蟹と閃け、トラブルメーカー
風のようにとはまさしくこの事である。景色がビュンビュンと後ろに流れていく。
ドゥメールの雑多な町並み、赤茶けた岩場、荒野……。
あっという間にヒクイドリの巣食うミュラ渓谷を抜け、アルドー湿地の入り口にたどり着いていた。
ニーズヘッグは巨大竜では無かったが、馬並みはあり、人が二人乗っても安定感があった。蹄が好調に地面を蹴り続ける。
視界いっぱいに沼地が広がった。ドキュメンタリー番組で見たマングローブみたいだ。湿気を帯びた風が下からゆっくり吹き抜ける。所々に陸地があるが、背の低い草や苔がむしていて、歩きづらそうだった。
「はいよ!」とユーグリッドが手綱を振るうと、ニーズヘッグは至極当然のように空を駆け始めた。沼地だろうと関係がない。茶色く濁った水場を越えて、青空を駆けていく。
ナチュラルに物理法則を脱した俺たちが、アルドー湿地の中心部で、扁平になった巨大蛙の死体にたどり着くのはそれから数時間もしなかった。
「驚いたな。バケオオガマを倒すやつが現れるなんて」
調べたいというので、俺たちはオオガマの死体の近くに降り、少し休憩を取ることにした。
ぐしゃりとひしゃげた死体はヘラで押し付けたお好み焼きのように広がっていて、ハエがたかり、腐敗臭が漂っていた。飛び出た内蔵は直射日光にあてられ、黒く変色している。
「アンティールはまだ幼子だったろう」
沼に溶けていく赤い血を眺めながらユーグリッドが訊いてきた。
「たしか今年で七か八だったと」
精神年齢は二十を越えているが。
「すごいな。その歳で浮遊魔法を使いこなすなんて」
どうやらバケオオガマはアンティールが魔法で浮かし、地面に叩きつけたらしい。死体を見ただけでわかるなんてユーグリッドも相当だ。
「やはり天才か。いや、もしかしたら……」
ユーグリッドは囁くみたいに呟いた。
「紋章持ちかもしれないな」
「え?」
聞き間違いかと思ったが、確かに彼はそう言った。
確信はなさそうな呟きだったが、それは真実だ。アンティールが輪廻の紋章を持っていると、見抜いたというのか。
なにも言えずにいる俺を横目で見て、ユーグリッドは「ああ、すまない。君にはワケのわからない話だったね」と苦笑した。
「この世界には人智を越えた二十四の紋章というのがあり、紋章を宿した持ち主は特別な力を得るというんだ」
「アンティールがそうだっていうのか?」
事実そうだが、あえて知らないフリをして彼がどの程度まで事実を見抜いているか見定めることにした。なんで人を試すようなことをしようと思ったのかは、わからない。ただ、俺とユーグリッドはまだ出会って一日も経っていないのだ。アンティールの個人情報をおおっぴらにして、彼女に迷惑をかけたくないとちらりと思っただけだ。
「ああ。だと思うよ。じゃないといくらなんでも魔法を扱うには早すぎる」
「そういうもんなんじゃ」
「本来魔法というのは根元を理解して発現させるものだからね。言葉すら理解しきれない幼子が扱えるはずないんだ」
言われてみれば強力な魔法使いは全員老人なイメージだ。アンティールのような子供は見たことがない。スポーツと違い、知識を溜め込めば溜め込むだけ熟練する魔法の世界において、ピークの時期と言うものは存在しない。
「理解をすっ飛ばすことができるのは、文字や紋章などであらかじめ命令が入力されているときだけてあり、通常なら魔法なんて使えるはずがないんだ。だからおそらく、アンティールは何かしらの紋章を持っている可能性が高いと思う。アメント様のように」
「えっ、ちょ、どういうこと?」
「文字や紋章はそれ自体に意味が込められ、図形を介すことで命令を外界に発信させているんだ」
「いや、そっちじゃなくて、アメント……も、って」
「……口が滑ったな」
浅くため息をついてから、観念したように彼は続けた。
「アメント・モルガナ様は『心霊の紋章』をその身に宿している。紋章の力を治癒に発展させ、奉仕に準じているんだ。幼くても強力な術を使用できるのは紋章持ちぐらいなものさ」
「心霊の紋章……」
伝説の二十四紋章のうち、心霊、不死、輪廻、呪縛は『放浪者ヨイナ』が持ち逃げしたと聞いていた。そのうち不死と輪廻はそれぞれ俺とアンティールが宿している。俺たちがこちらに転移してきた日にヨイナから授けられたのだ。心霊をアメントが宿しているとすれば、
「アメントは、いまいくつなの?」
胸を掠める予感。それを明確にするため俺はユーグリッドに訪ねた。
「悪いがそれは言えないな。アメント様に関することは一切説明しないと決めている」
「六、七歳ぐらいでは?」
「……どうしてそう思うんだ?」
「アンティールがそれぐらいだから……」
「どういう……」
予感は確信に変わった。
アメントもアリアン(サワダ)と同じように、アンティールの『輪廻の紋章』により、生まれ変わったのだ。つまりは元クラスメート。
幼い少女二人が接触したとき、アメントは真に自分の記憶を取り戻すことができるだろう。それが吉かどうかはわからない。現世の性格を塗りつぶすほど、前世の記憶が強烈なのは言うまでもない。
なにも答えず、唇を真一文字に結んだ俺を怪訝な瞳でユーグリッドは見つめた。
「……とりあえず知りたいことは分かったし、世界樹に急ごうか」
「頼みます」
今回の目的はアンティールを助けること。過去をとやかくと言う前に、行動に移さねばならない。
決意を新たにぬかるみに一歩踏み出したときだった。
「まてっ!」
ユーグリッドが右手を水平に掲げ、俺が歩き出すのを制止した。
「なにか聞こえないか?」
彼の緑色の瞳が周囲を見渡す。
つられて俺も辺りを警戒するが、とくになにも感じなかった。
生き物の気配はするが、小鳥の囀りなどの無害なものである。
五年前は草原だった沼地にオオガエルのような異質な存在がそうそう現れるとは思えなかった。
「気のせいでは?」
と、ユーグリッドの忠告を無視して一歩踏み出したら、
「むっ」
近くの沼からブクブクと気泡がわき、俺の目の前にアフリカ像並みに大きい青い蟹が現れた。
蟹は片方のハサミが異様に大きく、アンテナのように飛び出た目玉で俺たちを見つけると横歩きで素早くこちらに接近してきた。沼地だろうと速度は落ちていない。
「うおっ!」
蟹の突然の行動を慌てて、回避する。先程まで俺が立っていた位置に大きなハサミが降りおろされていた。完全にやる気だ、こいつ。
息を飲んで、腰にぶら下げていた剣を引き抜く。
まさかこんな巨大な蟹がいるなんて思わなかった。気合いをいれて、甲羅に思い切り刃を振り下ろした。
ガギン! と金属をぶつけたような音が響く。甲羅にはヒビ一つ入っていない。見た目通り相当な防御力を持っているらしい。戦いかたを工夫しなければならない。
アンティールならどうするだろう。
知らず知らずのうちに考えていた、
俺は自分が勝てない相手にぶち当たったとき、まず始めに説得できないかを考える。謝罪で乗りきれるなら一番合理的かつ平和的な解決な手段だ。
だが、世の中そこまで甘くない。
世の中にはどうしても話が通じない存在がいて、それらと相対した時はいつも逃げてきた。誇りやプライド、見栄や虚栄心そういうもので命を落とすこともあるのだ。
どうにかこの蟹くらいは俺の手で葬り去りたいとひそかに心に決めたとき、火柱が上がった。
天を焦がさんばかりの業火だ。
「やあ、無事かい。良かった」
ユーグリッドが火炎魔法で始末したらしい。
真っ赤になった蟹の死体が仰向けで、口から泡を吹きながら、ごろんと転がる。香ばしい香りが漂った。
所在無げに握っていた剣を鞘に納めて、俺は小さくお礼を告げた。




