしてみると案外、普通の人ですんなり会話ができる。
外見だって赤茶の髪に同じ色の瞳、特段、華があるというわけでもなく、どこにでもいそうな多少顔の良い好青年。貴族にはありがちな外見だ。
……でもこの歳でクロフォード公爵で、唐突に何の脈絡もなく私を娶って、挙句どうして王族とオリファント子爵家との金銭のやり取りを知っているのか。
普通らしく見える。しかしながら、少々普通ではないこのギャップに違和感がある。
「えっと、でも一応色々聞かせてほしいと思うんだけど、さ。何から言ったらいいのかなって」
「聞くって何を?」
「何をってそりゃあ……いろいろ」
朗らかに話をしていたのにシャロンが真面目な話をしようとすると、彼は少しだけ笑みを深めて声を低くする。
どうもそれが少し怖くて弱気に言うとエディーはおもむろにシャロンの手を取って立ち位置を少し変える。
……?? んん??
丁度、テラスの柵に背中を預ける様な形になってエディーはその両側に手を置いて後ろに引こうとするシャロンを見据える。
「それより、旦那になった人間が目の前にいるのに君の事を教えてくれないの?」
「わわ、私?」
「うん。君の事が好きだからこうして娶ったんだ。もっと教えてよ。沢山」
「え、うっ、???」
そして逃げ場がない状態で抱きしめられてシャロンは身を小さくした。建設的な話をしたいのにどうしてかそうもいかない。
しかしここで流されては駄目だ、きちんとしなければ。
「好きっていうのは、えっと。私は分からないんだけど、何か理由があったり……するのかな、って」
あたたかな体温に包まれて婚約者だった第二王子以外とこんなに触れ合ったのは初めてだ、と思ったが、それもそのはず目の前にいるのは旦那なのだ。触れ合い上等何なら子供も望まれるかもしれない。
そう思うと、改めて自分の頭がついてきていない事を認識した。
しかし、それも何か昔に出会っているだとか、実は名前を変えていて第二王子の婚約者であったときに面識があったというのなら話は別だ。
そうであるならその時の関係から変化させていくだけでいい。こんな傷ものの女と結婚までした男だ。そういう可能性が一番高い。
「……理由? そうだね……特にないんだけど」
エディーは上半身だけ離してシャロンに当たり前のようにそういった。それに流石に目を丸くして、シャロンは呆然とした。
「強いて言うなら、可愛かったから?」
「え……ええ」
「でもさ、そんなのどうでもいいと思うんだよ」
……ど、どうでもいい。
「だってシャロンはもうすでに俺と結婚してて、幸せになる以外ないんだから」
確かにその通りだし、目の前に迫った人のよさそうな笑みは好感が持てる。
「だからシャロンの事もっと俺に教えて? 頼って、わがまま言って、沢山君の好きなことをしよう」
「……」
「甘えていいんだよ。全部応えてあげるから」
甘ったるい言葉をささやかれて、開いた口がふさがらない。
逃げようにもシャロンの後ろは真っ暗な暗闇だ。後がない。そうなのだ、すでにシャロンには後がなくて、結婚してしまっている。ここまでぼんやりしてきたつけが回ってきたのかもしれない。
「君の事愛してるから」
……どう考えてもそれは流石におかしくない?
できる限りポジティブであろうと思っているシャロンだが、エディーの言葉に流石に異常を感じた。降って湧いたような幸運な結婚。指輪一つで買われたにしては好条件が過ぎる。
しかし、愛情まで降ってわくなんて可笑しいだろう。
固まるシャロンに、エディーは声を漏らして少しだけ笑ってそれから、抱きしめて耳元でゆっくり言った。
「警戒なんてやめちゃいなって。それより、屋敷に帰ったら何したい? 二人で過ごそうよ」
見透かされたような言葉に、ひいっと悲鳴が出そうだった。
シャロンを愛してるという話だってそうだし、オリファント子爵に脅しをかけていたこともそうだ。この人は何か得体がしれない。
けれどもすでに、戻るあてもない。こうなってしまったからには、この男と向き合うほかないだろう。
「…………エディー」
「ん」
「私も話すから、だからあなたの事も教えて」
「それなら、いいよ。お相子だもんね」
「うん」
結婚を買われた時は、何か言えないようなことに使われたり、とても目も当てられないような事になるかもしれないと思っていたが、こんなことは予想していなかった。
そしてまさか、こんな溺愛するような態度に恐怖して向き合う羽目になるとは考えもしなかった。
……それでも、やるだけやるしかない、ねっ。
そう考える自分の性分が悔やまれる。ポジティブに考えるようにしていても、根っからは他人をあまり信用していない人間だ。
彼の甘い言葉に、思考から何から何までとろけきってしまえば楽なのだがそうもいかずに、決心してエディーとの結婚生活を始めることを決めたのだった。
「そんなに意気込まれると、ちょっと困るんだけど」
「ひぇっ」
そしてその決意も見透かされ、また小さく悲鳴を上げたのだった。
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