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ダメだ、誤解させる。ちゃんと答えなきゃ。
「ごめん、少しボーッとしていた」
「何それ。まさか私がしゃべっている間ずっと?信じられない!」
頬を膨らませて不満を訴えるイリス。
「ごめん、なんていうか…ちょっと気が抜けちゃった」
「…まぁ何だかんだ結構長く出歩いていたからね。もう夕方よ」
「もうそんな時間か」
ざわつきはまだ胸の内に残っていた。それは言い知れない不安でもあった。
「…本当に大丈夫?和嵩」
イリスの声音が真剣になる。俺の不安を感じ取ったようだ。
「顔色がよくない。具合が悪いの?」
「いや、そうじゃない…ただ…」
俺は正直に胸の内を明かした。
「少し、驚いて…戸惑ってしまっている…」
「驚くって…何に?」
「イリスは…変わったんだね」
イリスは目を見開いた。
「私が…変わった…?」
「6年前の君は…負けていなかった…。詳しく知らないけど、君はどんなに辛いことがあっても、苦しいことがあっても諦めない強さがあった。そして、どんなことでも自分の力にできる人だった。結局一匹も釣れなかった釣りも、Sサイズのドリンクとフライドポテトだけでも、下手くそな俺のエスコートも、全部に意味があるって思ってくれる人だった」
一度堰を切ったら、言葉は止め処なく流れ出た。
「日本での思い出だって、イリスは力になるって思っていた。俺なんかと出会って良かったって言ってくれた。あの時の俺には良くわからなかった。すごいなって、思えたんだ」
「和嵩…」
「でも今の君はどういったらいいんだろう…なんか負けている感じがする。君のことは今でもわからないことだらけだ。覚えていない俺が悪いけど…確かに言えるのは、今のイリスは君を取り巻くものに…飲まれている。そんな感じがする」
イリスは何も答えなかった。俯いて、黙って、俺の言葉を反芻しているように見えた。
俺も黙っていた。とりとめもなく話した結果、後悔が押し寄せてきた。
何を言っているんだ、俺は。
イリスを批判するようなことを言ってしまった。記憶喪失の間にイリスと会って、この関係になっているのなら、こんなことはクリアしているはずだ。
もし俺が感じたイリスの変化の裏に、彼女の痛みや苦しみがあったのなら、俺はまたそれを掘り出してしまったことになる。
もう回復したのかもしれないのに。
すでに終わったことかもしれないのに。
記憶喪失である自分を顧みず、彼女の裏側に触れてしまった。
きっとイリスが知る俺はこんなことをしなかっただろう。
なのに。
「ごめん…!」
俺は頭を下げた。足りないだろうけど、今はこれしかない。
「無神経なこといった…。もしかしたら、君の傷に触れてしまったかもしれない‥‥。本当に、ごめん…!」
イリスはため息を吐いて、腕を組んだ。
「いいよ、顔上げて」
「でも…」
「いいの」
俺はゆっくり顔を上げた。イリスは怒ってはいないようだったが、どこか寂しそうな顔をしていた。
「…気にしないで。記憶喪失だもの、アメリカでどんな話をしたかなんて覚えていないのは当たり前だよ。君にとっての私は6年前で止まっているのは仕方ない。…今の私に幻滅した?」
「そんなこと!」
俺は思わず声を上げた。イリスはおかしそうに笑った。
「必死になられるとわざとらしいんだけど?」
「あっ…」
「冗談。わかっているよ、和嵩」
「イリス…」
「呑まれた、か…。いい表現ね。まぁ、確かに6年前の私と比べたら…今の私は違う」
イリスはテーブルの上に着いた水滴を指でなぞった。
「12歳が18歳になるのは大きい変化だわ。普通のティーンなら恋をして、恋人になって…もしかしたらセックスもしているかもしれない。学ぶことも増えて、難しくなる。知識もどんどんついてくる。そして、6年前よりずっと自分や世界のことに詳しくなる。そうなるとね、自分の行先とか力量とか、そういうものがわかってくるのよ。君だってそうでしょ?どういう大学に行くか、どうなるのか、それとなくわかってくるじゃない。そうなったら、昔言っていたことなんてできなくなる。夢も理想もあの頃に置いていかなくちゃいけなくなる」
無軌道に水滴をなぞりながら、イリスは続ける。
「私はそれをしたの。夢とか理想とかはずっと昔に置いていった。私はなるべき自分になった。これ以上ないくらい私になったの。ただそれだけ」
「イリス…」
「それだけのことよ。12歳の私は18歳の私になった。面白くなくても、つまらなくても、これが今の私。それ以上の私はここにいない」
イリスが俺を見つめた。初めて見る眼差しだ。鋭くて、無感情な瞳だった。
「今の私が嫌いになったのなら、言って。幸せなだった頃の夢を見るように付き合うのは嫌だわ。夢で現実は隠れない。あなたが6年前の私が好きなのなら、なおさら」
「違う、俺は君が好きだ。2ヶ月前だって…」
「記憶喪失で覚えていないのに?だめ、今の君が答えて。言ったでしょう?過去は今を変えられない。今の君が答えてこそ価値がある。今やっていること以上に価値あるものなんてないんだよ」
俺に逃げ場はない。
「俺は…」
今答えなくちゃいけない。
「俺は、君を…」
今の俺が答えなければならない。
「君を…知りたい」
彼女が眼を丸くした。想定外の答えだったのだろう。
「俺の知らない君を知りたい。記憶がない部分だけじゃない。6年間のこととか、今の君が置かれている状況とか。今の君を知れば、もっと受け入れられる」
「受け入れる…」
「俺は君に応えたいんだ。記憶喪失で、何も覚えていない俺を支えてくれる君に。好きだって言ってくれた君に。君が来た時、正直戸惑った。でも君が俺を想ってくれていることは本当にうれしかった。だから、俺は君を知りたい。もっと知りたい。今度は君の力になれるように」
彼女はまたため息を吐いた。椅子の背もたれにもたれ、目を閉じた。
「…なんか逃げられたみたい」
「え?」
「大事なことを言っていない。君の言っていることってさ、つまりこれから私を好きになっていくってことじゃない」
確かにそうなる。冷静になった頭で俺の言葉を巻き戻してみる。
ごまかしているつもりはないけど、なんか曖昧な感じがする。
「…確かに」
「ズルい。ごまかしている感じがする」
「イリス‥‥ごめ」
「でもいいよ。それでいい」
目を伏せたイリスはくぐもった声で言った。
「君は今の私と向き合ってくれるんだね。正直、嫌われる覚悟はしていた。6年前のあの子と私は全然違うんだもん。もし6年前に出会っていたのが今の私だったら、こんな関係にはならなかっただろうな。でも、それでも君は受け入れてくれる」
「ちゃんと応えるよ。君の気持ちに」
「だから君を…好きになったんだ…」
納得するように言った後、イリスは急にニヤッと笑った。
「はずかしいことよく言えるね」
呆れた調子で返されて、俺は耳を赤くした。ファストフードで何をしゃべっているんだ俺は。急に恥ずかしさが募ってくる。
「そういうなよ…」
「なかなか言えないよ、そんなこと」
「カッコいいと思うけど」
イリスがいつも見せる意地悪そうな笑顔になった。その笑顔が見られたことに俺は安堵した。
「も、もういいだろ。行こう」
「ナゲット余っているよ」
「持ち帰ればいいだろ?」
でも今は恥ずかしいからムキになる。手際よくナゲットの箱を持って立ち上がり、さっさと店から出ていく。イリスは呆れながらも付いて来た。
俺の手に何かが触れる感触があった。イリスの手だ。追いすがるように、手は優しく触れてくる。
俺はそっと握り返した。
イリスの手も応える。
思えば、手をつなぐのは初めてか。
ちょっと気恥ずかしかったけど、俺は彼女の手を引いて歩いた。
彼女にしては少し頼りない感じがした。




