62
いつかのイリスの言葉が蘇る。そういえばイリスが言っていたな。彼女は誰かが想いを覚えていてくれたら、ちゃんと自分に想いが宿ると言っていた。どんな世界でも消えないと。
だったら、ハーピアに伝えよう。結局本心を明かしてはくれなかったけど、きっとハーピアは奥底に悲しくて、辛くて、苦しい感情を隠している。
ハーピアは俺を何とも思わないだろう。それでも俺はハーピアを想っていることを伝えたい。
そうでないと、悲しいじゃないか。
この1週間が何もかも嘘っぱちで、取るに足らなくて、消えてしまってもいいものだなんて悲しいじゃないか。
せめて思い出にはなるように。彼女が変わるきっかけになるように。
「なぁ、ハーピア。イリスはそのレールから出たんだよ」
ハーピアは表情を欠片も動かさない。それでもいい。これで最後だ。言えるところまで言えればいい。
「君だって出ていいんだ。望まない場所で生きているのなら、行きたい場所に行っていいんだ」
「さようなら、和嵩」
「幸せになっていいんだよ、ハーピア…」
なぜか、ハーピアが動きを止めた。包丁を握る手が震えている。
顔に温かい雫が落ちた。一つだけじゃない。幾つも幾つも落ちてくる。それが大粒の涙だと気づくまでには、少し時間が要った。
「ハーピア…?」
「どうして…どうしてっ…!」
涙を零していたのはハーピアだ。やっぱり、本心を隠していたんだ。発露した感情が止まらないのだろう。ハーピアは歯噛みして腕を振り上げた。
「どいつもこいつも、私にぃっ!!」
ハーピアが腕を振るった。鈍い音がして、全身に痛みが走った後、俺は意識を失った。
最後に目にしたのは、暗闇だった。
瞼越しに強烈な光を感じる。最後に見た暗転とは対照的な鮮烈な光だった。それがカーテンの隙間から差し込む日差しだとわかるまでには、少し時間がかかった。
俺は生きている。
その認識が何より俺を驚かせた。陰鬱な頭痛が脳に圧し掛かっていることや床の上で寝た時に起こる節々の痛みを覗けば俺はおおむね健常だ。唇の端から血が出ていることに気づいたが、舌で舐めとればさして問題にはならないレベルの外傷だ。
俺はゆっくりと体を起こした。痛みを感じていないだけで、実は予期せぬケガを負っている可能性もある。俺は慎重に点検する。
奇跡的に俺はほとんど無傷だ。安堵の拍子に霞がかっていた俺の思考が正常化していく。この状況を分析し、推測していく。
「ハーピア…!」
俺は立ち上がり、辺りを見回す。テーブルは倒れ、割れた食器は散らばったままだった。残っていたガンボが床に張り付き、乾いた吐しゃ物のようになっている。カーテンは閉められており、隙間から俺を起こした日差しが差し込んでいた。
ふと、冷たいものを踏んで思わずとびのく。踏んだのは包丁だ。ハーピアが握っていた包丁。捨てられたように転がっている。
俺は踵を返して寝室に向かった。リビングダイニングの状況を見れば答えは自ずとわかる。でも淡い、場違いな期待が胸にあった。今はそれを優先したかった。
寝室の扉を開いても、何もなかった。正確にはベッドや本棚といった家具や調度品は揃っている。しかしどれもきれいなまま、いやきれいにされていて、生活感が失せていた。ただ生活の空間が演出されているだけで、誰かが使っていた気配とか、痕跡が一切無くなっていた。
もちろん、彼女の荷物も残されていなかった。あの大きなトランクは無くなっていた。あの手紙の破片が入ったトランクが。
「…どうして」
どうして、俺を殺さなかったんだ。
あの時ハーピアは俺を殺せる立場にあった。彼女なりの殺す理由があり、殺す状況も整っていた。マウントを取られ、喉元に包丁を突き付けられた俺はいつ殺されてもいい状態だった。
しかしハーピアは俺を殺さなかった。俺を生かし、そのまま消え失せたのだ。彼女からしたら挑発にも等しい勢いで食って掛かった俺を、ハーピアは殺さなかった。
そしてハーピアは消えた。何も言わず、何も残さず。
途方もない喪失感が俺を襲った。俺はベッドの上に座り込み、ボーッと壁を見つめた。寂しいというか、切ないというか。どう形容していいかわからない感情だ。「悲しい」が適切かもしれない。
結局、俺は取るべき選択肢を誤った。まんまと6年前の初恋の人を名乗る者に騙され、訳のわからない陰謀に巻き込まれ、生きるか死ぬかの分かれ道で俺は両方とも選ばなかった。だけど、第三の道を貫くには俺は無力だった。知恵も力も、機転も足りなかった。ハーピアと比べたら俺は平和にどっぷり浸かった無力な学生だし、非日常的な感覚も状況も知らない一般人だ。この結果は当然だ。大人しくハーピアに付いていった方が利口だったかもしれない。
「なんだよ、これ…」
悔しさが湧き上がる。恰好ばかりつけて、大層なことばかり口にして、何もできていないじゃないか。死ぬ覚悟まで決めたふりして、おめおめと生き残った。それも、生き残ったことに安どしていた。
みっともない。
情けない。
まんまハーピアに黙らされて、全くの語無しだ。何も手にできていない。記憶も戻っていない。イリスを殺したナイトクラウド家の掌の上で、俺は最後まで踊らされたのだ。
死にたい。
不意に沸いた気持ちが俺にまとわりつく。イリスを失い、ハーピアを説得できなかった。失敗に失敗を重ねたやりきれなさとイリスやハーピアを失った喪失感と悲壮感が混ざり合う。重く膨らんだ感傷で息が詰まりそうになる。
俺は膝を抱えて顔を埋めた。
ダメだ。
死にたいってなんだよ。それこそみっともない。父さんや槇原とか、俺には大事な人達がいるじゃないか。勝手に失敗して、勝手に死ぬなんて最低だ。
どうにか理性と良心が押し留めてくれたので、俺は生きようと思えるようになった。でもやりきれなさは相変わらず俺の心を曇らせる。
ひとまず、今は何も考えたくなかった。
8.さよならの続き
それから3日間、俺は虚無的に過ごした。倒れたテーブルを直し、割れた食器を片した。床はきれいに掃除し、新しい食器を買い足した。床に倒れたテーブルでできた傷は残ったものの、俺とハーピアが争った痕跡は残らず無くなった。
復旧が終わった後はシンプルなルーティンが待っている。食事や家事をして、学校に行って補習を受け、暇つぶしにゲームや友人との外食に興じる。
楽しいと言うと嘘になる。正確には感じない。何をしていても、俺の感覚の上っ面をただ滑り落ちていくだけのようで、俺の神経の奥に届かない。何をしていても何かをしている気分にならない。
3日前に起こったあの事件以上のインパクトを日常に求めるのは不可能だろう。嘘の恋人、謎の集団の陰謀、自分の生き死にが動かされる状況。学校に通って、補修を受けて、友達とファミレスに行く中では基本的に味わえない。あまりに大きなインパクトで、日々の出来事がみんな霞んで見える。
3日前のことを俺はまだうまく整理できないでいた。
元々ハーピアと向き合うために行動したけど、実質的に彼女からは拒否された。
本物のイリスは本当に俺と出会っていたけど、2ヶ月近く前に殺されていた。
1週間恋人として過ごした相手が偽物で、6年前出会った初恋の人が死んでいた。
悲しくて、悔しかった。俺の言葉がハーピアに届かなかった。イリスは死んでいた。
反面、喜びもあった。イリスと俺は再会していた。そして恋人になっていた。
でも、イリスとの日々を俺は忘れ、むざむざとイリスを殺された。
喜びがあるからこそ、いっそう悲しさと悔しさが俺の胸を締め付けた。二度と会わないと思っていた人との再会が、恋人となったという事実が俺を一層苦しめた。1ヶ月の記憶を必死で思い出そうとするけど叶わない。
せめてイリスを思い出せたら、今の気分は少しはマシになるだろう。そんな根拠のない思い込みで俺は必死にイリスの記憶を探し回っていた。
けれど、3日目にもなれば俺は悟りつつあった。
イリスの記憶を掘り出した所で俺が思い知るのは彼女が死んだ喪失感だと。現実味をしっかり身に着けた喪失感が一層重みを増して俺に圧し掛かってくるだけだと。
俺はただ、空白と嘘で取り囲まれた状況から抜け出したいだけなんだ。訳が本物といえる記憶に頼って、動けなくなった自分を支えたいだけなんだ。大切だと思える人が身近にいた実感が欲しいだけなんだ。
それを求めてしまう自分の弱さに、イリスへの申し訳なさに歯噛みする。
俺は何をどうしたらいいかわからないだけだ。それだけは明確だった。
そもそもこの気持ちはどこから来るのだろう。
イリスが死んだからか。ハーピアがいなくなったからか。
どっちなのかは、今の俺にはわからない。
ハーピアがいなくなってから4日目。
補習を終えた俺は学校を出て、自宅へ向かっていた。今日はくもっているが夏らしく蒸し暑い。やたら間近でセミの音がした。校門の傍にある松の木にセミがいるのだろう。俺の行く手を遮るように大声でがなり立てている。
もちろんセミの声で俺の足は止まらない。俺は校門を出て、歩調を緩めずに進む。
ふと、前から車が近づいていた。車には詳しくないが、ドイツかどこかの外国の車だ。ビートルっていう奴だっけ。ルパン三世が乗っている奴。この辺りではあまり見かけない車種だ。
紺色のビートルは左端に寄せて徐行している。どこかの家の前で止まるつもりなのだろうか。俺は道の右端へ寄った。気にも留めずにすれ違おうとする。
俺が並んだタイミングでビートルが止まった。まるで俺を見つけたかのように、待っていたかのように。
「え…?」
俺は立ち止まり、運転席を見やる。同時にビートルの窓が開いた。
中から顔を覗かせたのは女の人だった。ハーフなのは顔の作りで分かった。きれいだが、日本人にしては彫りが深い。吊り目で薄いとび色の瞳をした女の人は俺を見て、優雅に微笑んだ。
「人違いだったら悪いけど、あなたは真田和嵩くん?」
俺は目を細めた。俺はその女の人を知らない。歳は一回り上といったところだろうか。俺の知り合いにはいない顔だ。父の知り合いだろうか。
「そう、ですけど…」
答えて俺は淡い後悔を覚えた。つい先日まで得体の知れない連中にハメられ、殺されかけたのだ。気楽に対応するなんて不用心すぎる。
遅れて警戒心を露にした俺に女の人は肩を竦めると、ビートルのエンジンを止めて車から出てきた。女の人はアシンメトリーに前髪を仕上げたショートカットをして、レディーススーツを着ていた。俺と同じくらいの身長でプロポーションがやたらいい。
ますます怪しい。幸いにも学校が近い。一目散に逃げて、学校に駆け込めば手出しはできなくなるだろう。
「まるで人に懐かない猫みたいなリアクション。まぁその様子を見る限り事情は察するわ」
「…アンタは?」
「一応あなたにとって最大の味方になる立場の人間よ。端的に言えば守護天使と言うべきかしら」
「訳の分からないことを…」
「今のあなたには悪魔に見えるかもしれないけど。無理もないわ。その年で女の子に騙されるなんてそうないでしょう?」
女の人の口ぶりに、俺は耳を疑う。4日前のことを知っている?
「ナイトクラウドの…!」
俺が口走った名前に、女の人は目を細めた。
「その名前を口にするってことは深淵に覗かれてしまったようね。でもあなたは生きている…。だとしたら奇妙だわ。連中を受け入れたならあなたは日本にいるわけがないもの」
「何を言っているんだ…!」




