夜明け前の青空に
アメントがそう言うと、突然黒い靄のようなものが彼女の体から吹き出した。機関車の蒸気のようだ。
そうか、これが。
あれよ、という間にスモッグは巨人の手のような形になり、地を這うように真っ直ぐジェヴォーダンに向かって延びた。禍々しい塊だ。
俺は鞘から刀を抜き、アンティールの元に向かう。靄に触れないよう、一気に駆ける。
「横に飛べぇ!」
俺の声にアンティールはハッとした表情を浮かべ、倒れるように伏せた。
獣は相変わらず棒立ちだ、命令されない限りこいつらは動かない。
「ぬぅおぉぉぉぉ!!」
ジェヴォーダンの立っていた位置に黒い靄が吹き抜ける。闇に包まれ、様子はわからなかった。ただ滝が落ちるような轟音が響いている。
「アンティール!」
飛びだした勢いそのままに、縄を切り、一緒に駆け出す。
「心霊の紋章を発動させたんですか!?」
「ああ。そうだ! あとはこのまま脱出するだけ……」
二人で走りながら、背後を振り向き、異変に気付く。
靄が晴れ始めている。
「考えが甘いですよ!」
横を走るアンティールが叫ぶ。
「関係のない他人を深く恨むことはできません。ましてや、他者を燃やし尽くせるほどの怒りを抱ける人間など皆無です」
アンティールが手のひらを突き出し、「りゃあ!」と雄叫ぶと、火の玉弾け出した。
どぉん、と音がして、着弾した位置に火柱が上がる。
「追撃っ!」
続けて、二撃、三撃と続く。アンティールはその場に立ち止まり、魔法を放ち続けたが、
「ははははははははははははは!」
響き渡る哄笑にゆっくりと力なく突き出した手を下げた。憎々しげに少女が舌打ちをした瞬間、靄が完全にはれた。
笑い声が広場に響き渡っている。
火柱が収まった場所で、ジェヴォーダンがニタニタと立っていた。焦げ臭かったが、ヤツ自身は身綺麗な格好のままである。
「そんな、どうして……」
アメントが絶望に顔を青くした。
「獣どもよぉおお、その女をとらえろぉぉぉお」
「きゃあ!」
複数の毛むくじゃらの手が伸び、彼女を地面に押し付けた。
「紋章移動までぇはぁ、生かしておいてやるぅ。まもなくよぉお、まもなく夜明けよぉおおおお」
俺とアンティールの行く手も、何匹もの獣に阻まれていた。逃げ道はない。
「なぜ、心霊が効かん!」
アメントが悔しそうに叫ぶ。
「貴様のぉぉお、恨みの力はぁ、弱いいいい!」
ジェヴォーダンが笑いながら、倒れ伏したアメントの位置へ向かう。余裕綽々なゆっくりとした歩調だ。
少し離れた位置で、俺とアンティールは立ち尽くすばかりだった。
「その程度の力なら結界の紋章でぇえぇ、難なくふせげるうぅぅう」
ジェヴォーダンは左手の手のひらを突きつけた。四角形が二つ、折り重なったような紋様が浮かんでいる。
あれが「結界の紋章」か。ジェヴォーダンは心底可笑しそうに、ニタニタと笑いながら左手をアメントの頭頂に掲げた。
「う」
「獣よぉ、もうはなしてよいぞぉぉお」
少女を地面に押さえ込んでいた獣が離れる。
アメントは憎々しげにジェヴォーダンを睨み付けながら、立ち上がったが、どうにも様子が変だ。
「これは……」
見えない壁に四方が取り囲まれているみたいだった。パントマイムのようにアメントは必死に透明な壁を叩いているが、前に進むことはできないようだった。
「これこそが結界の紋章おぉぉお、さあああてぇええ」
ぐるりとこちらに首を動かし、はっきりと明確に、ジェヴォーダンは俺を睨み付けた。
「不死と輪廻よぉぉ。次は貴様らの番だぁぁあ、夜明けまで、まもなくぅ、大人しくするがよいいぃいいい」
右手の人差し指をピンとたてて、俺を指差す。
「獣どもよぉぉぉ、そこなうつけどもを捕らえよおおお」
一斉に鳴き声があがる。絶望が津波のように押し寄せてきた。
ベルトから鞘を外してから、剣を抜き、構える。
アンティールもファイティングポーズをとった。持っていた杖はジェヴォーダンに捕まったときに破棄されたらしい。
数分先が虐殺だろうと、抵抗しないわけにはいかない。
溢れんばかりの獣の群れ。
絶望が脳裏を掠めるが、考えたって現状は変わらない。ただ、前に進むだけだ。
「うぉお!」
アンティールと背中合わせになる。そうせざるを得なかった。お互い前方の敵に集中するしかないのだ。
人狼、振り下ろされる爪を鞘でいなし、脇腹から切り上げる。
一体一体はそれほど強くない。緩慢な動作で動きも読みやすい。背後がアンティールによって、守られているので囲まれることはなかったが、一番の問題は数と体力だった。はやくも息切れがし始めている。
後方で爆発音がした。アンティールがなにか魔法を使ったらしい。
「そのままで聞いてください」
「なんだ?」
豚の右足を切り捨てる。後ろの猫が飛び上がっている。
「アメントをなんとか救いだしてください」
「無理だろ! この数、どうしようもない!」
「無理だとか無駄だとか聞きあきたし、あったとしても私たちには関係ありません。つまるところ私たちの目的は最初から最後まで彼女を救うことだけなのですから」
バキバキと急激になにかが凍りつく音がした。氷結魔法を使ったらしい。
そのまま、目の前の獣どもと相対しながらアメントと会話を続ける。
「斜線上にアメントとジェヴォーダンが並ぶ位置に来ています。最大限の威力をもった極大火炎魔法をぶっぱなし、前方の深淵の獣どもを一網打尽にします。結界の紋章で守られているのでアメントがやられるのとはないでしょう。あわよくばジェヴォーダンも倒せれるかもしれません……」
完全にスキをついたアンティールの白刃の一撃や、アメントの心霊の紋章すら通用しなかったのだ。うまく行くとは思えなかった。
「四方を結界に閉じ込められたアメントを動かすことはできない」
「火炎魔法を目眩ましに私が接近し、ジェヴォーダンの左手を切り落とします。紋章を失えば流石のヤツも混乱するはず。そこをつき、首落とす」
正直そんなにうまくいくはずがないと思ったが、このままじゃじり貧なのも確かだ。
「五秒後にいまある魔力を最大限使って前方に大火炎魔法を発動させます。発動中は私の背中をを守ってください、火炎が収まった瞬間、私に剣を渡し、アメントの元に駆けてください。いきますよ、五、四、三……」
返事の前に謎のカウントダウンが始まった。つまるところ、やるしかないのだ。このまま続けていても、無数にいる獣に体力を奪われ、引き裂かれるオチである。それならばまだ体力が余っている段階で賭けに出る方が合理的だ。覚悟を決める。
「一……!」
前方の敵を切り伏せ、アンティールが「はっ!」と叫んだ。
タイミングをつかむためには、アンティールの様子を見ておく必要がある。右目のみ千里眼を使い、背後を観察する。
つきだしたアンティールの右手。そこが起点となり、白い光が一瞬瞬いたかと思うと、コンマ数秒遅れて崩れ竜のブレスのような火炎が放射される。
「ぐぅおおお!」
毛むくじゃらの獣はよく燃える。
猛烈な爆発音は一瞬で収まり、背後がパッと明るくなる。俺たちの影が真っ直ぐ延びた。
「むぅ!」ジェヴォーダンが火炎に包まれ、見えなくなる。普通なら即死の状況だが、やつがこの程度でくたばるとは思えなかった。
それにしても、アメントは無事だろうか。アンティールは結界の紋章があるから平気だと言っていたが。視界をそちらに移動しようとしたとき、脇腹を鳥型の獣の鉤爪に引き裂かれた。
「ぐっ!」
「 目の前の敵に集中してください!」
「あ、ああ、すまない!」
俺の剣の振りが遅くなったので、千里眼が使っていたことがばれたらしい。アンティールに怒鳴られる。
スキル発動をやめ、目の前に迫り来る獣を俺は切り捨てた。




