陽輔と里美、闇を行く
スマホのディスプレイの淡い光が辺りを照らした瞬間、灯りをつけたことを少し後悔した。
照らし出された壁という壁には、赤いスプレーで一面に「呪」とか「怨」とか書き付けられていて、しかも塗料の滴り具合が血みたいでいい具合におどろおどろしい。
八年の間にここに侵入した奴らの度重なるイタズラだろうが、捻りがないわりに効果バツグンなのが腹立たしい。
ボクは不吉な文字が書き付けられた壁に触らないように注意しながら、地下二階に向かってさらに階段を下った。この建物、階段を一段降りるごとに刻々と湿度が上がっていく。肌に絡みつく空気が不快で、思わず手の甲で首筋を拭った。
ようやく地下二階につくと、ボクはフロアと右に延びる廊下に向かってスマホをかざして光の届く範囲を見渡した。
廊下側を照らしたとたん、奥の方からガタンッ、という音が聞こえた。
その音だけが聞こえたのならボクの方がすくみ上がったんだろうが、イスか何かを倒したらしいその音と同時に聞こえた「ひっ」という女性の声がボクを落ち着かせた。
「……先輩?」
ボクはそう小さな声で問いかけながら、スマホのディスプレイを切って闇を呼び戻す。
案の定、ボクのスマホが切れても完全な暗闇は戻ってこず、十数メートル先の部屋から漏れてくる微かな光が廊下をわずかに照らしていた。あれは多分大井川先輩のスマホの光だ。
「…………よ、陽輔か?」
光のする方から怯えきった声がする。間違いない。大井川先輩の声だ。
「先輩。よかった……」
ホッとしたボクはそのまま足早に光が漏れる部屋に向かって歩き始めた。
その瞬間、誰かに左足首の辺りを掴まれる感触があった。
完全に不意をつかれて空気が肺から喉元にせり上がって来る。
やっぱりそうだ。この場所、本当にいる。
だがボクは立ち止まるどころか歩みを緩めもしなかった。
本当に幽霊がいようと関係ない。この廊下の向こうにいるのはボクの大切な人だ。
なんのつもりで邪魔をしようとするのか知らないが、どんなことがあろうともあの人だけは返してもらう。
「先輩、大丈夫ですか?」
明かりが漏れる部屋を覗き込みながら、ボクは室内に呼び掛けた。部屋の様子を見渡す前に、こちらに向けられたスマホの光に目が眩む。
「陽輔!」
光の向こうから名前を呼ばれた。
「先輩、スマホ向けないで下さい。眩しいです」
普段通りのおどけた調子で言ったつもりだったが、実際にうまくいったかどうかはあやしい。
光を目指して部屋の隅に近づいていくと、倒れた折り畳みイスの陰に隠れるようにして大井川先輩がしゃがみ込んでいた。先輩の顔はもう涙でグッショリ。
「よぉ~すけえぇ~~~。……えぐっ」
「お待たせしました、先輩。早くここを出ましょう」
「遅い……」
先輩がボソッと呟いた。
「遅い。遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅いいいぃ~~~~~!!!」
隣にしゃがみ込んだボクの胸板をポカポカと叩きながら先輩が泣きじゃくる。
「何言ってんですか。先輩から電話が来たときに病院の前にいただけでも見っけもんですよ? むしろ感謝して下さい。あの時家にいたら、ここに来るまで三十分以上かかってたところだったんですから」
ひくっ、と息を飲み込んで先輩の非難の声が止まった。多分、三十分以上ここに一人でいる自分を想像してぞっとしたに違いない。
「帰ろ? 早く帰ろ?」
すっかり幼児退行した口調で先輩が訴える。
「当たり前です。こんなところ長居は無用ですよ。先輩、立てますか?」
だが先輩は床に尻餅をついたまま首を横に振った。
「こ……、腰が抜けた」
まあ無理もないか。こんなところに一人置き去りにされたんだから。
ボクは先輩の方に背中を向けて、両手を後ろに差し出した。
「つかまって下さい、先輩」
先輩は躊躇うそぶりも見せずにボクの首に腕を回し、体重をボクの背中に預けてきた。
「先輩?」
ボクは首を回して先輩に囁く。
「なんだ?」
「こういう時は、少し恥ずかしそうなそぶりした方がカワイイですよ?」
そう言い終わるかどうかといううちに、後ろから頭をポカリと叩かれた。
「こんな場面で、そんな余裕があるか!」
まあ、それは確かにごもっともですね。でもボクの頭をポカリとやる余裕はあるワケですか。
ボクは先輩を背負って立ち上がると、肩越しに先輩に話し掛けた。
「先輩、ボク両手が塞がってるんで、スマホで前を照らして下さい」
「分かった」
先輩のポケットをゴソゴソと探る動きが密着した背中を通して伝わってくる。
先輩がスマホをボクの肩越しに前にかざしてホームキーを押すと、前方がにわかにパッと照らし出された。
「お……」
部屋に入ってくる時は気づかなかったが、床に長さ四〇センチくらいの鉄パイプが転がっている。きっとヤンキーあたりが持ち込んだんだろうが、ボクは屈み込んで右手で拾い上げた。
「それってオバケに効くのか?」
大井川先輩の声が背中から聞こえた。
「分かりませんねぇ。オバケに会ったコトないんで」
後ろから音が聞こえたことと、足首を掴まれたコトはあるんですケドね。だけど今ココでそれを言うと色々メンドくさそうなので言わない。家に帰ってからタップリ怖がらせてやろう。
まあマンガや映画や小説を見る限り、足がない相手にこういうものはまず効かないと思うケド、少なくともコレを手にしていることによる安心感はある。
ボクは霊安室を出て、降りてきた階段の方向へ廊下を曲がった。
二、三歩進んだ辺りでボクたちの背中の方、廊下のずっと向こうで音がした。カコーン、というプラスチック製の何かが床に落ちたような音だ。
「振り向かないで下さい、先輩」
そのボクの言い回しが怖かったのか、先輩が背中で「えっ?」と言いながら息を呑む気配がある。
「……けど陽輔」
先輩がボクの耳元に唇を寄せて囁いた。くすぐったいくすぐったいくすぐったい。
「もしかしたら、誰か他にいるんじゃないか? 私の他にも逃げ遅れたメンバーがいるんじゃないか?」
そう言われてふとその可能性に考えを巡らせる。だが確認の方法はすぐに思いついた。
「先輩、大声出しますケドびっくりしないで下さいね」
ボクはそう断ってから大きく息を吸い込んだ。
「誰か残ってる人いますかあ~!?」