ドゥーイット
できるだけ相手を逆撫でしないように、柔和な笑みを意識して、俺は一歩前に進んだ。
「俺だよ。ヒラサカだ」
室内は蛍光灯に照らされ、明るかった。
「ヒラサカ……くん? メガネは?」
「いや、最近視力よくなったから外した」
「そう」
聞いたくせに興味なさそうに俺から視線をはずすと、また窓の外に目をやる。
「こんなところで何してるんだよ」
「べつに、なにも」
彼女はこちらに一瞥もくれず、窓の外を眺めたままだった。
堂本桜。
クラスメートだが、まともに会話したことはない。
ただ物静かで、常に落ち着いた雰囲気をもった女子だったことは覚えている。
ふと、先ほど机から落ちたプリントの太字のフォントが目に入った。
【修学旅行のお知らせ】
保護者に配られるプリントだった。日程をまとめたもので、それが配布されたとき、俺たちは将来の青春に胸を高鳴らせたのだ。
だが、現実は非現実的で非情だった。
俺は屈みこんでプリントを拾い上げ、机に戻し、「なあ、修学旅行のときのこと覚えているか?」と尋ねた。
「……」
返事はなかった。
この世界は彼女の思念をマガルトが描き出した世界だ。
出てくる化け物は俺たちを殺したやつらなのは彼女の精神が歪んでしまっているからに違いない。
「おい」
無感情で虚ろな目はなにも語らない。彼女の肩に手をやるが、全く反応が無い。
今しがた見せてくれた反応すら、まるで幻だったかのように微動だにしない。まるでマネキンのように生気がなかった。
「なに見てるんだ」
彼女の目線をたどり、視線を合わせると、広がるはずのサンクガーデンは形容しがたい謎の物体で溢れていた。
これは、なんだ。
言葉を失い、恐怖した。
赤黒いうねうねとスライムのような物体がサンクガーデンを埋めつくし、脈動している。
降り続ける雪はその物体には積もらない。体温があるということだろうか。
「まさか、これ」
触手だ。
数えきれないほどの触手が溢れ、一つの物体のように見えていたのだ。校舎は崩れ、土煙が上がっている。
隣の美術室の窓は全て割られ、中になだれ込んでいるようだった。
想像絶する惨状に、破壊音はいっさいなく、この部屋だけ切り取られたみたいに無音だった。
「アンティール……!」
慌てて、入ってきた扉まで引き返し、ドアを開けてギョッとした。
肉の壁だ。近くで見る吸盤に規則性はなかった。
「……」
扉を静かに閉める。
すまない、と心の中で謝罪する。
美術室は見る影もなく、そこに踏みいる勇気は俺には無かった。
どうにかしなくてはならないと思うが、いまの俺には武器がない。箒の柄程度じゃどうしようもないだろう。
この状況を打開できるとしたら、その方法は一つしかない。
「堂本!」
叫ぶように窓辺の少女の名前を呼んだ。
「アンテ、じゃなかった、港が隣の部屋にいるんだ! あの触手をどうにかできないか!?」
「……ミナト……キリカ?」
無反応だった少女の瞳に僅かな揺らぎをみた。
「あいつも堂本のことを助けに来たんだ」
ピクリとまぶたを動かして彼女は俺のほうを見つめた。
「あいつも、ってことはヒラサカくんも?」
ようやく人としての感情の揺らぎが彼女の瞳に現れた。
「あ、ああ。お前が絵の中に閉じ込められてるって聞いて、港といっしょに」
「閉じ込められてるんじゃないよ。私がここにいたいだけ」
「……こんな世界にか?」
触手は徐々に準備室にも迫ってきていた。外の明かりは暗闇に飲み込まれていっている。
「ここなら誰もいなくならない」
堂本はゆっくりと手を伸ばしてカーテンを掴むと、臭いものに蓋をするように、窓の外の異界を遮った。
エントランスにあった時計の動きを思い出す。修学旅行は前日の日付で俺たちはバスに乗ることはなかった。
だけどデーモンは現れたのだ。
この世界を創造した堂本でさえ、深層心理でみんな死んだことを悟っているのだ。
だから、望みと現実が混じりあい不均一な世界が生まれている。望みが叶う世界なんてない。
「なに言ってるんだ。あんなタコに延々とやられるなんて最悪だろ」
「そうでもないよ」
浅くため息をついて彼女は呟くように言った。
「アレを喚んだのは私だから」




