硝子の破片とオーバーロード
どくちゃあ。
そんなおかしな擬音が耳穴に響き、
「なっ」
ドロドロと生暖かい血液が喉から溢れる。
「港、あんた、なんてことっを!」
突然の同級生の凶行に慌てる堂本が俺の最後の視界に映った。
「シー。殺すときはできるだけ早く、静かにね」
「さ、サイコパス! 」
「誤解しないでください」
聴覚からまず復活し、
徐々に五感を取り戻していく。
むくりと軽くなった体を起きあがらせ、口許に残っていた血を拭ってから、
「ありがとう、アンティール」
と、お礼を告げる。
「どういう……!」
堂本は開いた口が塞げないようだ。
そりゃ、死んだはずの同級生がその場で生き返ったら驚きを通り越して恐怖だろう。
「説明はまたあとです。ともかく今はこの状況をどうにかしましょう」
状況は依然最悪に変わりない。
窓の外には無数の触手が蠢いており、いつ室内に入ってきてもおかしくはなかった。
「アンティールはどうやって切り抜けて来たんだ?」
隣の部屋も限界だったはずだ。あんなあふれでた触手の中でよく無事でいられたもんだとたずねたら、事も無げに「頑張った」と返された。
「じゃあ、この状況もご自慢の「努力」でどうにかして見せろよ」
「私は長女だから頑張れたけど、次女だったら頑張れなかった」
「理由になってねぇよ」と文句を言おうとしたら、
「私の頑張りが一番ですが、突如として触手の動きが鈍くなったのです」とアンティールは付け足した。
「鈍く?」
「えぇ、おそらく堂本桜の心情にあの触手はリンクしているのでしょう。冷静に考えれば当たり前です。この世界はあなたを守るためにできたのですから」
アンティールは真っ直ぐに堂本を見つめた。
「守る……」
「腐っても神ですからね。心に住まうことすら、可能なのでしょう」
「あの、ごめん、その前に、一ついい?」
少しだけ言いづらそうに堂本が口を開く。
「なんで、敬語なの?」
「……」
「……」
「癖になってんだ、敬語で話すの」
それはもういいよ。
「私の心に住まうって、どういうことなの?」
堂本は不安そうに自らの胸に手を当てた。
美術室に溢れる触手がこちらの部屋にこようとドアを叩きつけている。ドンドンと太鼓をならすような音がする度にドアがひしゃげ、歪み始めている。あまり時間はなさそうだ。
「単純な話ですよ」
ちらりと窓の向こうに目をやって、アンティールは続けた。
「現実世界においては滅んだ異形の神ですが、消滅の前に堂本桜の魂に巣くったんです」
「そんなこと可能なのか?」
思わず声をあげていた。他人の魂に引っ付くなんて意味がわからなすぎて秩序がない。
「神ならば、意識を植え付けるだけで、復活することさえ可能なのかもしれません」
「つまり、あの触手は記憶じゃなくて神そのもの、って言いたいんだな」
わからないが、ファンタジー世界に詳しいアンティールがいうから間違いないのだろう。
「いまはただの記憶だとしても、これからはわかりません。神ならば、ただの記憶から復活することすら容易いでしょう」
アンティールはカッターナイフを扉の先に向けた。扉の限界は近い。塗装が剥げて、ヒビが起こっている。
「俺たちはどうすればいい? もったいつけずに教えてくれ」
アンティールより一歩まえに出る。
「どうすることもできません。この現状は打破できるのはこの世界の創造主だけです」
少し前に俺がたどり着いた結論と同じだった。
「桜、思い出してください」
「お、思い出すって、いったいなにを」
「あのタコがどこから来たのか、どこへ消えたのか。あなたの記憶が前に進めば、必然的に消滅させられるはずなんですよ」
「そんな、こと、言ったって……」
戸惑いながら、堂本は後ずさった。
意味は半分も理解できなかったが、堂本が触手を無意識のうちに制限しているのだとしたら、彼女には無秩序をコントロールしてもらわなくてはならない。
「難しいことではありませんよ。バスが横転してこっちの世界に来てからのことを順繰りに思い出せばいいんです」
隣の美術室の触手がどしんと音をたてて、こちらに流れ込もうとしている。俺は慌てて、ひしゃげた扉を、もたれ掛かるように支えた。焼け石に水だとしても、多少はましだろう。
「思い出せないの!」
堂本が沈鬱な表情で叫んだ。
そりゃこんなパニック状況下で冷静に記憶の糸を辿ることなんてできないだろう。
「落ち着け。この部屋には俺が命をかけても触手をいれないから、心を鎮め……」
怒鳴った瞬間、
「あ」
窓ガラスが砕け散る音がして、吹き込む風にカーテンがブワリと浮き上がった。
ガラス片と雪が輝きながら俺たち三人に降り注ぐ。
「ガラスのシャワーだッ!」
アンティールが叫ぶ。窓の外にも触手が溢れていることを忘れていた。
ガラスで頬が切れた。
大量の触手が品定めするようにうねっていた。
終わりだ。
もうどうしようもない。
一斉に襲いかかる触手。
「あ……」
堂本が流れ星を見送るような表情でそれを眺めながら、
「いつかどこかで……」
小さくぼやいたのを薄れいく意識のなかで聞いた。




