いつかの雷鳴
湿地帯は鬱蒼としていたが、しばらく行くと、開けた空間に出た。
遠く霞む空に、世界樹のシルエットがぼんやりと見えてきた。もう一度『千里眼』を作ってアンティールの位置を確認してみる。
大丈夫。変わりはない。息はある。絡まっている蔦は相変わらずだが、顔色は悪くなさそうだった。
世界樹自体はすっかり枯れ木だが、とてつもなく大きく、遠くからでもすぐにわかった。
少し前は青々とした葉が繁っていたらしいが、いまは全てが茶色い。スケッチしたら、茶色のクレヨンだけが無くなるだろう。
「すっかり見違えたな……」
ユーグリッドが呟いた。
竜の走りは好調で世界樹はみるみる大きくなってきている。
「前に来たことが?」
「ああ。七年前ぐらい前に一度な。妖精から世界樹の根を齧るニーズヘックの討伐依頼が入ってな。こいつはその時に捕まえたんだ」
ユーグリッドはやさしくニーズヘッグの背中を撫でた。心地良さそうに喉をならす竜。まるで猫のようだが、本来は狂暴な生物なのだろう。
「へぇ。巡礼団は妖精とも繋がりがあるんだ」
第三世界という霊的な存在が暮らす異世界があるとアンティールから聞いたことがある。魔法などの超常はそこから力を借りて発現させているのだという。妖精は第三世界の住人で、滅多に現世に姿を現さない。
噂じゃ妖精が現れる場所は、磁場が狂っていてあの世とこの世の境があやふやになるとか。
「いや、巡礼はしてないよ。その時はアメント様がお生まれになられてないからね。ただの教団兵さ」
懐かしむようにユーグリッドは目を細めた。ナチュラルにアメントの年齢を暴露している辺り、この人は何だかんだで詰めが甘いのかもしれない。
「それにしても、世界樹が枯れたと知ったときは驚いたよ。あれだけ霊験あらたかな神木が無くなるなんてな」
「大雨で根腐れたって知り合いが言ってたけど……」
「うーん、まあ、それも間違いじゃないが、正確ではないな。噂じゃ雷が落ちたらしいんだ」
「燃えたにしては、灰になってる感じはなさそうだ……」
目前に迫った世界樹の幹は黒く変色しているものの、燃えたような痕跡はない。
「ああ。火事は降りだした大雨ですぐに鎮火したらしい。だけど、その雨が降り止まず近くの川が増水し、この辺りは沼地になったんだよ」
火事のあとは、空気が温められて持ち上がり、入道雲が出来て、雨がどしゃ降りになると漫画で読んだことがある。
降りすぎるのも考えものだが。
「なんにせよ世界樹は人々の希望だったんだ。こんな状態になってしまったから、世が荒れたなんて話もある」
病が広がり、人々は陰気になり、魔物が多く現れ始めている。世界はどんどん悪い方に転がり続けているらしいが、それは緩やかで直接的に感じることはないため、みんながみんな他人事のように日々を過ごしていた。
「でもまさかデーモンが徒党をくむとは思わなかったよ」
「え?」
「ん? 気づいてないのか? 君が保護されたのもこの辺りじゃないか。魔物は本来群れることがないからね」
俺にとっては純度百パーセントのトラウマだ。
こちらに転移してさたばかりのころ、即刻デーモンにつかまり、古今東西ありとあらゆる拷問を受けたのだ。一年前のことがだいぶ昔に感じるのは、なぜだろう。
なんにせよ、目の前のこの人たちのお陰で俺は救われたのだ。感謝。
世界樹の根本についた。
デュランダルのじいさんの言っていた通り、根が腐っているらしい、靴底から伝わる感触はゴムのようにぶにゅぶにゅで、木に未来がないことを物語っていた。
なぜアンティールを捉えてまで生きながらえようとするのか疑問である。
地面には枯れ落ちた枝と葉が堆積していて、腐葉土の匂いが立ち込めていた。
「あいつはこっちだ」
ニーズヘッグを近くに待機させ、俺とユーグリッドは世界樹のウロに一歩踏み入れた。
千里眼で確認した場所は、この先である。湿った土の上、落ち葉や枝が積み重なって歩きづらい。それらを踏み越えて、進もうとした時、上空から「きぇえええええい!」と甲高い雄叫びが聞こえた。
「な、なんだ!」
空を見上げると、巨大な鳥が、大きく翼を広げてこちらに向かって滑空してきていた。
顔が白く、嘴と蹴爪が黄色い。飛翔する姿は雄大で神々しくも見えた。
「鷲……? いや、あれは……」
ユーグリッドが目を細めて呟く。
鳥類学者でもない俺には、詳しい種類はわからなかったが、猛禽類の特有の瞳の鋭さに竦み上がった。
「フレースヴェルグだ!」
ユーグリッドは鳥を睨み付け、柄に手をやった。
「ヒラサカくん! 先に行っててくれ!」
鞘から剣を引き抜きながらユーグリッドが叫ぶ。
「俺も戦う!」
足手まといにはならない。何だかんだで強敵と戦ってきたのだ。それに今日は素晴らしいことに一度も死んでいない。それ自体はユーグリッドのお陰だが、なんとなく運が良くなってきた気がする。
「あいつは、いままでのやつとは違う。神代の怪物で、ニーズヘッグを目の敵にしているんだ」
ユーグリッドはそう言うと、剣に炎を纏わせた。刀身を軸に青い炎が渦巻いている。アンティールがやっていた魔法武器というやつだろうか。
「君は早くアンティールを救出してくれ。まともに戦って勝てる相手じゃない。救出が済み次第、ここを脱出するぞ!」
「は、はい!」
あまりの剣幕に俺は思わず返事をして、踵を返した。
あれだけの強いユーグリッドがそう言うのだから間違いないのだろう。俺は一刻も早く少女を見つけて連れてこなければならない。おそらく、それが最善策。
「キョエエエエエエ!」
嘴をかっ開いて、鳴き声をあげながら大鷲が突進してくる。
俺はこの場をユーグリッドに任せて千里眼で確認した位置に急ぐことにした。
背後から金属がぶつかり合う音が樹洞内にこだまして響き渡っていた。俺は一心不乱にアンティールが囚われている根を目指し,走り続けた。薄暗いが日が射し込んでいるし、『夜目』が効くので、視界に関しては問題ない。
本当に巨大なウロだ。こんな空洞がぽっかり空いているようじゃ、世界樹の寿命も僅かであろう。
他者の生命を脅かしてまで、生き残るべきではない。
背後の攻防の音に竜の嘶きが加わった。どうやらユーグリッドはニーズヘッグに跨がって大鷲に相対しているらしい。
くそっ、はやくアンティールを助け、この場をあとにしなければ、と苦しそうなニーズヘッグの雄叫びを聞きながら思ったところで、
「あっ」
すっぽりと、床が抜けた。
剥がれ落ちた樹皮が穴を隠すように塞いでいたのだ。落とし穴にはまった俺はつかの間の重力を楽しみ、真っ暗闇に落下した。
落下の感覚は一瞬。霧散した意識がぼんやりと微睡みに落ちていく。
夢を見ていた。
不死の紋章の代償かもしれない。
現実感が乏しく、あやふやな夢だ。
赤ん坊を胸に抱いた女性が膝をおって、祈りを捧げていた。彼女の前には、壮麗な世界樹が、のびのびと枝葉を伸ばし、心地よい木漏れ日を草原に落としていた。
長閑な風景だった。
風がそよぎ、草原は海のようにさんざめく。鳥と虫が踊るように空を飛び、野兎 が眠そうにアクビをしていた。
女性はフードを目深に被っているため、表情は窺えないが、なんとも幸せそうな光景である。
ふと赤ん坊がベッドメリーに手を伸ばすように、空に向かって、小さな手のひらを突き上げた。
微笑ましいな、とぼんやりと思った俺の思考が、
「雷よ! 我が呼び声に応え、怒りとなって降り注げっ!」
突如として叫ばれた流暢な日本語で吹き飛んだ。
この声、アンティールだ。
いまよりずっと幼く、舌足らずだが、聞き間違えるはずがない。
赤ん坊のアンティールが叫ぶと同時に世界樹の上空に暗雲が立ち込める。
「ひ、ひぃ」
フードの女性が腰を抜かし、赤ん坊を地面に落とした。
ダンと落下したにも関わらず、悲鳴一つ上げずに、仰向けのままアンティールは頭上の世界樹を睨み付けていた。
表情は固く、眉間にシワがより、この世すべての憎しみを込めるかのような顔つきをしていた。
ゾッとした。
般若の如く恐ろしい表情をしていたアンティールが一瞬にして白い光に包まれる。
目が眩み、刹那、
ドンっ、と強烈な破裂音が響き渡った。鼓膜を破かんばかりの雷鳴だ。雷が落下したらしい。
数秒後に、世界樹に赤い火が点る。先程までの青空は消え去り、嵐のような空模様に変わっていた。どす黒いぶ厚い雲は燃える世界樹の黒煙によるものなのかはわからなかった。
バチバチと火が燃え広がる音がする。狼煙のような黒い煙が空へと真っ直ぐ伸びていく。
アンティールは愉快そうに口角をあげて、微笑んだ。
それを見ていた女性が震えながら「悪魔の子……」と呟いた。




