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人間のやることじゃない。まさに悪魔の所業だ。
そんな恐ろしい連中をイリスは相手取ったのか。そんな恐ろしい手管で殺されたのか。
「…ただ、計算外が起こった」
ハーピアは右手の人差し指を立てる。
「一つ。アパートの住人が一人だけ生き残ってしまった。おまけに消防署とNYPDに先に保護されてしまったから手が出しづらくなってしまった。まぁイリスの始末で焦った結果ね。君がもっていた手紙は辛うじて回収できたけど、それ以外は全て後手に回ってしまった」
続いてハーピアは中指を立てる。
「二つ。生き残った君こそがイリスとつながりのある人物だった。幸いにも君は記憶を失っていたけど、テロの可能性も踏まえたNYPDがくっついていたから手が出せないまま日本に戻ってしまった。あの手紙の破片を観る限り君はイリスと懇意な関係だった可能性が高い。あの状況下でどうやって乳繰り合ったかは知らないけどね。まぁ映画じゃ逃亡者と男が恋に落ちるなんてよくある。それに相手が6年前に会ったあの子なら、より燃え上がる」
俺と彼女はあのアパートで巡り合った。一緒に過ごしていた。
記憶を失くしてしまったけど、すでに彼女はいないけど。
この場で聴きたくなかった。この状況で知りたくなかった。
こんなタイミングじゃなかったら、震えるくらいうれしいことなのに。
「そして私に白羽の矢が立った。都合のいいことに私と彼女は瓜二つだから。私がイリスとして記憶喪失の君と接触。懐柔を図るとともに君が何を知ったのかを確認する。もし余計なことをイリスから聴かされているようなら、パージする」
「…俺を殺す気?」
「可能性の一つよ。もちろん、必要となれば実行される」
とても事務的な殺意の勧告だった。一歩間違えれば、俺はもう死んでいたかもしれない。ハーピアの語り口に冗談はない。
俺は俺で、自分が冷静でいることに内心驚いていた。常識外の事柄ばかり聴かされてきたから、神経がマヒしてきたのかもしれない。すでに俺は今まで当たり前のように過ごしてきた日常生活から脱却していた。
ここから先はどうなるかわからない。もはや未知の領域だ。夏休みでもなければ、高校生活でもなく、日本での生活でもない。テンプレートもマニュアルもない、五里霧中の領域。
ハーピアの言葉が頭を過ぎる。




