落花
再び虚ろの大穴の前に立ったとき、東の空はすっかり明けていた。朝焼けはどこでも赤いらしい。夜の残滓が吹き抜けた。小鳥の鳴き声が四方八方から響き渡っている。
アンティールは俺にパラシュートのつまったリュックを背負うように言ったが、片手が無いので、装備を整えるのにえらい時間がかかった。
「グズですね。さっさとやってください。ちんたらとろとろ、カタツムリのほうが素早いですよ」
「左手がないと不便なんだよ。そんなに言うなら手伝ってくれよ」
「幽体は現世のものに触れることが出来ないんですぅー。身に付けていたものだけ。ちんたらとろとろちんたらとろとろー」
縁石に腰を下ろし、足をばたつかせながら、退屈そうにオリジナルソングを歌い始めた。ようやっとリュックを背負い、アンティールからパラシュートの開き方を教わる。肩紐を引っ張るだけなので、特に問題無さそうだ。
「待ちくたびれましたよ。おばあちゃんになっちゃうところでした」
準備が整い、穴の前に仁王立ちする。高さにビビって足がすくむ俺の手をアンティールがそっと握ってくれた。幽体なので感触はなかったが心強かった。
「今の私には生体エネルギーしか見えませんからね。はぐれると面倒なんで手を繋ぎましょう」
別に俺を励ましてくれているわけではないらしい。
「さ、はやく飛んでください」
「……いや、ショックなことが連発して、いろいろ忘れてたけど、冷静に考えたらこれけっこう雑な作戦じゃないか?」
「ビビってるんですか?」
「……怖くないわけないだろ」
下から吹き抜ける風が前髪を浮かす。唸るような風音が恐怖心を際立たせる。底は暗くなにも見えず、どれ程の深さなのか、落下中に障害物はないのか、それすらも想像もつかなかった。そもそもにして、虚ろの大穴の調査は易々と行えるものではない。
「やっぱやめな……」
「爆発!」
「ぐっはぁ!」
背後で爆発が起こり、俺は爆風に吹き飛ばされた。吹き飛ばされた先にあるのは、巨大な空洞。真っ暗闇が全身を包み込む。
アンティールは幽体になり、実体を失ったが、魔法は使えると言っていたのを思い出した。このくそ女、覚悟が決まってない状態でバンジー台から突き落とすような悪魔の所業だ。
まっ逆さまに闇に落ちていく。
「ほらほらヒラサカさん、急いで! 紐引っ張って」
正面から抱きついたアンティールが耳元で囁いた。風の音が強いが、彼女の声は透き通るようによく聞こえた。異性から抱擁されるのは初めてだったが、なんのロマンスも無く、悲しくなった。
前後左右の感覚が無くなり、ただ真下に落下している感覚だけかある。
空中でなんとか体勢を整え、うつ伏せのような形を取ることに成功した。スカイダイビングの基本型だ。下から猛烈に吹き上げる風に眼球が乾いて涙が出そうになった。
「はやく! 紐ひっぱって!」
アンティールが珍しく慌てたように叫んだ、そうだ、パラシュートを開かなくては。
残された右手を必死に動かし、肩紐を掴む。あとは簡単だ、それを思いっきり、引っ張るだけ。
「あばっ!?」
ダンッと鈍い音とともに、衝撃が腹部から沸き上がる。
「ああ! バカ!」
アンティールが叫ぶ。どうやら、せりだした岸壁に腹部を打ち付けたらしい。眼前には暗黒のみが広がっているので状況把握に時間がかかったが、お湯のように全身にかかったのは血液で間違いないだろう。
「傷は私が治しますから、ともかく紐を引っ張って!」
回復魔法は苦手と言っていたのに、アンティールは心底慌てているらしい。
「らじゃあー……」
朦朧とする意識のなかなんとか紐を引っ張る。腹部が燃えるように熱かった。
バサッ、という大きな音がして、バラシュートが開き、ふわりと全身が浮き上がった。
アンティールが耳元でなにかを呟く。どうやら回復の呪文だったらしい。じんわりと腹の傷が癒されていくのを感じた。
「ふぅ、なんとかなりましたね。しっかりしてくださいよ、ヒラサカさん。地上に残した左手よりも大きな遺体になって、死亡しちゃうと全部がパーなんですからね」
そうか。たしかにそうだ。死ぬときは細切れになって死なないと地上で再生されない。出口のない地下空間で甦ってしまうと、戻る手段がなくなってしまうのだ。だから、地下で死ぬときは出来るだけ細切れになって、って、
「おい、なんだよ、そんな死にかた嫌すぎるぞ!」
朦朧としていた意識もようやくはっきりしてきた。
「細切れには私がしてあげますから、頼むからその前に死なないでくださいね。こっちで再生されちゃうと左腕も完全な状態で蘇生しちゃうんですから、二度と上に戻れなくなりますよ」
「確かにそうだけど……」
どうにかできないだろうか。いくら不死であろうと死ぬのは嫌なのだ。
いくら考えても方策は浮かばない。細切れは勘弁だ。なんとか大穴の先に出口があることを祈ろう。
「というか、この穴深くないか」
けっこう長いこと落ちてるがいまだに底にはつかない。
「暗いし、着地の仕方とか俺わかんないぞ」
と、文句を言ったらアンティールはモゴモゴと呪文を唱え、反論もせずに灯りを灯してくれた。何らかの魔法だろう。
ランタンのような柔らかい温かな灯りに照らされた穴は巨大な鍾乳洞のようになっていた。幸いにして入り組んでいないようなので、このまま垂直に下っていけば底にはつくだろう。ゴツゴツとした岩肌が延々と続いている。とりあえず危機はなさそうだ、
と、一息ついた瞬間、
「あっ、これまずいやつだ」
アンティールが呟くとともに、パラシュートが切り裂かれた。
「え?」
がくん、と体が傾く。上を見ると、白くヌメヌメした謎の飛行生物が三体、パラシュートにしがみついていた。目が瞑れた小鬼のような生物だ。皮膜を広げて、パラシュートをとがった爪で引っ掻いている。コントロールを失い、切りもみ回転しながら落ちていく。気持ち悪くなってきた。
「グレムリン!?」
アンティールが叫んだ瞬間、紐が切られて自由落下が再び始まる。
どうやら彼らは暗いところで生きているので、灯りが苦手らしい。そんな考察をする間も無く、終着点が訪れた。
どくしゃ、というギャグみたいな音を立てて、着地に失敗した俺は穴の底で真っ赤な花を咲かせたのだ。