植物図鑑を読んでおいてください
いま手首切った。カレシにフラレたわけでもないのに。
「……」
拗らせた中学生女子だってもっと自分の体を労るだろう。
血が噴き出すようにドクドクと流れ出ている。弁がいかれた蛇口みたいだ。
くらくらしてきた。
アンティールはというと鼻唄混じりに俺の血で地面に落書きをしている。魔方陣らしい。クレイジーと貧血でふらつく頭で考えた。
「よし、できた!」
嬉しそうに手をパンと叩いて地面に書いた魔方陣を満足げに眺めた。
「あ、アンティール、早く血止めの魔法を……寒くなってきた、意識が……」
痛みはないが、悪寒はする。「ああ、すみません」とアンティールは心の籠っていない謝罪をしてから俺の傷口を優しく撫でた。
「ヒラサカさんのお陰で『温風の魔方陣』が完成しました」
ポウ、と白い光が彼女の手のひらから溢れ、俺の血はあっさりと止まった。切り裂かれた部分はみみず腫のようになっていた。
「俺の血を抜いて完成したのが、それだと思うと、ほんとうに悲しくなるよ……」
「なんでですか。献血したと思ってくださいよ。これから中庭に向けて風を起こしますんで、これで霧が晴れますよ」
「なあ、おい、ほんとに疑問なんだけど、これしか方法なかったの? もっとうまくやれる方法あったんじゃない?」
「いやだなぁ、ヒラサカさん、大自然の前に人は無力ですよ。あいにく私はスタンド使いじゃないんで」
「思いっきり自然現象に抗おうとしてるくせによく言うよ」
「あとは隕石落とすとか色々と考えたんですけど、地面のマンドレイクが焼けちゃう危険がありますからねー。なんだかんだでこれがベストです」
隕石落とせるやつが霧はらすのに俺の血を抜く必要あるのか甚だ疑問だが、ふらつく頭じゃろくに考えが纏まらなかった。
ミリアさんは思いっきりドン引いていた。当たり前だ。いきなり仲間の右手首を切りつけ、流れ出た血液で地面に落書きし始めたのだから。狂気と恐怖を感じざるを得ないだろう。
「さてと、始めますか。ミリアさん、ドアを開けてください」
「あ、ええ」
ミリアさんは言われるがまま、粛々と扉を開け放った。
ひんやりとした外気が室内に流れ込んできた。霧がかっていて視界は不良だが、再び矢が飛んで来ることもなかった。伸ばした指先さえも霞んで見えないだろう。本当にこの霧をアンティールは晴らせるのだろうか。ちらりと背後を振り向くと、アンティールは片頬を吊り上げ、呪文を唱え始めていた。地面にかかれた魔方陣がぼんやりと薄く光り出す。不思議な光景だった。
「あ」
ふと暖かな風が足元を通りすぎていくのを感じた。冷房が効いた電車の車両から、真夏のホームに降り立った時のようだ。砂埃が舞い上がり、ミリアさんが咳き込んだ。一気に暑くなる。体温調節機能を壊そうとしてるんじゃないかと思うほどの勢いで温風が吹き抜けていく。全身にドライヤーを浴びているような感じだ。
人工的に作り出したものとは思えないほど、柔らかい風だった。
俺は額に滲んだ汗を袖口で拭い、処刑場の中庭に視線を移した。
アンティールのご高説の通り、霧が晴れ、すっかり見やすくなっている。
手入れが途絶えた中庭は荒れていたが、踏みかためられた地面に雑草が生い茂ることはなく、歩くのに問題は無さそうだった。
「おい、もう大丈夫そうだぞ。はやく行こうぜ」
地面に手をついて魔力を魔方陣に注ぎ込んでいるアンティールに声をかける。
視界は良好で遠くまで見渡せた。
「いえ、どうやら先程の霧は魔物が作り出したものだったようです」
「はあ? なに言って……」
「あれだけ濃い霧が盆地でもないのに滞留するなんておかしいとは思ってたんですよ」
アンティールは顔をあげて俺を真っ直ぐに見つめた。
「ヒラサカさん、私はこのまま霧の発生を防ぎ続けます。あなたは中庭をまっすぐ進み、中央の絞首台の下に生えているであろうマンドレイクを採取して戻ってきてください」
今回の任務は魔物の討伐ではない。あくまで惚れ薬を作ること。そのために必要な材料さえ入手できれば、こんなところ来る必要もないのだ。
「し、しかし、相手は怨霊なんだろ。俺、ほんと怖いの苦手なんだよ。わかるだろ?」
「大丈夫です。先程の霧はアーサーエリスが発生源であり、霧に足を踏み入れた冒険者を感知し、死角から攻撃するのがやり口だったようです。その霧は私が防いでいるので、アーサーエリスがヒラサカさんを感知することはありません」
「なんで言い切れるんだよ」
「先程の敗北者の亡霊の切り痕や現状の要素を組み合わせて推理しました。よく幽霊が出現するときは気温が落ちるというでしょう。アーサーエリスはその気温差を利用して霧を発生させていたようなのです」
アンティールは一息ついて続けた。
「ばれないように進んで、草抜いて戻ってくるだけの簡単作業です。五歳児でもできます。はやく行って下さい」
要点は理解できたが、残念ながらミッションクリアには至らない理由がある。
「おれどの草がマンドレイクかわかんねぇよ」
植物には疎いのだ。朝顔と昼顔と夕顔の違いも分からない。セイヨウタンポポとトウヨウタンポポはなにがちがうの?
アンティールは軽く頭を抱えた。
「ここに来る前に植物図鑑読んでおいてくださいって言っといたじゃあないですか」
「そんなこと言ったっけ?」
「……言わなかったような気がします」
とりあえず謝ってほしい。
「やっぱりアンティールが行くしかないんじゃないか?」
「私がわかるわ」
俺の意見に小さく手を挙げてミリアさんが口を開いた。
「私がヒラサカについていく。アーサーエリスにばれないようにすればいいだけのことでしょ」
「話が早くて助かります。極力戦闘は避けてください。そんじょそこらの雑魚とは違いますから。ああ、ミリアさん、耳を」
「なにかしら」
手を地面につけたままなので、動けないアンティールの口元にミリアさんは耳を寄せた。そのままなにか耳打ちされる。
「ええ、わかったわ」
鼻の頭にシワをつくりながら不承不承といった感じでミリアさんは頷いた。
「それじゃあ、頼みましたよ」
アンティールをその場に残し、俺たち中庭を進むことになった。




