陽輔と里美、闇より出ずる
ボクの大音量の声が、静まり返った廃病院のコンクリート製の壁を震わせる。
「わ!?」
先輩がビクリと身をすくませる。
ボクの声の余韻が消えても、廊下はシンと静まり返って返事どころか物音一つしない。
「……やっぱり今ココにいる人間はボク達二人だけみたいですね。心置きなく帰りましょう」
ボクの背におぶさった先輩が、黙ったままコクリと頷いた。
引き返す道のりは病院の構造が分かっている分早く進めた。先輩をおんぶしてはいるものの、モデル体型の先輩の体重は軽くてほとんど苦にならない。
「陽輔?」
ボクの肩に顔をもたせかけた先輩の声が耳元で聞こえる。ついでに吐息も耳にかかって少しゾクッとした。
この建物に入ってから何度となくゾクッとしたが、同じ「ゾクッ」でもズイブン違う。さっきまでの背筋が冷える「ゾクッ」と違って、これは体温が上昇する。
「どうしました?」
「おなかすいた……」
さすがに絶句した。
真夜中の廃病院。しかも窓もなく、壁一面に「呪」だの「怨」だのの文字が赤いスプレーで書き付けられている地下二階。そんなシチュエーションで空腹を訴える女子大生がいるなんて。
「……先輩。前から思ってたんですけど……」
「なんだ?」
「ホント、あなたってスゴいです」
「よかったな。スゴい彼女が出来て」
「ええ、みんなに自慢しますよ。ボクの彼女、心霊スポットで腹の虫を鳴らす女傑だって」
首に回った先輩の腕がキュッと締まる。ちょっと先輩、チョークチョーク! 完全にキマッてますって!
「お腹の虫は鳴ってない!」
「……でも今お腹すいたって……」
「表現に誇張があるだろうが!?」
「表現を変えただけですぅー。誇張はしてませんー。こんな場所でそんなセリフが出るだけで充分女傑ですぅ~」
「しょうがないだろう! 陽輔の顔見たら気が弛んでお腹が減ったんだ!」
そんなやりとりが恐怖を和らげたのは事実だが、現実にはまだここは廃病院の中。しかも地下二階だ。ホッとするのはまだ早い。
建物の端の階段にたどり着くと、ボクは段を踏み外したりしないよう慎重に足元を確かめながら昇り始めた。
地下一階と地下二階の間の踊り場に出たところで、ボクはふと違和感を感じて足を止めた。
なんだ? 空気が微かに揺らいだ。
今まで感じなかった僅かな空気の揺らめきが頬を撫でる。しかもこんな地下で。
「どうした陽輔?」
ボクが足を止めたのを訝しんだ先輩がそっと囁く。
「いえ……」
ボクがそう言いかけた瞬間、それを遮るように階段の上の方から音が聞こえた。
ゴオオォーーーーーン。
重い金属どうしがぶつかり合うような音。
低いその音が不気味な余韻を残して薄暗い病院内の闇に溶けて消えていく。
「陽輔。なんだ今のは?」
先輩の声が震えている。
「分かりませんけど……。先輩、降りてくる時に廊下の防火扉に気づきました? なんかあれが閉まる音みたいに聞こえましたね」
そう言いながらも、頭の中では必死に考ていた。
あんな重い扉、風で自然に閉まるなんてこと絶対にありえない。ボロボロに錆び付いて、開く時にもあんなに苦労したっていうのに。
「だ、だって陽輔、さっきお前が呼び掛けた時、誰も返事をしなかったじゃないか。人は私と陽輔以外いないはずじゃないか。じゃあ、じゃあいたったい誰が扉を閉めたんだ?」
「先輩」
ボクは先輩の恐怖と不安を紛らわせようと、目一杯おどけた調子で言った。
「その論理的思考、是非勉強の時にも生かして下さいね」
「こんな時にお説教とか余裕だな!?」
先輩が場にそぐわないキャンキャンした声で抗議する。
「だってボク、幽霊よりも先輩の方が十倍コワイですもん」
またしても先輩の腕がボクの喉元を締め付けた。
「苦しいですって、先輩! ボクがオチたら一人で帰るコトになりますよ?」
そう先輩をおどかしたものの、ボクの方もこんなところで一人朝まで失神とかは勘弁してほしい。
それはともかく、脅しの効果で先輩のチョークスリーパーが弛んだのを幸いに、ボクは再び階段を昇り始めた。
ようやく一階にたどり着くと、ボクは自分でも理由のよく分からない溜め息をついた。
やっぱり廊下の防火扉が閉まっている。さっき階下で聞いた音は間違いなくこれだ。
ボクはいったん先輩を下ろすと、扉に歩み寄って取っ手に手をかけた。
開かない。
来る時は間違いなく開いてくぐってきたこの扉が、今は押しても引いてもビクともしない。ざっと見渡しても、扉には取っ手の他に鍵らしきものは見当たらないのに。
首筋にヒンヤリとした嫌な感触が走る。
「開かないのか、陽輔?」
泣きそうな声を出す先輩に向き直った時、ボクはふとあることに気づいた。
先輩の背後の壁に、他と明るさの違う長方形の部分がある。近づいてよく見ると、あまりに汚れていて気づかなかったがその部分だけがガラスになっていた。
窓だ。
明かり取り用のはめ殺しのようだが、窓であることには違いない。しかも誰かが石でも投げつけたのか、中央部分に蜘蛛の巣状のヒビが入っていた。
ボクは左手に握りしめていた鉄パイプに目を落とす。
そうだ。この鉄パイプで窓ガラスを割れば、防火扉を開かなくてもそこから脱出できる。
「先輩」
ボクは先輩の方を振り返りながら鉄パイプを右手に握り直した。
「この窓ガラスを割ります。破片を被らないように、少し離れてて下さい」
「分かった」
コックリと頷きながら先輩が二歩ほど後ろにさがる。
それを確かめると、ボクは窓に向き直ってもう一度状況を確認した。窓の中央やや右より、ボクの目線より少し高いくらいのところにある放射線状のヒビ。その集中点をパイプで叩けば、そんなに力を入れなくても簡単にガラスを割ることはできそうだ。
ふーっと息を吐き出しながら右手のパイプを差し上げる。
そして汚れたガラスに映る先輩の姿が充分な距離を取っているか確認した時、この夜一番のゾッっとする光景がボクの目に映った。
ガラスに映るボクを心配そうに見つめる先輩の姿。その斜め後ろに、けしてそこに居てはいけない者の姿が映っている。
上半身裸の男。
下半身は灰色のルームウェアに覆われ、バサバサの髪が汚ならしくもつれあっている。やや俯き気味で、眼窩は影に覆われて目の表情は窺い知れない。
とうとう姿まで見せやがった。
口の中がカラカラに乾き、心臓がまるで百メートル全力疾走した直後みたいに跳ね回った。
「先輩……」
ガラスの方を向いたまま、こめかみの辺りから伝い落ちた汗を指先で拭う。振り向いたって、どうせそこには居ないんだろ? そういうパターンなんだろ?
「やっぱりこっちに来て下さい。ボクの真後ろ辺りに。その方が破片に当たらなそうです」
「あ、ああ……?」
少し戸惑ったような顔をしながらも、ガラスに映った先輩がボクの方に歩いて来る。
上半身裸の男はじっと立ち尽くしたまま動かない。
よし、動くな。お前はそのまま動くな。
もし先輩の後を追ったりしたら殺す。もうとっくに死んでるんだろうが、もう一度殺す。
先輩の姿がボクの後ろに隠れるのを待って、ボクは右手の鉄パイプをガラスのヒビに打ち付けた。ガラスに映った男の姿が、細かく砕けて崩れ落ちる。
空洞が開いた窓枠から吹き込んでくる外気にハッと我に返ったボクは、素早く振り返ってフロアをキョロキョロ見回すが、やはり男の姿はどこにもない。
「どうした陽輔?」
背後から大井川先輩の心配そうな声がする。
「いえ、何でも……」
そう答えながら、ボクは窓枠に残ったガラスをパイプでつつくように取り除いた。
窓の外は、コンクリートの割れ目から所々雑草が生えた荒れ果てた駐車場だった。
「はい先輩。破片に気を付けて出て下さいね」
「うむ」
ボクの指示に従って、先輩ががらんどうになった窓から外へ這い出る。
先輩の後を追う前に、ボクはもう一度病院の中を振り返った。
男がいた。
さっきとは違う場所。地下へと降りる階段の中ほどに。ガラスに映っていた時は心なしか俯いていたが、今ははっきりとボクに顔を向けていた。
「陽輔!」
窓の外から先輩の叫び声が聞こえる。先輩にもこの男の姿が見えているのだろうか。
ボクは先輩がまた病院の中に入ってこないよう、壁側に背を向けたまま窓の前に立ちはだかった。
「ボクが今日ここに来たのは……」
カラカラになった舌に何とか鞭打って、ボクは必死に言葉を絞り出す。
「……大切な人を助けるためです。ただそれだけです」
男の暗い眼窩はボクに向けられたまま微動だにしない。僅かに開いた口元も、何らかの意思をこちらに伝えようとしているようには見えなかった。
「お邪魔しました」
見当違いというか場違いというか、なんともマヌケな言葉を呟いてぼくは窓に向き直った。
窓をくぐって荒れた駐車場に降り立ち、振り返って窓越しに建物の中を覗くと、さっきの男がこちらに背を向けて階段に立っていた。
ボクが見守るなかその姿は次第に闇に溶けて行き、やがては完全に消えた。
「陽輔、あれ……」
先輩の掠れ声に、ボクはノロノロと先輩の方に向き直る。
いやそれにしても、先輩の有り様ときたらまったくヒドい。顔と言わず服と言わず、あちこち埃まみれだ。
「先輩、今何を見たか分かりませんけど……」
ボクはポケットから取り出したミニタオルで先輩の顔を拭きながら言い聞かせた。
「……全部気のせいです。忘れて下さい」
「でも陽輔、さっき何か話していたろう?」
眉をひそめながらそう言う先輩の手を引いて、ボクは自転車の方へ歩き始めた。
「ただの独り言ですよ」
ボクの返事に先輩が何か言いかけたが、それを遮るように先輩のスマホが鳴った。
「大塚先輩だ」
スマホのディスプレイを見ながら先輩が呟く。
「もしもし」
先輩が電話に出ると、スマホのスピーカーから慌てふためいた様子の女性の声が漏れ聞こえて来た。どうやら今になって先輩がクルマに乗っていないことに気づいて、慌てて連絡をして来たらしい。
「大丈夫です、先輩。私ももう病院の建物から出てますから。……はい、…………はい。彼氏が迎えに来てくれたんで、一緒に帰ります。引き返してくれなくても大丈夫なんで……」
会話の様子からするに、置き去りにして逃げ出したことを平謝りに謝っているみたいだ。大塚先輩とかいう女の人はともかく、男子連中の面目はまる潰れだろうケド。
「ええ……はい。じゃあ失礼します」
通話を切った先輩はスマホをポケットにしまうと、目を細めてボクの顔をじっと見つめる。
「大塚先輩が、今度陽輔にも今日のコト謝りたいって……」
「別にそんな必要はないですケド……。心なしか先輩に睨まれてるような気がするのは錯覚ですか?」
「お前が他の女と関わると何か起こりそうな気がしてイヤなんだ。みかっちのこともあるし」
今度はホントに半眼で睨まれた。
「でもあれ、ボクが悪いワケじゃない気がするんですよ。ボクの女性関係のトラブル、いつもそうなんですよ。先輩と知り合ったのもそうですよ?」
「私と出逢ったのがトラブルか?」
低い声で唸りながら先輩に詰め寄られる。ほら、先輩の方が幽霊より十倍コワイ。
「失言の罰として、帰りにファミレスでイカスミパスタ奢れ!」
見返りの要求が変に即物的だ。
「無理ですよ。夜食なら、アパートに帰ってからボクが作ります」
「なんでだ?」
心底不思議そうに先輩が小首を傾げる。
「だって先輩、そんなドロドロの格好じゃファミレス入れてもらえなそうですよ?」