クラスの委員長だった、憧れの彼女に誘われた。けれど……
1月。
成人式に合わせて、久々に故郷へと帰省する。
―――それは、ただの思い付きだった。
正月も実家に帰らず……そんな俺は、世間では親不孝者に分類されるのかもしれない。
思い返せば、大学へ進学してから1度もこの地を踏んでいなかった。普通なら、学生の特権である長期休暇を利用するなりして、最低でも年に1回くらいは親元へと戻るものだろう。
しかし、俺はしなかった。それくらい、今の生活が充実していた。
過去に比べれば、ね。
空港を出ると、辺り一帯は真っ白な雪に包まれていた。小さい頃から慣れ親しんだはずのこの光景も、この土地を去って2年も経てば、不思議と懐かしいものに感じられる。
「はぁ……」
1つため息をつくと、それに合わせて空気が白く色づいていく。久しぶりのこの現象を目の当たりにして、そんなに昔のことではないだろ、と俺は思わず苦笑いする。
日々の悩みや疲れなんかも、少しは笑い飛ばせるようになれただろうか。
これから荷物を一度実家に預け、スーツに着替えて式の会場へと向かう予定だ。
しかし、都会とは違って無駄に長い距離を、ただひたすらに歩き続けるのも退屈だから……
俺は懐かしい景色を眺めながら、過去を思い返す。
◇◇◇
高校時代の俺は、いわゆる『陰キャ』と呼ばれるような存在だった。
休み時間はいつも教室の隅っこでスマホを手にゲームをし、クラスでは目立たない存在―――いや、悪い意味で目立つ存在だったのかもしれない。
だが、あの頃の俺にとってはそんな日常が普通だったし、それで満足していた。
小さい頃から運動が苦手だった俺は、中学時代を部活に入らずに帰宅部として過ごした。高校に進学し、そこで初めて、男子でも部員の多い文科系の部が存在することを知り、ひどく驚いたものだ。
―――しかし俺には……色々と逃げてきたあの頃の俺には、今さら新たな輪の中に入っていく勇気なんて、これっぽっちも備わっていなかった。
一人で過ごす時間が圧倒的割合を占めていた、15までの日常。それは、残された青春時代を、仲間と呼ばれる他人とともに満喫するには……あまりにも大きすぎるハンディキャップであった。
コミュニケーション能力の欠如。
集団におけるノリについていくことに苦手意識を持っていた俺は、その精神的な弱さゆえに、入学してすぐに、1人の世界に閉じこもる未来を選択した。
中学まではそれで上手くいっていた。何もしなければ、誰も傷つけることはないし、誰にも傷つけられることはない。そのはずだった。
だが、高2のクラスは違った。春先から早々に、運動部に所属する男子たち数人によるノリの良いグループが形成された。奴らは自分たちのクラスにおける地位を高めるために、地味な奴の地位を下げるという手段を取った。
「地濃、またゲームやってるぜダセぇな」
お前らもゲームくらいやるだろ、って内心思いつつも、俺はスマホの小さな画面の中をただ見続けることしかできなかった。
奴らの陰口は、次第に何度も聞こえるようになっていった。だが、俺は奴らに直接話しかけられているわけではない。
ゆえに、奴らに返す言葉が思い浮かばなかった。下手に絡めば、かえって状況が悪化する未来も見えた。俺はコミュ障だったから、そういう他人との距離感を上手く測れなかった。
しかし、そんなことが続いたある日……
「他人の趣味をとやかく言うようなみっともない真似はやめなさい」
さらりと流れるように、しかし鋭く奴らに向けられたその声は、透き通るように綺麗だった。
彼女はその言葉だけを残すと、絹のように美しくて長い黒髪をなびかせながら、その場から去っていった。
たった一言で、奴らは怖気づいたのだろうか。
それ以来、奴らが俺について話題にすることはなくなった。
―――そして、救いようのないほどの馬鹿であった俺は……
あの日、彼女に恋をした。
彼女は学級委員だった。
空峰 清羅。真面目であるがゆえに性格はきつく、折角の美人にもかかわらず、男の噂の1つもない人だった。
だが、俺はそんな彼女に惹かれた。
自身の美貌を、正義のために利用する姿に憧れた。
彼女は別に、俺のことを肯定してくれたわけではない。
だが、そこがむしろ、当時の俺にとってはありがたかった。
―――俺自身、あの頃の自分自身のことは好きではなかったから。
今だからわかることだが、プライドの高そうな男子連中を黙らせるには、それ相応の価値のある人物が、特に女が口を出すことが効果的であった。彼女は、それをやってのけたのだ。
奴らの言動は明らかに度が過ぎつつあった。だから、彼女は釘を刺した。
格好良いと思った。
女の子に対して言うそれは、もしかすると誉め言葉ではないのかもしれないけれど。
そして……そんな彼女の隣には、どんな男が立つのだろうかと、ふと疑問に思った。
その場のノリとかテンションとかコミュニケーション能力とか、そんな表面上のものをどうにかするだけでは到底無理であることくらい、奴ら男子連中を見ていればすぐにわかった。―――同時に、それは非常に高い目標になるということも。
だが、それでも俺は、真面目で正しくあろうとする彼女の支えになれる男、そんな架空の人物に憧れを抱いた。
俺は彼女への想いを決して零さぬよう、しっかりと自分の胸の内に秘めたまま、密かに自己改革に取り組むことにした。
ゲームをする時間の多くは、勉強に充てるようになった。
出来の良い弟と比べられて勝手に不貞腐れ、そのせいもあって当時は仲が悪かった両親に、勇気を出して頼み込み、俺は塾に通い始めた。
塾には多くの知らない生徒が通っていた。他校の進学校の連中だった。
人見知りの俺にとっては、最初は怖かった。
だが、俺の知らない世界というだけだった。意外にも勉強に打ち込んでいる奴らには、運動が苦手だからとか厳しい親のせいでとか、俺と似たような悩みを抱えている者も多く、ただそのストレス発散の矛先をゲームに向けるか勉強に向けるかの違いだけであった。俺はそこで出会った彼らと次第に打ち解けていき、そのことが対人関係に対する自信へと繋がった。
◇◇◇
信号が青に変わった。
横断歩道を渡る。
大学近郊とは異なり、車通りの少なく静かな交差点。
もっと賑やかだったと記憶していたが……そんな風に、かつては当たり前だった価値観が変わっていくことに、時の流れを感じる。同時に、自分自身の確かな成長を感じながら……
俺はつい、初恋の彼女のことばかりを考える。
……とはいえ、そんなに思い返すような思い出はないのだけれども。
結局、卒業の日を迎えるまで、肝心の空峰さんと会話できたのは僅か数回のことだったのだから……呆れてしまうよな。
だが、あの日……あの放課後のことは、今でも鮮明に覚えている。
塾までの空き時間に教室で残って勉強していると、委員会の帰りに荷物を取りに来た空峰さんと、ばったり2人きりで顔を合わせたことがあった。
「地濃君、頑張っているのね」
彼女のクールな眼差しが少しだけ和らいだ表情が、とても印象的だった。
さり気なく声を掛けられただけで、俺の心臓が大きく跳ねたのは、言うまでもなく。
……好きな人に褒めてもらえた気がして舞い上がっていたなんて、思い出すだけで恥ずかしい。
だが、いつかは彼女と対等な関係に立ち、互いのことを素直な言葉で褒め合えるような、そんな人間になりたいと、一層強く思った瞬間でもあった。
空峰さん。
―――今は、どうしているだろうか。
大学生になり、きっとますます美しくなっていることだろう。
彼女ほどの綺麗な女性なら、今では彼氏の1人や2人……
正直、想像するだけで少し胸が痛む。
だがすぐに、真面目な空峰さんなら彼氏がいたとしても1人だけだろ、とくだらない突っ込みを自分に入れて、気を紛らわす。
それに、たとえ空峰さんに彼氏がいたとしても、それで彼女が幸せなのだとしたら―――
素直に嬉しいな、と思える心が今の俺にはある。
高校時代にはいなかった、彼女に相応しい男性。
俺はそれになりたかったが、別に俺でなければならないというわけではない。
だが、もし今の俺になら―――
憧れの女性に再会できるかもしれないという淡い期待が、初めての帰省へと赴かせたと思うと、我ながら本当にどうしようもなく、呆れてしまうものだ。
大学では友人は何人かできたし、居酒屋でバイトも始めた。
相変わらずガツガツした『肉食系』にはなれないし、自分の性格を根っこから変えられたわけではないが、普通の距離感で男女と会話をできるくらいには成長した。
それに、俺の通っている大学は、勉強の甲斐あって、自分で言うのもアレだがかなりの難関大学だ。空峰さんが進学したと聞いている東京の私大よりもはるかに学力は高く、それでもって彼女と釣り合う釣り合わないは置いておいて、少なくとも空峰さんに自分から話しかける勇気と自信が備わったのは、紛れもない事実であった。
―――さて、成人式の会場はもう目の前だ。
俺はその先へと一歩、足を踏み入れる。
少しだけ、また大人になれた気がした。
◇◇◇
結論からいえば、成人式というのは意外とあっけないものだった。
大きなホールに設置されたパイプ椅子に座り、大人の挨拶をいくつか聞いていればあっさりと終わってしまった。
特別何かに期待していたわけではないし、まあ良いか、と思いつつ、『成人式』と書かれた看板の前で写真を撮る人々を横目に、俺はかつてのクラスメイトで、数少ない仲間の1人である乙村くんと落ち合う。
高校時代の乙村くんとの仲は、かつての俺が自己改革の一環で話しかけたことをきっかけに、クラスでは時折会話をする……しかしその程度であった。暫く連絡を取っていなかったが、今回のことを機にメッセージを送ったところ、「勇有人くんがいるなら僕も行こうかな」と返信が来て、話せる仲間が全然いない俺は、内心かなりホッとしたのだった。
ちなみに地濃 勇有人というのが俺の名前だ。
勇気の有る人と書いて、勇有人。
この名前も、正直かなりのコンプレックスだった。
でも今なら……自信をもって自分の名前を好き、と言えるかな。
彼と談笑しながら、俺たちは高2から卒業までのクラスであるB組の同窓会の会場である居酒屋へと向かう。
店の入口には、既に何人かの同世代の人たちが集まっていた。よく見ると、知っている顔がちらほら……
いや、よく見ないとわからなかったというのは、別に陰キャだったから人の顔を覚えていないとかではなく、女というのは化粧で随分と印象が変わるんだな、なんて事実を目の当たりにしただけである。
こんなにも綺麗になるんだな、とか、ん?こいつ誰だっけ……なんて、本気で思い出せない子も……失礼な話だが。
例えばあの、少し離れたところで1人、つまらなそうにスマホを弄っている女なんて、見た目からして相当ヤバそうだ。いかにも遊んでるって感じで……
まあ、人というのは変わるものだ。それは今はどうでも良い。
男もたくさん集まっているというのに、なぜ俺は、女の顔ばかり探してしまうのかといえば、それはもちろん……
しかし、いくら探しても空峰さんの姿はなかった。
失念していた。彼女が参加するという保証はなかったのだ。
『まあ、そんなもん、だよな……』
乙村くんに不審がられても面倒だし、あくまで平静を装う俺だったが、内心はといえばかなりガッカリしていた。
幹事である男の方の学級委員に従って、大部屋へと案内され、1人ずつ座っていく。
彼なら今日の企画をする上で一度は女の学級委員にも連絡を取るだろうし、彼女の今について、何か知っているかもしれない。
クラスメイトとの再会を喜ぶでもなく、そんなことを考えながら席につく俺は……最低なクラスメイトだな。
飲み会は特に席替えもなく、淡々と進んでいった。
皆、どこかよそよそしい感じだ。―――久しぶりだからだろうか。
まあ話したい人もいなければ、こいつらとの思い出もそんなにあるわけではない俺にとっては、隣の乙村くんとだけ話していれば時間が過ぎていくのだから、ある意味都合が良かった。
しかし―――皆が並ぶ席の端っこでひたすら煙草に火をつけている、あの遊んでそうな女だけは、この微妙な空気感においても明らかに浮いていた。
元クラスメイトの誰もが、一切近寄らないようにしていた。
派手な金色に染められた髪は短く、それもあって耳元の大きなピアスが強調されている。肩や脚を大きく露出した服装も品がなく、色気を感じるというより……
確かに、関わりたくない、関わってはいけない人物のようだ。
退屈そうに煙草をくわえる彼女から、俺は慌てて目を逸らした。
そもそもなぜ、俺は今、彼女のことを目で追っていたのだろうか。
それに関しては、自分でもさっぱり意味がわからなかった。
♢♢♢
1次会が終わった。
代表者が清算している間に、ノリの良いグループの男子たちの1人が、2次会に行く人を募っていた。
『正直、もう帰ってもいいかな。でも、1人にしたら乙村くんに悪いしなあ……』
外の空気を吸いながら、この後はどうしようかなと考えていた……そんなときだった。
「ねぇ、キミ。勇有人くんでしょ?」
後方から、声を掛けられた。
突然で、最初は俺に対してだとは思わなかった。肩をぽんぽんと叩かれ、恐る恐る振り返ると……
あの、最も関わりたくないと思った女性が、そこに立っていた。
『コイツ……誰なんだよ……なんで……なんで俺の名前を知っている……?どうして、話しかけてきた……?』
俺は心の中で自分に問いかけるが、全く思い当たる節はない。
きつい煙草と、香水の匂い。
あらためて近くで見ると、思いのほか胸は大きいが……
それでもやはり、最も苦手な類の人種だ。
元々が陰キャである俺は、ただでさえ女性の気持ちなんて上手く汲み取れる方でないが……こういう女はますます、何を考えているのかがわからない。
「勇有人くん……ふーん、今はこんな感じなんだぁ、ふーん……」
彼女はどこか昔を懐かしむかのように、俺の耳元でそう囁く。
距離が近い。近すぎる。
クラスメイトの誰なのか思い出せない俺は、彼女に対して不気味さすら感じているが、それにはお構いなしといった様子で―――俺の首に腕を回し、背中には彼女の柔らかいものを押し当ててきた。
―――本当に嫌なタイプだ。
普通なら、すぐにでも彼女の腕を振り払っただろう。
なのに……
自分でも意味がわからないが、一切の抵抗ができなかった。
嫌悪感でいっぱいのはずなのに、心の内の僅かな何かが、彼女のことを受け入れようとしてしまったのだろうか。
ノースリーブの服から覗く彼女の白い腕は、大胆な行動とは裏腹に、細くて今にも折れてしまいそうだった。……一瞬、ほんの少しだけ、綺麗だなと思ってしまう。
だが、そんな俺の気の迷いは、彼女の吐いた煙とともに、すぐにかき消えていく。
「私、キミに興味があるな」
酒と煙草のせいだろうか。少し掠れた声だ。
しかし、こうして何度も間近で耳にすると、元は可愛らしく、綺麗な声だったのだろうなと思わせるような、どこか心地の良い響きだった。
馬鹿な女だな、と思う。
自分で自分の長所を潰して。
化粧のせいでよくわからなかったが、よく見ると彼女の目鼻立ちはかなり整っていそうだ。それに、スタイルもかなり良い。
……髪は何度も染め直したのか、ひどく傷んでいるが。あと、綺麗な白い腕につけた、大きな腕時計。その隙間からは……よく見ると、リストカットの傷跡のようなものが見えた。
俺は思わず目を背けた。
痛々しくて……
しかし、彼女は―――俺のことをまるで逃さないとばかりに、横から俺の顔をじっと覗き込んできた。
「ね?この後、2人で抜けちゃおっか?」
彼女の唇がそう動いた、その瞬間。
ドクン、と確かに1度、心臓が大きく跳ねた。
―――馬鹿かよ、俺は。こんなビッチに……
この状況を客観的に捉え、冷静でいようとする俺の脳内。
しかし、それとは真逆に、鼓動はどんどん早くなっていく。
だって……だってさ……
今、こいつの顔を真正面からまともに見て、それで、そのせいで……気づいちまったんだよ。
こいつが……
こいつが、空峰 清羅だって。
頭の中が追い付かなくなって、ぐちゃぐちゃと色々なことが渦巻いていて、だからこの女はきっと、俺の知らない人で……
「初めてなら、私がリードしてあげるよ?」
そう言って、彼女は首を傾げる。
リードってなんだよ。
お前はまるで慣れているみたいな……
あ……そうか……
やがて知りたくもない真実が、ゆっくりと頭の中に染み渡ってゆく。
彼女のことを知るたびに、俺の大切な何かが壊れていく感覚に襲われる。
……俺は一体、何を考えているんだ。
こんな薄汚い女なんて、今の俺には釣り合わないし、さっさと断ってしまえばいいだろ。
慌てて俺は、彼女の細い腕を振り払った。
―――急に、彼女の表情はしおらしくなっていった。これまではどこか強気だった彼女の眼差しが、少しだけ和らいでいく。
それは、まるであの放課後のような……
やめろ……その顔をするなよ……
やめてくれよ……
「……勇有人くんはA大だったかな。……頑張ってるんだね。私は……私はね、駄目だった、な……ははは……」
彼女の目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
そして、そんな彼女のことを、俺は……
これ以上、どうしても直視することができなかった。
俺は、彼女から目を背けた。
彼女は暫く、その場に立ち尽くしていたが……
「ねぇ三原くん。この後、時間あるー?」
やがて動き出したかと思えば、勢いよく別の男の元へと駆け寄っていった。
その男……三原は、特にクラスの中で俺の陰口を率先して言っていたやつで、俺の苦手なクラスメイトだった。
そんな三原の腕に抱きついた彼女が、じっとこちらを見つめる。彼の右腕にぴったりと密着したまま、彼女の目線と顔だけはずっと俺の方を向いていた。
彼女の目は、何かを訴えているようだった。
まるで、私を助けてと言わんばかりの目。
それなのに……
言葉が出てこない。
クソっ。俺はコミュ障を卒業したんじゃなかったのかよ。
俺は、俺は……
彼女に何の声も掛けてあげることができなかった。
周りに流されるようにして2次会へ向かう俺とは別の方角へ。
三原と2人、彼女は夜の明かりの中へと消えていった。
それから2次会が始まって……
聞こえてきたのは、彼女、空峰さんに対する話題ばかりだった。
「三原のやつ、空峰の誘いを受けるとかマジないわー」
「もう女なら誰でもいいんじゃね?」
「前の空峰ならまだ……」
「いや、性格最悪だったでしょ、口うるさくて。でもまぁ、今のビッチよりはましだけど」
一次会まで静かだった男連中が、彼女が去ったことで急に騒がしくなった。
「空峰さん、結実ちゃんと同じ大学なんだけどね、3年の終わりに両親が離婚してさ、その後の一人暮らしでタガが外れちゃったって話だよー。バイト先の男に騙されて、それからは彼氏をとっかえひっかえ……何かさー、信じられないよねー。クラスメイトの私たちにはあんなに厳しかったのにさー」
「学費払えなくてバイト漬けってこと?でもそれで大学行ってないんじゃ意味ないじゃん」
「いくら寂しいからって男とヤリまくりとか普通に引くわ。てか、相談できる人誰もいないのだって、真面目ちゃん演じてた自業自得でしょ」
「だよねー」
クラスメイトの女子たちが、空峰さんについて悪口とも取れるような噂をしていた。彼女が去った後で……これまでバラバラだった人間関係が、空峰さんというターゲットを得て、まるで一気に団結したかのようだった。
こんな日が来るなんて、一体どうすれば想像できただろうか。
俺は、自分の陰口を言われていたあの頃とは比べ物にならないほどの痛みを、胸にチクチクと感じていた。
空峰さんのことを……憧れだった彼女のことを悪く言われて、苦しい。
―――俺は何に憧れていたんだよ。
俺の記憶の中にあるのは、初恋をした、高2のあの日のこと。
こんなとき、彼女ならどうしたよ。
……どうしたって……いうんだよ……
「なぁ地濃。お前もそう思うだろ?」
空峰さんのことで盛り上がる中、幹事である男の学級委員に、そう問いかけられた。
―――何も言えなかった。
彼女はさっき、自嘲気味に呟いていた。
私は、駄目だった、って。
あいつ、馬鹿かよ。
俺だって……
俺だって、駄目な奴なんだよ。
俺も、空峰さんみたいになんて、なれなかった。
あの頃の彼女のように、正義を口にして、空気を変えることって……
こんなに、勇気のいることだったのかよ……
彼女のあの言葉があったから、俺は変わりたいと願った。
あの初恋があったから、俺は努力することができた。
彼女のお陰で、今の俺がいる。
それなのに俺は……
ここで、空峰さんのことを、見捨てるのか?
こいつらが、かつての俺にしてきたのと同じように。
気づけばジョッキの中身が無くなっていた。
俺はヤケになって、もう一杯注文する。
「おっ、いいじゃん!ガンガン飲んでいこうぜ!ずっとノリ悪い奴だと思ってたけどよ、お前、見た目も変わってよ、すっかりイケメンになりやがって」
隣の乙村くんが俯き続ける中、かつての友人でも何でもないただのクラスメイトたちが、今日はやけに笑顔で俺に接してくれる。
世界は変わった。
俺はこいつらにとって、『一緒にいる価値のある人間』に昇格したんだ。
だが、もっと飲め飲めと酒を進められる中、俺の頭の中は……どうしようもなく、1人の女のことでいっぱいだった。
空峰さんは今頃、三原と……
♢♢♢
そして、朝になっていた。
気がついたら、実家のベッドの上だった。
起き上がろうとして、直後、激しい頭痛に襲われる。
胃液が逆流してくる。
気持ち悪い。
トイレへと向かう。
昨日の記憶が……途中からはっきりしていない。
慣れないお酒なんて、飲み過ぎるんじゃなかった。
「うっ……オ、オ……」
目の前に、胃の中の全てをぶちまける。
それでも―――胸の内は、少しもすっきりしなかった。
全て、忘れてしまっていたら良かったのに。
昨日のあれは……嘘だったって、夢だったって、言ってくれよ……誰か……
仕事で朝早くから両親は出かけており、静かな家の中で、俺の嘔吐する音だけが響いている。
俺は彼女に何を見ていた?
彼女だって、同じ人間じゃないかよ。
理想を押しつけて、彼女のことを完璧だって決めつけて、それで勝手に幻滅して。
俺は何のために生まれ変わろうとしたのか。
同じような質問を、何度も何度も自分に繰り返して―――それでも、決して答えが出ることはない。
憧れだった空峰さんは、もういない。
昨日会った、あの女。
俺は、彼女のことを……
本気で、気持ち悪いと、思ってしまったんだ。
何人もの男に抱かれて、そんな彼女のことを今さら支えるなんて、とてもじゃないけど考えられなかった。
俺は、彼女へのぐちゃぐちゃな気持ちを自分に向けることで、何とかして鎮めようと努める。
俺は、どうして彼女を救えなかった?
俺は、自分磨きとか言って、なんで一度も彼女に連絡しなかったんだよ。
彼女が幸せになると信じて、勝手に恋を諦めて。
空峰さんが、悪い男に捨てられて、あんな風になってしまったところなんて、見たくなかった。
そんなことになるくらいなら、俺が……
俺が、彼女のことを幸せにしてあげたかったのに……
俺の憧れで、ずっと好きだった彼女は、もう、いない。
いないんだ……
「ううっ……清羅、せいらっ……」
無意識のうちに、俺は好きだった彼女の名前を叫んでいた。
知らないうちに、自分の顔は涙でぐしょぐしょに濡れていた。
また、気持ち悪くなって、もう一度吐き出す。
―――初恋の記憶も、一緒に、全部。
「清羅、せいらぁ、せ……いら……、うっ、く、くそっ、ぁあああああ………うあああああぁぁ……せいらぁぁぁぁぁ……………」
胃の中のすべてを吐き出した頃には―――
初恋の彼女の姿は、昨日の彼女に上書きされて、もう、思い出すことすらできなかった。