鳥なき島の蝙蝠
「おおー。すげぇなこれ」
力むほど明るくなる。サイリウムのようだ。炎の力が備わったと言っていたが、火の玉とか撃てるんだろうか。
少年の日の純粋な好奇心が疼いていたら、アンティールは冷めた目で「まあ、私ならリュックに入っていたカンテラを灯します」と小バカにしたように鼻をならした。「なにそれ」と訊ねると、「携帯用ランプのことです」と当たり前のように返された。
「あんなら最初から言えよ」
「忘れてたんですよ。覚えてたら最初から使います」
リュックを漁るとたしかにランプが出てきた。アンティールの指示にしたがい、魔法刀で小さな炎で灯す。
あたりはぼんやりと明るくなった。
「なあ、アンティールこれって」
言いかけた時、地底湖の底を影が横切った。湖面が揺れて、波立った。岩に当たって弾けた水しぶきが俺の足元まで広がった。
「しっ」
アンティールが俺の口を塞ごうと手を被せてきた。実態はないので意味も無かったが彼女が慌てているのは伝わった。
「とてつもない魔力の波動を感じます。これは……嘘でしょ。なんて……、ヒラサカさん、引き返しましょう」
耳元で囁く。
いつもの彼女からは考えられない発言だった。三メートル級のゴーレムや、ドロドロのスライムと相対したときも、半笑いで「きもーい」と屠ってきたのに。見てわかるほど、焦っていた。霊体のはずなのに額には汗が浮かんでいる。
それほどまでに強大な気配なのだろう。
地底湖の水深はかなり深い。底の方を泳いでいた影はやがて浮上を始めた。徐々に影を大きくし始める。
「ヒラサカさん!」
アンティールが叫ぶよりも早く俺はその場を駆け出した。彼女のように魔力を感じとることはできないが、いまの俺でも影が放つ明確な殺気に踵を返すことはできた。
大慌てで走ったため、来た道とは違う横穴に入ってしまったらしい。地面が濡れていたので、何回か転んでしまった。やたらめったら足を動かしていたら、完全に方向感覚を失ってしまった。汗が止めどなく溢れている。石灰岩の壁は迷路のようであった。
暫く走り通し、ようやく背後に迫る気配を振りきることが出来たので、足を止めて呼吸を整える。
走り回ったからか、体温が異様に上がっていた。全身汗びっしょりだ。気のせいか耳鳴りもする。
「なあ、アンティール、ここどこかわかるか?」
「さあ。ヒラサカさんが尻尾に火がついたネズミみたいにちょこまか走るんで、さっぱりわからなくなりました」
アンティールが憎まれ口を叩くと言うことはひとまずの危機は去ったということだ。
ほっと一息ついたら、悪臭にむせた。
「ごほごほ」と咳き込む俺を煩わしそうに「うるさい」とアンティールはピシャリと言いつけた。
「仕方ないだろ! なんかここ、すげぇ臭いんだよ!」
「臭い? んー。幽体は嗅覚が著しく低下するからよくわかんないんですよね。どんな臭いですか?」
「うんこ」
無言で背中を殴られたが、感触は無かった。
眼前には薄暗闇が広がるだけだった。
アンティールにカンテラの操作方法教えてもらい、つまみを捻って明かりを強くする。
「なんだこれ」
黒い土が堆積していた。
「うわっ」アンティールが小さく悲鳴をあげた。
「糞ですよ。魂の気配が至るところからします……」
「え?」
カンテラを掲げたのが間違いだった。
見るもおぞましい光景が広がる。
ハエやゴキブリとおぼしき大量の虫が、糞にたかって蠢いていた。壁にはそれらを餌にしているのか、毛むくじゃらなクモやゲジゲジが這っている。総毛立つ。吐きそうになった。耳鳴りだと思ったのは、ハエの羽音だったらしい。
「なんだここ……」
湿度が高い。糞が発酵しているらしい。何度も嗚咽しながら、元来た道を引き返そうと足を動かす。前門のうんこ、後門の怪物だが、うんこより怪物をやり過ごす方を選ぶことにした。
「待ってください、ヒラサカさん!」
アンティールが小声で俺を呼び止めた。
「お前は感覚ないから平気かもしれないけど、ここすげぇ暑いし臭いしで最悪だからな」
立ち止まることなく、返事する。口を開けてるだけで吐きそうだ。
「天井を照らしてください」
「天井? わ!」
言われて照らしてまた後悔。天井にびっしりと黒い影が犇めいていた。よくよく見れば羽の生えたネズミ、いや、コウモリだ。
カンテラの灯りに照らされた大量のコウモリが「キィ」と鳴いて威嚇するように一斉に俺を見た。
ヤバイヤバイヤバイヤバイ!
咄嗟にカンテラの明かりを絞り、明度を下げる。幸いにしてコウモリがアクションを起こすことは防げたが、正直かなり危ない状況だったと思う。
「なにさせんだよ、お前! あれだけのコウモリに襲われたらあっという間に干からびちまうよ!」
「あれはチスイコウモリではありません。魂の形から判断するに、果実や花粉が主食のオオコウモリに近い生物のようです。もっとも安易な接触は感染症などを引き起こす可能性があるので危険ですが」
「詳しいな。コウモリ博士かよ」
「コウモリ博士じゃないです。って、わからないんですか、ヒラサカさん、このニブチン!」
「なんだよ。言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「果実を食べるんですよ、あの生き物は。つまり、外に通じる出口が近いってことじゃないですか!」
「あっ!」
言われてみればたしかにそうだ。ゴキブリやハエだって外からやって来たに違いない。
光明が一筋さしたような気がした。
「だから言っただろ。諦めなければ、なんとかなるって」
「うるさい、黙れ。いいから早く進んでください」
丁寧語を一瞬忘れたアンティールに促され、俺はカンテラを掲げた。
堆積した糞の向こう側に人一人ぐらいが通れそうな横穴があるのを見つけた。
「あれだ! 」
出口に通じてるとしたら、あの穴で間違いないだろ。
「おおっー!ゴーゴーゴー!」
俺に抱きつくアンティールが珍しくテンション高めに声を上げる。
「ゴーゴー!」
「……」
彼女と同じように俺もテンションは上がっているが、足が動くことは無かった。生理的嫌悪はどうするのとも出来ない。
「ゴー?」
「……」
「何してるんですか、はやく行ってください」
「いや、うんこが……」
「……」
向こう側の穴に行くには堆積したうんこの山と群がる虫をどうにかしないといけない。
「アンティール……」
「仕方ないですね、ヒラサカさん。魔導院で天才と称された私が開発した最大にして最高の秘技を伝授してあげますよ」
「おおっ、なんだ?」
「我慢です!」
「……」
できるだけうんこを避けるようにして壁際を移動する。壁にはびっしりとゲジゲジがいるので、手をつくことは許されない。千切れたパラシュートの布を頭からすっぽりかぶり、ハエ避けにするが、足元だけはどうしようもない。
歩みを進める度に靴底でプチュリとなにかが潰れる感触がする。「ひゃあ」とか「うわぁ」とか、小さな悲鳴をあげながら、なんとか横穴にたどり着いた。傲岸不遜のアンティールも気の毒に思ったのか、特に文句を言うことも無かった。
穴は狭かったが、通れないほどじゃない。
中腰のまま、ジワジワと進んでいくと、洞窟はどんどんと広がっていって、普通に歩いても圧迫感を感じない広さになっていった。先程までの地獄のような環境が嘘のようだ。
周囲はみるみる明るくなり、ついにはカンテラの明かりが不必要になるほどだった。
暗順応から明順応に変わるころ、吹き抜ける風を肌で感じた。太陽の光が溢れている。 俺は赤い夕焼け空を見て、静かな絶望を感じていた。
俺を嘲るように緑の匂いをまとう風が吹いた。
「ヒラサカさん、外!」
目が見えなくなってるアンティールにはわからないのだろう。
射し込むオレンジ色の光。
たしかに外気には通じていたが、これではあんまりではないか。
数十メートル、いや、それ以上の高さだ。
空は遠く、飛行能力でもない限り外に行くことはできないだろう。
加えて、降り注ぐ雨水が溜まったのか、大きな湖が出来ていて、脱出をより一層不可能なものにしていた。




