階段下ル
ふと、廊下が薄暗くなった。
「あ」
アンティールが口を開いたまま硬直した。なんだろうと思って彼女の視線を辿り、窓の外に目をやった。
「な……」
とてつもなく、でかい目玉がこっちを見ていた。白目の部分が濁った黄色をしている。運動会で転がす大玉なんかよりも、ずっとデカい。
「……」二人して言葉を失い、立ち尽くした。
先程の触手の持ち主だろう。
イカやタコを彷彿させるギョロリとした目玉。ヌメヌメと湿った皮膚には、なぜか苔がびっしりと生えていた。現実感乏しくなるほど巨大な生物だ。
崩れた瓦礫によって塞がれた廊下はほとんど袋小路で、逃げ場はなかった。
「……」
アンティールの魔法は期待できない。いまの彼女はほとんど非力な女子高生だ。
拳をギュッと握り固める。
ふと昔どこかで聞いた雑学が頭をよぎった。
イカの目玉の解像度は高く、脳の処理能力を遥かに越えているらしい。たがら、イカの正体は宇宙人が送り込んだ地球観察用の生物探査機なんだそうだ。
ほぼ間違いなくデマ情報だろうが、何もかも見透かすような巨大な目玉に映る俺は酷くちっぽけな存在に思えた。
どれほどにらみ合いを続けただろうか。長く感じたが、時間にしたら一分もしないだろう。
無言で棒立ちになっていた俺たちに興味を失ったのか、巨大な影はゆっくりとその場を離れはじめた。ほっと一息つく。タコはズルリズルリとその身を引きずりながら移動し、やがて校庭の真ん中でぐったりと横になった。何十もある触手を身体に巻き付けるようにしてとぐろを巻いている。
雪が積もった地面に奇妙な足跡ができていた。しばらく様子を見てみたが、動く様子はなかった。
全体像が明らかになり、改めて俺は恐怖した。
これほどまでに巨大とは。小学生の時に行った博物館で見た鯨の剥製よりもずっとでかい。
薄暗く、細部までは見えないが、鉄塔にビニール袋を被せたような円筒形の生物だった。
「今のうちに美術室にいこう」
聞こえるはずもないのに、声を潜めて呆然とするアンティールに声をかけた。少女は腰抜けたらしく、地面にへたりこんでいる。
「まさか、信じられません」
震えながら呟いた。
「どうした」
「王立図書館で読んだことがあります。あれは神です」
「え」
いかれちまったか。
「正気か? あの軟体生物が神様だっていうのか?」
ゆっくりと少女は首肯し、続けた。
「ええ。古い異形の神」
「まさか、スッパゲティモンスターとか信じてる人?」
「違いますよ。第三世界に住まう異形の神です。なんでこんなところにいるのでしょうか」
「こんなところって、絵の中ってことか? 」
「正確にいうなれば、堂本桜の思い出です。私が死んでいる間に現れたというんでしょうか?」
バスが襲撃を受け、はじめの方に死んだ港や俺のような一般人は、仲間達が全滅していく様子を逐一観察していたわけではない。
半分くらいのクラスメートは割れた窓ガラスから決死の覚悟で外に飛び出ていたはずだ。
その中の一人が堂本桜だとしてと不思議ではない。
「さっき自分でそう言ってたな。あらわれたんじゃないのか? 知らんけど」
「だとしたら、本物はいまどこにいるんでしょう」
「本物って、……あのタコの? 巡礼団が退治したんじゃないの?」
へたりこんだままだった少女に手をさしのべる。それを受け取り彼女はゆっくりと立ち上がった。冷たい手のひらをしていた。末端冷え性に違いない。
「ありえません。退治なんて烏滸がましい。現れただけでも、すごいことなのに。なんだか妙なことになりました。是が非でも話をきかないと」
「そんなにすごいことなの? たしかにめっちゃでかいけど」
「神代からの生き残りですからね。空間の狭間に漂っていると聞いたことがありますが、私たちがバスで転移したタイミングで連れてきてしまったんでしょうか?」
アンティールはブレザーをその場で脱ぎ捨てると腕捲りをした。気合いは十二分らしい。
「ともかく、あいつが離れてくれた今がチャンスです。急いで美術室にいきましょう」
「そうだな」
三階の教室から美術室まではけっこうある。普通に歩いたら十分ぐらいかかかるだろう。
瓦礫を慎重に乗り越えてから、少し早足になって、俺たちは廊下を駆け抜けた。
階段まで引き返し、足音をたてないようにゆっくりと下る。障害物のように転がったコンクリートの塊が多く、急いで降りられるような状況ではなかったのだ。
改めて思うがこの世界は酷く歪だ。
明かりは消え、うすぐらい階段をゆっくりと下っていく。吹き込むすきま風には雪片がまじり、気を付けなければ滑ってしまいそうになる。手すりに捕まるが、少しだけ足が震えていた。
「死んでよ」
「え?」
耳元で女性の声がした。振り返るが誰もいなかった。幻聴だろうか。若い女性の声だった。
踊り場には静寂だけ。首を捻りながら、正面を向くと、
「うざいよ」
今度は男の声がした。幻聴ではない。
「アンティール」
「ヒラサカさんにも聞こえましたか?」
知らず知らずのうちに俺たちは手を繋いでいた。恐怖をごまかすには他人の存在が一番だ。
港の手のひらは相変わらず冷たかった。
「どこに行ってたの?」
幼い男の子の声。純粋無垢な響きが残響する。無視して、歩みを進めるわけにも行かず、俺たちは周囲を見渡した。
「お前がいるからダメになったんだ」
しゃがれた声。
おかしい。
違和感に気づく。
どうにも変だ。
先程から聞こえる声に一貫性はなく、さまざまな人のおしゃべりのようである。
「なあ、これってまさか」
そしてどうにも、内容を鑑みるに、ただ事ではなさそうだ。
アンティールに声をかける。
「むこうの世界の……」
「……」
アンティールは返事をしてくれなかったが、彼女はゆっくりと俺の手を引いた。無言で階段をくだり始める。
「はやく死ねよ」
「消えてしまえ」
「殺したいほど憎いなら死んでしまえばいいじゃない」
地階についた。
あとは廊下をまっすぐに進んで、美術室を目指すだけである。触手の攻撃を受けていない廊下に遮るものは無く、一番奥の視聴覚室まではっきりと見えた。
ああ、そうだった、と懐かしい気持ちになる。
高校一年生の数ヵ月しか過ごしていない学舎がいまでも心に残っているのは何故だろうか。
くっきりとした思い出を持っているからこそ、異質な存在が気になって仕方ないのだ。
振り向いて、いま降りてきたばかりの階段を見上げる。おかしなところはない。
「なあ、さっきの声、なんだと思う?」
「わかりません。少なくとも良いものではなさそうです」
しこりは残ったが、前に進む。これまでそうしてきたように、これからもそうして進むのだ。
音楽室や書道室の前を通り、五分もしないうちに美術室についた。タコの襲撃は無く、廊下は清潔で歩きやすい。
アンティールは周囲を見渡し、触手がないのを確認してから、扉に手をかけた。




