大井川先輩の肝試し
「どこに行くんですって?」
大井川先輩の口から出た意外な言葉に、思わず不審げな口ぶりで質問した。
「だから、肝試しに行こうと誘われているんだ」
肝試し。
幽霊やオバケが出ると噂のあるところにわざわざ出掛けて行き、キャアキャア怖がって騒ぐという何とも不可解な精神構造によってなされるあの遊戯か。
「……今、四月ですよ。ああゆうのって真夏の夜にやるもんじゃないんですか?」
「サークルの新歓コンパの余興なんだそうだ。大塚先輩が『女が私一人じゃ心細いから来てくれ』って……」
大塚いずみさん。内野先輩が、英文科の先輩のツテで大井川先輩に紹介した国文科の二年生らしい。ボクは一度も会ったことはないけれど。
話によれば大井川先輩、この大塚先輩の誘いで「イエロー・ストライプ」というビリヤードのサークルに入会し、気の早いその新歓コンパが来週あるのだそうだ。
ところがこのサークルの新歓コンパ恒例とも言える肝試し大会は、毎年男子学生の度の過ぎた「仕込み」に尻込みして、大塚先輩以外の女子が参加を渋っているらしい。
「それで、陽輔も一緒に来てくれないかと思ってな」
「なんでボクが先輩の大学サークルのイベントに出なきゃいけないんです?」
「だって陽輔が来てくれなきゃ怖いじゃないか!」
そう。大井川先輩って、怪談とか幽霊話とか、ソッチ方面はまったくダメな人なのだ。ちゃんと足がある相手なら無敵なのに。
「そんなに怖いなら、行くのやめればいいじゃないですか」
「大塚先輩の頼みを断ってか?」
そう言われて、ボクはうっ、と返事に詰まった。
この先の大井川先輩の大学生活を考えれば、頼れる先輩がいることは大きなアドバンテージだろう。だが新歓コンパ早々に先輩の頼みを断れば、その後の先輩との関係が気まずくなるのは目に見えている。
しかしそれはそれとして、ボクの方にも大井川先輩の依頼を受ける訳にはいかない理由があった。
我が棚橋家は、いつの頃からなのか知らないが神仏に対する信仰にものすごく厳しい。春、秋のお彼岸や夏のお盆には古式ゆかしくきっちりとお寺でのご祈祷とお墓参りをするし、ボクが生まれた家に一番近い産土神である神社には月に一度必ず掃除に行くほどだ。
そんな家柄のため、面白半分・興味本意で心霊スポットを訪れて騒ぐような肝試しなどまったく論外、絶対禁止と小さな頃から厳しく言われていた。
「まあ確かにその先輩の頼みを断るのはまずいかもしれませんが……。だけどやっぱりボクは行けませんよ? ある意味、家訓みたいなもんですし」
「うう~」
ボクの返事に大井川先輩が歯噛みするが、ダメなものはやっぱりダメだ。
「そんなコト言って、ホントは怖いだけじゃないのか、陽輔?」
「そんなミエミエの挑発には乗りませんよ、先輩」
ボクは先輩にそっけなくそう返すと、読みかけていた本に目を戻した。
「陽輔。本当に来てくれないのか?」
新歓コンパ当日、大井川先輩から未練な電話がかかってきた。ボクが同行しないのがよほど不満とみえる。
「だからダメですよ、先輩。男子達のイタズラが行き過ぎたら先輩がシメればイイでしょ?」
「本物の幽霊が出たらどうする!?」
「面白そうだから、ついでに本物の幽霊もシメちゃって下さい」
「私はなんだ? 退魔師か!?」
「先輩の武勇伝に新たな一ページですね」
冗談を飛ばしつつも、なぜかボク自身ふと不安な気持ちに襲われた。その時は虫の知らせなんてことは考えてもみなかったけれど。
「ちなみに、肝試しってどこでやるんですか?」
「沢村総合病院だ。矢田町のはずれの」
それを聞いたボクはちょっと本気で心配になった。沢村総合病院は八年前に廃業し、取り壊されないまま放置された地元ではけっこう有名な場所だ。
「まあ、幽霊が出る出ないはともかく、雰囲気でパニック起こして事故になったりしないように気をつけて下さいね」
「そんな優しいコト言うんなら、一緒に来てくれればイイのにぃ……」
午後十時半。
そろそろ先輩のサークルのメンバーも飲み会を切り上げ、肝試しの場所である廃病院に向かっている頃だろうか。
まだ十八歳の先輩はアルコールを避けているだろうが、上級生達の中にはかなり酔っている者もいるに違いない。羽目を外し過ぎて危険なコトとかしないといいんだが。
そんなことをつらつら考えていると、なんとはなしに不安な気持ちが沸き上がって落ち着かなくなる。
まあ危険なことはないにしろ、先輩も夜中の廃病院の不気味な雰囲気にあてられて怯えて出てくるんだろうし、迎えに行きがてらちょっと様子を見に行くか。先輩を迎えに行くだけだし、我が家の家訓もこの場合はきっと適用されないだろう。
そうもっともらしい理由をつけて自分自身を言いくるめたボクは、家族に気付かれないようそっと家を抜け出すと自転車にまたがって暗い夜の町を走り始めた。
四月に入ったとはいえ夜の風はまだまだ冷たく、スピードを上げて自転車を走らせると頬がピリピリと強ばる。沢村総合病院は住宅街から少し外れた郊外にあり、ボクの家からは自転車でも三十分以上はかかった。
県道沿いの街灯の間隔がまばらになり、行儀よく並んでいた建て売り住宅が雑木林や畑にとって替わられる頃になると、いよいよ周囲もそれらしい雰囲気を醸してくる。
ボクの記憶では、この僅かに左にカーブする弛い下り坂を下りきったところが例の廃病院だ。
見えてきた。道の左側にぬっと聳え立つコンクリート造りの建物の黒いシルエット。崩れかけてはいるが、県道に面した門も街灯に淡く照らし出されていて確認できる。
その時、坂を門に向かって下りながら自転車を減速させるボクの耳に、突然クルマのエンジンがかかる音が届いた。静寂を不意に切り裂いたそのエンジン音はどうやら病院の敷地から聞こえてくるらしい。
先輩のサークルメンバーが帰るところにちょうど出くわしたんだろうか? だとしたら運悪くすれ違い。ここまで来たのもとんだ無駄骨というワケだ。
そんなことを考えていた次の瞬間、病院の敷地内でクルマのヘッドライトが瞬いたと思うと、門から黒いワゴン車がタイヤを軋らせながら飛び出してきた。クルマがボクの目の前を通過する瞬間、蒼白な顔で目を見開いたドライバーの表情が見てとれる。
「なんだ?」
呆気にとられたボクは、自転車にまたがったまま思わずそう呟いた。
今のただならぬ様子。やっぱりこの廃病院で何かあったに違いない。
だが今のクルマが先輩のサークルメンバーのものなら、すでに肝試しの参加者は全員病院から退去済みということだろう。
あの慌てた様子からすると相当怖い目にあったらしいが、事故を起こさずに全員帰ったのならまあそれでいい。
そう考えて無駄足を踏んだ不満を紛らわせていると、突然ポケットの中のスマホが鳴り始めた。
うお! ビックリしたぁ!
一人きりで心霊スポットにいる時にいきなり着信とか、心臓によろしくないのでやめてほしい。……いや、着信ってものはいつもいきなりくるか。