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9.忘却の街
ニューヨークまでの道のりは変わらず遠かった。飛行機は乗り物の中でも最先端なものだと思うけど、それでも半日かかるのはどうにも頂けない。1日を移動に費やすのはどうにも時間がもったいない気がする。映画を観たり、窓の向こうの延々と続く雲海を眺めていたり、機内食に舌鼓を打ったり…。無為な時間を過ごしている気がしてならない。生まれ始めてファーストクラスの座席に座っているが、豪奢な仕様がかえって虚しさを助長していた。
隣に座っているフェリシティは機内食を食べたり、ワインやビールを飲む以外はずっと寝ていた。アイマスクとイヤホンで完璧に防御しており、取り付く島もない。日本にいる間はよほど多忙だったらしく、本人曰くあまり寝ていないとのことだ。
だけど、そんな時間に退屈していた俺の心境は徐々に変化していく。時が経ち、アメリカが接近してくるごとに俺は静かに昂っていくのを覚えた。
始まりの場所。俺の空白を埋めるものがある場所。イリスと再会し、ハーピアがいる場所。
覚えていないけど、短期留学の時はこんな気持ではなかっただろう。記憶喪失に戸惑いながら帰った時とも違う。アメリカに行くことの意味が変わっている。
俺は取り戻しに、終わらせに行く。俺とイリスとハーピアを巻き込んだ不条理に決着をつける。使命というには大仰だけど、俺にとっては何よりもやらなければならないことだ。
昂りと緊張で目が冴えた俺は眠れなかった。フェリシティには寝ておいた方がいいと言われていたが、眠れないものはしかたない。
窓から見える朝日を見つめながら、俺は絶対に生きて帰ると心中で誓った。
アメリカに到着し、降り立ったジョン・F・ケネディ国際空港は奇妙な感じがした。2,3週間ほど前に来たことはあるが、あの時は記憶喪失で半ば放心していたのも全く
印象に残っていなかった。今は初めて来たような感じがした。
「観光に来ているわけじゃないから。ほら、キビキビ歩く」
たっぷり睡眠をとったことですっかり元気になったフェリシティがタラップで立ち止まった俺背中を小突いた。
空港から出た俺達はタクシーに乗った。そのままニューヨーク(マンハッタンとかブルックリン)に行くかと思ったが、フェリシティは行先を郊外のフォートリーに指定した。
「どうしてフォートリーに?」
「アジア系が多いから紛れやすいのよ。あなたは素人だし、少しは動きやすい所にしないとね。私のセーブハウスがあるからそこで宿を取るわ。まずは荷物を置きましょう」
随分手際が良い。素人である俺が出向くわけだから、相応の準備が必要なのだろう。お金の面といい、この人にはすっかりリードしてもらっている。
「後、あなたは休んでおきなさい。どうせ気が昂って眠れなかったでしょう?」
すっかり見抜かれていた。でもそんなことは些末な話だ。
「大丈夫です」
「ダメ。アドレナリンで無理矢理動かしている脳みそには期待しない主義なの」
「でも、時間が惜しい」
タクシーの窓際にもたれたフェリシティはジッと俺を見た。有無を言わさない雰囲気だ。
だけど俺は引かなかった。ここまで来たら突っ切りたい。
「その気概は買うわ。でも今は休みなさい。時差ボケで動けなくなるのも避けたいしね。無理矢理でもいいから一度眠っておきなさい。あなたのためを思って言っているの」
「でも…」
「真田君。時間の使い方において重要なのはいかに早く使い切るかじゃない、いかに効率的に動けるかよ。私達がバックについている以上、あなたに無駄な行動はさせないし余計な手間も取らせない。でもこの休息は必要だから確保した時間なの。生か(オア)死か(ブ)の状況なら、常に体を最善の状態にキープしておくのはとても重要なことなのよ。いざという時に体が思い通りに動かなくなる時の方が最悪だと思わない?」
正論だ。言い返す言葉が見つからない俺は渋々無言で承諾した。滞在中、俺はこの人にリードされる。変に突出することは許されないだろう。
「あなたは死にに来たわけじゃないんでしょう?生きて帰る気があるんだったら、ちゃんと弁えなさい。無茶したらどうにかなる。無理をしなければならないって考えるのはカミカゼの連中だけよ」
ダメ押しだった。俺は「わかりました」とだけ答え、イスにもたれた。俺の承諾を確認したフェリシティは懐からサプリケースを取り出した。中から一つのハードカプセルを出す。
「これ、睡眠導入剤。無理矢理でもいいから休みなさい」
「…安全なんですよね、それ」
「ドラッグ撲滅がモットーのFBIが変な薬を飲ませるわけないでしょ」
あきれ顔でフェリシティは睡眠導入剤をミネラルウォーターと一緒に押しつけてきた。飲むよう促された俺はしかたなく睡眠導入剤を飲んだ。変な味がするなどはないが、心なしか気持ち悪くなった気がする。




