戻り電車はもうない
ガラリと小気味良い音がしてドアはすんなりとスライドした。
たくさん並んだキャンパス。石膏像。流し台の下に置かれたバケツ。室内に人影はなく、しんと静まり返っている。
絵の具の匂いがツンと香った。
「堂本、いないな」
念のため机の下を覗きこんでみたが、人のいる気配はない。
「おかしいですね。さっきまでいたのに」
呟くように言って、彼女は窓辺に立てられたカンバスに近づいた。そこには描きかけの絵が置いてあった。
青を基調とした水彩画だった。
描かれているのは教会だ。
「ヒラサカさん……これ」
間違いない。血の上の教会だ。柵の前にある大きなクスノキには見覚えがあった。
「なんでここに」
軽く首を捻ったとき、ガシャンとガラスが割れる音がして、美術室の窓から細長い触手が飛び込んできた。
「うわっ!」
慌てて倒れこみ、一撃を回避する。
うねうねと触手は俺たちを探すように空中を漂っている。机の上に伏せられていた椅子を触手がなぎ倒すと同時に、再び窓が叩き割られ、数本の触手が入ってきた。弾け飛んだ窓枠が床に転がる。
やはり奇妙だ。このタコは明確な意思をもって俺たちを襲ってきている。
「あの娘はあの部屋にいそうですね」
アンティールは上空でふわふわと揺れるそれを睨み付けながら、奥のドアを指差した。
「まるで守っているようです」その場でスッくと立ち上がり、近くにあった工作用のカッターを手に取り、刃をカチカチいわせながら出した。
「おい、そんなんで太刀打ちできるのかよ」
「できますよ。私をなめないでください」
床に転がる砕けた石膏像の一つに近づき、欠片の一つに刃を突き立てる。
「なにしてんの?」
「補正武器です」
パァと一瞬カッターナイフが光る。
おそらくいつか見せてくれた魔法武器を作成したのだろう。外部への干渉は無理でも内部に働きかける魔法ならば使えると言っていたし、いまの光り方は前にみたものとよく似ていた。
光が収まり、彼女の手に持ったカッターは土器色に変色していた。赤錆が浮いたみたいで切れ味は悪そうだ。
「これでこのカッターの刃には粘土の「土」属性が宿りました。土克水。土は水に打ち克ちます。触手は見るからに水属性ですからね」
ひゅんと風をさいて、真っ直ぐに触手を見つめる。
「ヒラサカさんは堂本桜を探してください」
黒板の横に扉をアンティールはカッターの刃で示した。準備室だろう。辺りにいるというならば、もうあそこしかない。
「私が触手を引きつけます。今のうちに!」
「わかった」
机を踏み台のようにして飛び上がった少女が触手の一本に切りかかる。
スバン。少女の放った一閃に、あっさりと触手は切り落とされた。痛みは感じるのだろうか。驚いたように身を縮ませる触手に、
「今の私にスキがあったらなぁー、どっからでもかかってこんかい!」
とファイティングポーズを決めた。
安っぽいその挑発にまんまと乗せられたらしい残された二本の触手が一斉にアンティールに襲いかかる。
「しゃおらっ!」
俊敏な動作でそれをかわし、
「なに、ボサボサしてるんですかっ、はやく行ってください!」
と俺を叱咤した。慌てて、その場に背を向け、準備室の扉を開ける。
鍵はかかっていなかった。
倒れこむように扉を開け放つ。
バタン、と大きな音をたてて背後でドアが閉まる。準備室は隣の喧騒を切り離したように静まり返っていた。
開け閉めの際に生じた風が、机に置かれていたプリントを浮きあがらせ、床にさらっていった。
滑るように移動したプリントを止めたのは上履きだった。
「あ」
ゴムの部分の色は赤。森沢高校は学年によってネクタイと上履きが色分けされており、赤色は俺と同じ一年生であることを示していた。
静寂が耳を打つ。自身の唾を飲み込む音がやけに響く気がした。
「……」
長い紺色のスカート、ブレザー。肩までかかった長い髪。
女生徒はぼんやりと椅子に腰掛け、窓の外を眺めていた。
「堂本……」
責任感が強く、力強い目をしていたはずの少女は、見てわかるぐらいにやつれていた。
声をかけられて、初めて俺と言う存在に気づいたのか、彼女は緩慢な動作で顔をこちらに向け、
「誰……?」
と蚊の鳴くような声を発した。
掠れて聞き取りづらい声だった。




