ノーウェイ
虚ろの大穴は相も変わらず暗澹としていて、歩くのも億劫な気が滅入る空間だった。湿度が高く、動いてもいないのに、汗がにじむ。じっとりと肌に張り付くシャツをつまんで風を送ってみても、全身にまとわりつく不快感は晴れてくれない。
明かりは一切無く、二度と来たくない場所ではあったが、今頼れる人がデュランダルのじいさんぐらいなので仕方ないのだ。
「おそらく『輪廻の紋章』の効力であろう」
白い髭を撫でながらじいさんは頷いた。顔に刻まれたシワをより深くし、心底可笑しそうにニタニタと笑っている。
「伝承によると、触れた人物の前世の記憶を呼び起こし、不浄霊を輪廻の環に還すことができたという」
感慨深そうに息をつき、まっすぐに俺を見返した。
「それで、オヌシはどうするつもりだ」
「……」
今すぐには答えが浮かばないが、ともかくアンティールを追いかけようと心に決めた。
スキル『帰還』を使い、虚ろの大穴にワープしたのには理由がある。
事の起こりは二日前、アンティールが、
「しばらく留守にします」
と一言だけ俺に告げて旅に出たところから始まる。
『アルドー湿地』に用があると言っていたが、詳しくは聞かなかった。彼女の用事に興味が無いわけではなかったが、『青い海』というギルドに護衛依頼を出したらしく、俺が個人的にやることは特になかったからだ。
破格な依頼料から察するに、他にも頼み事がありそうだったが、どんな内容かの説明はなかった。
あいつがてきとーにふらふらとどこかに行くのは良くあることだったし、お互いのプライベートには不干渉を決め込むことがギルドの原則だったので、特に気にすることはなかったが、いなくなって翌日、想定外なトラブルに見舞われた。
「あっ、おにいちゃん」
時間をもて余し、酒場で牛乳を飲んでいたら、クリクリとした瞳に見つめられた。
「今日ぼっちだねぇ、ひまなのー?」
武器屋の娘のアリアンだった。
ろくでなしが飲んだくれる酒場で俺以外の未成年だ。周囲を見渡すが父親の姿は無く、保護する意味も込めて、隣の席に座るように促した。アリアンはニコニコと笑いながら、よじ登るようにして、椅子に腰かけた。
「酒はだめなんで、オレンジジュースくださぁい」
右手をピッと挙げて注文し、ニコニコと上機嫌に微笑んでいる、ドリンク代は俺の負担になるのだろうか。まあ、いいけどさ。
「おねぇちゃんはー?」
オーダーが通ったのを見届けてから、つぶらな瞳をこちらを向いた。彼女はなぜかアンティールのことを慕っているのだ。
「沼に用があるって行って、他のギルドと一緒に出掛けてるよ」
「ぬまー?」
「アルドー湿地とかいう場所」
「ふぅん。おにぃちゃんはお留守番なんだー」
俺には荷がかちすぎる任務だからと言われたが、働かないで済むならそれに越したことはない。
コップに口をつけて牛乳を飲む。口当たりは優しく、濃厚で美味しい。
「じゃあ、アリアンとたっぷりお話できるね!」
「んー、そうだね」
なんで平日の昼間から子どもの相手をしないといけないのだろう。ため息をつくが幼い少女には伝わらない。
アンティールはドゥメールを「治安の悪さはロアナプラ」と称していたが、実際昼間から大暴れする酔客はまれである。普通にしていれば、傷つくことはないし、地方都市の繁華街といった感じだ。
「誰も見てなさそうだしぃ……」
アリアンはその場で周囲をキョロキョロと見渡した。まるでミーアキャットだ。
酒場内部はそこそこ混んでいたが、カウンター席の隅っこに座る俺たちを気にかけるやつらは一人もいない。
テキトーに「そうだね」と相づちをうつと、アリアンは片頬をつりあげ、
「じゃあ、猫被るのやめるね」
と呟いた。
「ねこ?」
「ようやく地を出せるよ」
「え」
突如としてアリアンの口調がガラリと変わった。ビックリして二度見してしまったが、アリアンは表情を変えず俺を見ている。
「えっと……え?」
理解できず戸惑う俺に面白そうにニタリと笑いかけると、小さくぷっくりとした唇を開いた。
「ヒラサカ、相変わらず察しが悪いな」
「ちょ、ちょっと待って! どういうこと!?」
「どうもこうも……、俺が聞きたいのはなんでお前が生き残ってるか、だけだよ」
「え、ええ。なんだ急に」
先程までの舌足らずな語調じゃない。くっきりとした流暢な日本語で彼女は俺をまっすぐに見つめた。
展開に脳がついていかない。この牛乳なにか悪いものでも入ってたのかな。幻覚でも見ているのだろうか。
「とはいえ、たしかに、少し急だったかもしれねぇなぁ」
語尾を間延びさせながら、自らのこめかみを人差し指でかく。
「でも、仕方ないだろぉ。俺が前世の記憶を思い出したのは一昨日のことだしよ」
正面に座る赤毛の二つ結いの少女は武器屋の娘のアリアンに変わりはないが、顔つきは真剣そのもので、子どもの持つ無邪気さは消え果てていた。
「ぜ、前世って、ど、どういう……」
「鈍ぃな。俺の前世はお前のクラスメートだったってわけだよ」
「はぁー?」
前世?
混乱を助長するように彼女は座っていた椅子に片足を乗せた。態度が悪い。
「記憶が、あるのか?」
「思い出したんだ」
アンティールと同じだというのか。いや、だとしてもアンティールのケースは少し特殊だ。彼女は『輪廻の紋章』を持っていたから記憶を保持できたらしいが、目の前の幼女はなんだというんだ。
「俺は澤田夏樹だよ。忘れたのか? 情がないやつだな」
「え、えええ。なんで、えっ。サワダ!? 覚えてるけど」
サワダはクラスのみんなと分け隔てなく接する男子で、俺とは席が隣同士だった。退屈な授業のときよく雑談していたが、彼が女の子に生まれ変わっただなんて、にわかには信じがたい。
「俺だってよくわかんねぇんだよ」
サワダは粗暴な口調で続けた。
「あの子、アンティール? だっけ? に触られてからなんか記憶がフラッシュバックするようになってよ、そんでこないだ、ついに思い出したんだ。あのヌイグルミ、キリカのだったって」
キリカ……ミナトキリカのことか。たしか、サワダと港貴梨花は付き合っていた。
かつてのクラスメートのことを久しぶりに思い出す。
港は金髪のギャルで、明るい性格の女の子だった。
あのヌイグルミとは虚ろの大穴から拾ってきたネズミのヌイグルミのことを言っているのだろう。
「なぁ、ヒラサカ、キリカは無事なのか? お前が生きてるってことは、他にも生き残ったやつがいるってことだよな?」
「……」
なんて答えようか一瞬迷ったが、正直に言うことにした。
「俺以外に助かったやつはいない。みんな死んでしまった」
少しだけ表情を曇らせると、深いため息を一つついた。
「そうか。……まあ、そうだよな。お前は……不死? だっけ。うらやましいな」
俺が不死スキル持ちだということはドゥメールの住人のほとんどが知っている。
町をぷらぷら歩いていたとき、イタズラで刺殺されたこともある。アンティールのギルドに所属してからは、そういうバカに巻き込まれることは無くなったが。
「いいもんでもないさ……」
今までの苦い経験を思い出し、なんだかテンションが下がってしまった。
アリアンはなにも言わずに俺を見ていたが、注文していたオレンジジュースが目の前に置かれると「ありがと!」と喜色満面で店員にお礼を告げた。無垢な笑みは幼子が兼ね備えているものだった。
「アンティールも一年二組の誰かなんだろ? 誰なんだ?」
アリアンはコップのオレンジジュースで喉を潤してから続けた。小さな手のひらで、包み込むように持たれたコップ。とてもじゃないが、前世がサワダとは思えなかった。サワダは偉丈夫で、気のいい爽やかなやつだったからだ。
「さあ、誰かはわからないけど、あいつはたしかにクラスメートだったよ」
「やはりそうか」
一人納得がいったように頷いた。




