17
真夜中。
彼女はベッドである男と通話する。
「…彼のサンプル、必要あるでしょうか?」
『それは私に対する異議かね?』
「現状を見た上での疑問です。彼は母親の才能を受け継いでいるようには思えない」
『環境や教育によって人間の在り方は変わる。才能もそうだ。芽生えるか埋もれたままかはそれ如何で変わる』
「あなたが興味を示す程の対象には思えません。記憶も戻らないようですから、放置しておいても問題ないかと…」
『アレが彼に何を伝えたのかがわからない以上、放置する理由にはならんよ。サンプルにならぬなら、不都合な事柄を知るのなら、彼には物言わぬ塊になってもらう』
「…言葉が過ぎました。無論、任務は継続します」
『ほだされたわけではあるまいな?君の任務は彼を首ったけにさせることだ。ミイラ取りがミイラになっては話にならない』
「承知しております」
『それに彼の才能が全くないと断定することはない。地中深く眠る種子でほんの弾みで芽吹くことがある。君が彼女たりえるなら、彼に眠る種子を芽吹かせられるだろう。言ったはずだ、これは試練でもあると。君が全霊を尽くすことを期待する』
「…ご期待に添えるよう、尽力致します」
4.いつかの僕らを探して
翌日、俺はイリスを連れて外に出た。
イリスは朝からご機嫌そうだった。出発時間の9時より3時間早く俺を起こしてきた。早速予定外のことが起こったけど、それだけイリスが楽しみにしてくれているというこ
となので、ここは素直に喜ぼう。
プランは決まっている。まずは有楽町線で池袋へ。
「ちょっと…土曜日は休日じゃないの?」
イリスは三方をスーツ姿のサラリーマンに固められていた。
電車の中は思ったより混んでいた。人がごった返していて、蒸し暑い。俺もイリスも通路の真ん中に入ってしまったので逃げ場がない。
「ははは…これは予想外だった」
「休日もホワイトカラーが群れているなんておかしいわ」
イリスは頬を膨らませる。
スタートダッシュから躓いてしまったな…。どう挽回するか、俺は頭を回す。
ふと、電車が市ヶ谷に停まったことに気づく。
「ああ、そうか。市ヶ谷か…」
「何が?」
イリスが不機嫌そうに尋ねてきた。「いや、何でもない」といって俺は口を噤む。ひとまず現地に到着するまで我慢だ。この状況が過ぎ去るのを、今は息を潜めて待つしかない。
池袋も人が大勢いた。こちらは当然だ。池袋に平日も休日も関係ない。人がいるのが当たり前の場所なのだから。
「もう二度と乗りたくないわ…」
「まぁまぁ。帰りは空いてくるから」
服に染み付いた汗の臭いを気にするイリスを引っ張って、俺は目的地に行く。
最初はサンシャイン水族館。
定番といえば定番だけど、イリスには驚いてもらえるはずだ。
「すっごーい…」
案の定、イリスは目を輝かせていた。とりわけ屋外に設置されたペンギンの水槽には驚いていた。都会の真ん中、それもビルの中に水族館があるなんてそうない。
「ペンギンが空を飛んでいるみたい」
「そうだね」
水族館のカフェでコーヒーとお菓子をつまみながら俺達は一息吐いていた。ひとしきり楽しんでいたイリスもちょっと落ち着いたようだ。
女子っていうと、何かとスマホで水槽を撮ったりするものだと思っていたけど、イリスはやっていない。SNSの類には登録していないらしい。アメリカの女の子はたいていやっているイメージだったけど。
「よかった、楽しんでもらえて」
「いいチョイスね。女の子なら誰だって食いつくわ」
「なんだよ、その言い方」
「褒めているのよ」
イリスは自分が注文したアイスティーをストローで吸った。氷が傾く。
「ここの魚って幸せなのかな」
「え?」
「人に見られ続ける、楽しませるためだけに水槽に入れられて、見世物にされて。それ以外に生きている意味なんてない。まぁ魚に自我なんてないだろうけど…」
「どうだろう」
あまり考えたことがない。俺はお菓子をつまんでいた手を止めて考える。
「バカね。別に、真剣に考えなくてもいいよ」
「イリスが考えていることだろ。無下にするわけにはいかないよ」
「そんな善意、いる?」
イリスが頬杖をついて俺の顔を覗き込んだ。呆れているようだ。
「他人の考えていることとか、他人の気持ちとか、いちいち拾って生きていたら辛くない?」
「まぁ、確かに…。でもさ、自分と関わる相手なら大切にしたいって思うだろ?」
「その相手に…メリットがなくても?」
「損得で人を見たことはないよ。強いて言うなら…大切だと思えたら、それでいいんだ」
イリスは返事をせずに俺を見つめている。しばしそうしていた後、イリスはため息を吐いた。
「イリス?」
「なんか、わからない。あなたのそういうところ…。いい所なんだろうけどさ…」
「損する性格…だけどな。友達によく言われる」
「その友達の方が賢いわ」