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「意味はまだよくわかっていない、ただ君からその言葉を聞いた気がする」
俺は固唾を呑む。
「これ以上深入りしてはいけない」と、彼女から漂う空気がそう告げているのはわかる。
それを無言で、強引に振り切る。
「そして、とても重要な言葉だって気もするんだ。俺と君にとって、本当に重要な」
「…私の名字よ。知らなかった?」
それは取るに足らないことだと言わんばかり、彼女は浮薄な調子で返した。
「イリス・ナイトクラウド。それが私の名前。珍しい名字だからね。それで耳に残っていたんじゃない?」
「ナイトクラウドの家そのものが君の職場?」
「そうね。とある企業の創業者一族なの」
「そして君が生きられる唯一の場所」
「生家だもの。家族もいるし、当然じゃない」
「だけど君はそこから出た。出たはずなんだ」
彼女が眼を見開く。
「待って…和嵩、あなた記憶が…」
「なのに君は、今でも仕事をしていると言っている。それも君の家で、ナイトクラウドで」
畳みかける。まずは確証が欲しい。
「そして君が働き始めたのは4、5年前。でも俺がイリスと出会ったのは6年前だ。その時彼女は『仕事の手伝いで日本に来た』と言っていた」
彼女は動じる素振りを見せない。だけどそれは虚勢だ。作られた静観だ。
俺は核心的な一言を見舞うだけだ。
「まだ疑問はあるけど…まずは一つだけ、君に聴きたい」
「何かしら?」
一呼吸置いて、言った。
「君は誰だ」
7.音も温度もなく
「君は誰だ」
我ながら馬鹿正直な直球だったと思う。
しかしイリスじゃない彼女はやっぱり動じていなかった。だが、静観という程冷めた感じもなくなっていた。
無に近い表情の裏で静かに観念したのだろう。