逃亡者
間違いない、甲高いがナクヌの声だ。
軟体生物から声がしたのだ。
耳をすませると「あああ……」と悲鳴のようなものが、ソレから発せられているのに気がついた。犠牲になった人たちの怨嗟の声だろうか。
「ヒラサカさん、気を付けてください」
横のアンティールが注意を促した。
無論、警戒を怠るわけがない。
鎌の柄を強く握る。
「っ! 嘘だろ、おい」
ボコボコと泡が出来るような音がした。視線の先の軟体生物の中心がぱっくりと割れ、丸い玉が出てきたかと思うと、いつの間にかナクヌの顔になっていた。
「自らを取り込んだ、とでも言うんですか?」
アンティールの問いかけに、出来たばかりの顔が「出来ればもう少し調査をしてから実践したかったんだがね」といたって普通に返事をした。
「でき損ないの脳を集めて並列にし処理能力を高めれば、進化できるのではないかと、一つの仮説を元に試してみたんだが、どうやらまだ足りないようだ。清々しい気分なのは確かだが、雑念が多すぎる。やはり学生ごときの脳をいくら集めたところで、足りないということか」
「そのままくたばれ」
アンティールの手のひらから、火の玉が飛び出した。話の途中に容赦なく放たれた攻撃はナクヌに命中することはなかった。
直前で触手にからめとられたのだ。
「見えているよ、アンティールくん。何個目があると思っているんだい。キミの一挙手一投足、手に取るようにわかる」
「……」
「キミはこう考えている。ならばやったらめったらうって処理能力の限界を試してみようと。無駄だよ。無数の触手を操作するのは私だ。一番良くできた脳が操作しているのだよ。新しい身体は悪くない。実験が捗りそうだ」
「ほんとうに、きちんと操作できていると考えているんですか?」
「……? たしかにこの身体は無数の失敗作の集合体だ。問題は統一者がいなかったことだが、いまやそれも克服した。高次元的存在に間違いなく近づいたのだよ。醜悪な見た目にはなってしまったが、学術的価値は計り知れないだろう」
「醜悪と……思っているんですね」
「とはいえ、機能的なのは確かだ。人類進化の一歩目として悪くない。あとはキミたちの脳を取り込んで、より先に行ければ、文句なしなんだが……もちろん協力してくれるだろ?」
「するわけないでしょ。いかれてるんですか? この状況で」
「価値がわからないか。仕方がない、キミの進化を手伝ってあげよう」
ゆらりとナクヌが揺れたかと思うと無数の職種が彼の背後から延びていた。無数にあるタコの足のようだ。あれにからめとられたら最後、もうまともに思考することはできないだろう。
あの絵のなかで、みた、光景にそっくりだ。
「ヒラサカさん」
ぽつり、と、アンティールは俺にだけ聞こえる声量で呟いた。
「いまからあれに近づきます。守ってください」
「は?」
びゅん、と空気を割いて、職種が真っ直ぐ延びてくる。
「くっ!」
草刈り鎌で切りつけ、なんとか防ぐ。
「あなただけが頼りです」
アンティールはゆっくりと、鞭のようにしなる触手に向かって歩き始めた。
「おおおいいい!!」
どういうことだよぉ、と叫ぶ暇もなかった。
飛ぶように襲い来る幾つもの触手。それらすべてを鎌で裁きながら俺はアンティールを守り続けた。
床に赤黒い血しぶきとびたびたと、触手の破片が落ちていく。切断されても数秒は意思を持ったように動くので油断はできない。
「うおおおとお!!」
俺の腕は二本だ。いくら何でも限界がある。
「なんということだ」
ナクヌが驚嘆の声をあげたのを意識の隅で確認する。自分でも驚くような見事な鎌裁きだ。今度からメインウェポンこれにしようかと思うほどの動きである。
アンティールは俺の華麗なる鎌さばきに目もくれないで真っ直ぐナクヌに近付くと、小さな手のひらをそっと、浮き出たナクヌの額に当てた。
「ほんとうに、戻す手段は存在していないんですね?」
アンティールはナクヌに寂しそうに尋ねた。
「混じりあった遺伝子が分離できるはずがないだろう」
不可思議なアンティールの行動にピタリと攻撃がやむ。
なぜとどめをささない?
彼女の行動の意図が全く読めないのは、俺の脳に酸素が行き届いていないからだろうか。
「……すみました」
アンティールはそっと手を離すと寂しそうに呟いて、踵を返した。
「な、なんだよ、いまの」
アンティールは小さく「ふぅ」と息をついてから続けた。
「私はもう疲れました」
「疲れたって……どうすんだよ」
ナクヌは存命で心底可笑しそうに笑っている。
「キミはまったく愉快な人物だ」
およそ人の言葉とは思えないほどくぐもって聞き取りづらい声だった。先程とは形態が違う。体積が倍ほどになっている。見る間に変化していくのだ。
「でもしかし、私に傷をつけたところでもはや無駄だよ。生物進化の目的の一つは永遠にある。子孫を残すのもそのための手段だが、私は一人でそれに近い進化をやってのけた。傷がついたとしてと」
と興味のない演説を続けていたナクヌの体が崩れ始めた。
「え」
まるでかさぶたが剥がれるようにボロボロと表皮が落ちていく。
「どういうことだ」
アンティールを見るが、特に説明することなく、瓦礫に腰掛け、ぼんやりと空を眺めている。
「なんだこれは、なにをした……!」
戸惑うナクヌを無視して、アンティールは立ち上がり、俺に向かって「帰りましょう」と言った。
「いや、平気なのかよ、なんだよ、これ」
「輪廻の紋章です」
「輪廻?」
ここでなぜそれが出てくる。
記憶を保持したまま転生ができるようになる紋章だ。それ以外の力なんて……、
「あ」
「輪廻の紋章で、ナクヌが取り込んだ魂の前世を思い出させました」
「……」
「彼らはこのままナクヌにコントロールされたまま集合体として生きるより人としての尊厳をもったまま死ぬことを選んだようです」
「なんていう……」
輪廻の紋章によって、前世の記憶を取り戻すことは、救いとなり得るのか?
俺にはよくわからない。
「帰りましょう。もう二度と来たくない」
かつての学舎をアンティールは心底毛嫌いするように吐き捨てた。
「ははははは! すごいぞ、これは。輪廻の紋章! そうか、なるほど! 紋章は細胞の自発的死すら操るというのか! これこそが私が求めていた世界! 究極の進化! 人類は新しい一歩を」
崩れていく最中もナクヌは持論展開をやめなかった。ここまで筋金入りのくそやろうだと一層尊敬の念すら沸いてくる。願わくば彼が地獄におちますように。
「アンティール……」
いつもより小さい彼女の方に手を乗せる。
校舎に吹き込む秋風は冷たく、冬の訪れを予感させるものだった。
「はやくここから出よう」
その後、魔導院で行われた非人道的実験の数々は帝都からの調査団の手によって明るみになった。
実験の首謀者であるナクヌは失踪という形で処理されたが、俺とアンティールは重要参考人ということで帝都に召集されることになる。紋章保持者であることを説明できないことが裏目にでて、言っても分からぬ役人に痺れを切らしたアンティールが逃亡したことにより、俺たちは役人に追われる身になった。




