最終話 そんなあなたが……
「やっぱりここだった」
里美の姿を見つけたとたん、思わずそう口に出た。
ヤキモチで拗ねた里美がかくれんぼをしかけるとしたら、花火大会を一緒に見たこの空き地以外にないと睨んだボクのカンはズバリ的中というわけだ。
国道沿いに延びる斜面の中腹にあるこの空き地には小さな社があり、里美が花火大会の夜に語ったところによれば、それは昔漁に出る漁師達の安全を見守るために建てられたものなのだという。
今里美は花火大会の夜に二人並んで座ったベンチに腰掛け、その傍らにはさっきの女の子ともう一人、同じくらいの年の男の子が立っている。
「おはよ、里美」
そう言葉をかけながら、ボクは里美の座る腰掛けにゆっくりと歩み寄った。だが里美はボクの顔を真っ直ぐ見ることすらせず、心なしか紅らんだ顔を俯けて黙りこくっている。
「……風が気持ちいいね、ここ」
あのメールの真意を問い質すようなことはせず、ボクは静かに言葉を続けた。そもそも、そんなこと問い質すまでもなく始めから分かりきっていることだ。
「おねーちゃん。おねーちゃんがまってたのって、このおにーちゃんでしょ?」
女の子が俯く里美の顔を覗き込みながら無邪気に尋ねる。
男の子の方も里美の前に回り込みながら囃したてるように同調した。
「きっとそうだよ。おねーちゃん、おにーちゃんのかおみたとたんにはずかしそうにしたむいたもん!」
するとなぜか男の子がボクの方に目を向け、じっと値踏みするように見つめてくる。そのまましばらく黙ってボクを観察したと思うと、急に里美の方を振り向いて慌てたように捲し立てた。
「おねーちゃん、はやくはやく! おにーちゃんがきたら、ちゃんとあやまるっていってたでしょ!?」
「な!? ちょっ……!!!」
男の子の催促に、里美がガバッと顔を上げて激しく取り乱す。
「……謝る?」
ボクは今の言葉が聞き違いなのか確認しようと男の子の方に向き直った。
てっきりヘソを曲げに曲げた里美にさんざんいたぶられると思っていたのに、里美がボクに謝るなんて、世界終焉の前兆じゃないのか?
「……ちょ……、ちょ…………!」
里美が視線をフヨフヨと泳がせながら途切れ途切れに何か口にしようとする。手元では何やらミニタオルをゴソゴソといじり回している。
「……ちょ、調子にのるな、陽輔ぇ~!!!」
心当たりのない指摘と共に、ボクの顔に向かって丸められたミニタオルが飛んできた。ご丁寧に端を折り目に巻き込んであるもんだから、ボールみたいにスゴいスピードで空を切って見事にボクの額にヒットする。
「私の居場所を当てたくらいでいい気になって、余裕タップリに『おはよう、里美。風が気持ちいいね』だとう!?」
うんわぁ~。ボクの彼女、もんのすごい理不尽だなぁ。
「お、おねーちゃん、ダメだよ! ぜんぜんダメだよ!? ちっともあやまってないよ!?」
「そ、そうだよなぁ? 何を謝るつもりなのか分からないけど、そうだよなぁ!? 少なくとも、謝ってはいないよなぁ!!!?」
目を丸くして里美を諭す(さとみだけに)男の子にボクも思わず同調した。だが当の里美は再び俯くと、両手を膝の上で固く握りしめたまま黙りこむ。
「ねえ、たっくん」
女の子が、男の子のロングTシャツの袖をクイクイと引っ張りながらそっと小声でうったえる。
「たっくん、いこ? おねーちゃん、きっとわたしたちがいるからはずかしいんだよ」
男の子の方もハッとしたような顔で頷きながら、ボクが上がってきた階段の方に足を向けた。
だが小声といっても、辺りで聞こえるのは吹き渡る風と、丘の遥か下方の国道を走る車の音だけ。女の子の声は里美の耳にしっかりと届いていたらしい。
「ま、待ってくれ!」
里美が慌てた様子でその場を去ろうとする子供達を呼び止める。
「頼むから、二人きりにしないでくれ!」
そう口走ってから、里美はハッとボクの方を振り向いて気まずそうに目を泳がせた。
「ふ、二人きりになると……、なんか、て、て……、照れ臭い」
いったい何なのさ。
今だって半分同棲みたいな生活してるっていうのに、今さら照れ臭いとか。しかもこんな小さな子供達を引き止めてまで二人きりになりたくないって……。
子供達は里美の懇願に足を止め、戸惑ったようにその場に立ち尽くしている。
「里美……」
ボクは口をへの字に引き結んだ自分の彼女にそっと語りかけた。
「……ダメだよ、こんな小さな子達を困らせちゃ。もしかしたら、家に帰らなきゃいけない用事があるのかもしれないし……」
里美もさすがにそれは分かっているのか、ほとんど聞き取れないくらいの溜め息をついて渋々うなづく。
けれど子供達は里美が座るベンチまで引き返すと、両端に僅かに残ったスペースにそれぞれチョコンと腰を下ろした。
「だいじょうぶだよ。おねーちゃんがいてほしいなら、わたしたちここにいるよ?」
女の子が里美の顔を無邪気に見上げる。
子供達に挟まれた形の里美は、首をせわしなく左右に振って二人の顔を見比べた。そしてフッと表情を緩めると、「ありがとう」とやっと聞き取れるほどの声で呟く。
風が吹く。
ボクの傍らをそよそよと吹き渡っていく。
梅雨真っ只中なんて思えないくらい爽やかな風だ。
不意に沈滞した雰囲気を何とかしようなんて発想すら浮かばない、なぜかそれほど心地のいい沈黙だった。
あんまり沈黙が長すぎて、女の子の方は里美に寄りかかってウトウトしてしまっている。
里美は女の子の髪を撫でながら彼女をそっと抱き寄せると、意を決したような大袈裟な表情を浮かべた顔をそっと上げた。
「……陽輔」
「なあに?」
ボクは男の子を抱き上げると、里美の隣に腰を下ろして自分の膝の上に彼を座らせる。男の子はされるがままにボクの膝の上におさまると、やっとそれと分かるほどの微笑をボクに向けた。
「後悔……、してないか?」
何を? とは訊かなかった。
訊くまでもなかった。
里美の質問の意味はただ一つ。「自分を彼女にしたことを後悔してないか」と尋ねたのだ。
「……してる」
その答えに、里美がハッとボクの顔を見直す。
「何でもう一年早く生まれて来なかったんだろうって、スゴく後悔してる」
そこでわざとらしい大きな溜め息を一つつき、ボクは次の言葉をそっと紡いだ。
「同じ学年なら、もっと里美を監視できる時間がいっぱいあったのにって……」
ボクの言葉を遮るように、里美が身を乗り出す。
「……そうじゃなくて!……」
そう言いかけつつも、里美はボクの言葉がちゃんと答えになっていることに途中で気づいたみたいだった。そして乗り出した身体を戻すと、ゴニョゴニョと歯切れ悪く言葉を繋いだ。
「だけど……」
小鳥が二羽、チチチ、と鳴きながら戯れるようにボクらの頭上を飛び過ぎる。
「……私ってバカだろう?」
「うん」
「みかっちと違ってガサツだし」
「そうだね」
「彩音と違ってかわいらしくない」
「まったくだ」
「おい。ちょっとは遠慮しろ」
ドスッ、と拳が脇腹に突き立った。うぐぅ。
今のパンチ、この男の子を膝に抱いてなかったらきっとストマックにめり込んでたんだろうなぁ。サンキュー、坊や。
「だったら何で私なんだ?」
これ以上ないストレートな質問だ。
ならば、回答もこれ以上ないほどストレートであるべきだろう。
「だからこそ、里美なんだよ」
ボクは短く、ただそれだけ口にした。
いつだったか、大塚さんによってなされた質問。
“キミは、里美のどこが好きになって付き合い始めたんだ?”
あの時ボクは、彼女に何と答えたか。
「確かに里美はバカで、ガサツで、かわいらしくないけど……」
隣で再び里美がギュッと右拳を固めた。
まずい。早く次の言葉を言わないと。
「だけど、ボクが里美を好きになった理由は、それだよ」
右拳がほどけない。
はい、追加説明急いで、急いで!
「里美はそれを隠さない。取り繕わない。ボクのことを好きだと言いながら、そのボクの前ですら、自分を押し殺すことをしない……」
他の人は違う。
好きな人の前ほど、自分を飾る。偽る。ねじ曲げる。
それが必ずしも悪いことだとは思わないが、そんな無理をいつまで続けられるのか。元に戻ろうとする捻れを必死に押さえながら、いつまで虚像の自分を維持できるのか。
結局好きな人といつまでも一緒にいたいのなら、ありのままの自分を曝して受け入れられる目に賭けるか、それとも本当に相手の望む自分になるかの二者択一だろう。
里美には選択の余地はなかった。
自分を偽るには純粋過ぎたし、変わるには自我が強固過ぎた。
だからいつも真っ向勝負だ。
決して生き易くはないこの世界を前にして、いつでも自分を曝して、歯を食い縛って前へ前へと突き進んでいく。
純粋で、強くて、美しくて。
幼くて、脆くて、儚くて……、そして、悲しい。
大井川里美とは、そういう人だ。
だから傍にいたいと思った。
だから傍にいてほしいと思った。
里美のために。
ボクのために。
二人のために。
風が吹き渡る。
ボクと里美の周りを吹き渡る。
「そんな里美のことが、ボクは好きだ」
吹き渡る風が、ボクの言葉を大空の彼方へ連れ去っていった。
けれどボクは確信していた。ほんのひと欠片ほどだったとしても、ボクの言葉が里美に届いたことを。
里美の瞳が不意に潤んだ。
「…………初めて言われた」
「え……?」
「『好き』って、初めて言われた……」
そう言われて愕然とする。
「……う、嘘でしょ?」
必死に記憶を辿るが、焦りのあまり思考が空回りして、なかなかうまく思い出せない。
……ない。
確かになかった。今まで里美に「好き」と言ったことが。
ボ、ボクってヒドくね? 自分の彼女に一度も「好き」と言ったことがないとか……。
そりゃあ、里美だって不安になるよね。これじゃ今日のこのプチかくれんぼだって、あながち里美が悪いとも言い切れない。
「ゴ、……ゴメン」
思わず両手で顔を覆った。
「あれぇ? おねーちゃんじゃなくて、おにーちゃんのほうがあやまってる」
膝の上の男の子がからかうような調子で指摘した。
「じゃあ、言うよ。もう一回、ちゃんと言う」
ボクは大きく息を吸い込んで、しっかりと里美の目を見据える。
いつの間にか里美の右拳はほどかれ、ウトウトとまどろんでいた女の子の目はぱっちりと開いていた。
「ボクは、今のままの里美が大好きだ」
風が吹き渡る。
「だから、ずっとボクの傍にいてほしいんだ」
一瞬、この空き地が世界の全てになったような錯覚を起こした。
ボクら四人は誰も何も喋らず、ただ吹き過ぎる風と、揺れる木々のざわめきの音だけが聞こえる。
里美は目を丸くして、彫像みたいに固まったまま動かない。
突然、男の子がボクの膝からピョンと飛び降り、女の子がそれに従うように里美の隣から立ち上がる。
「おねーちゃん、おねがいかなってよかったね」
女の子が言う。
「さいきんは、かなうってこころのそこからしんじておねがいをするひとがいなかったから、ぼくたちもこまってたんだ」
男の子が言う。
なんだ。この、世界が空に浮かび上がっていくような不思議な感覚。
「だけど、きょうはひさしぶりにこころのそこからのおねがいがきけてよかった。だから、おにーちゃんのおねがいもかなえてあげるよ」
男の子はニッコリ笑ってそう言うと、女の子の手を取ってひっそりと佇む小さな社の前へと歩いて行く。花火大会の夜、二人一緒に手を合わせたあの社の前へ。
二人はそこでもう一度こちらを振り向くと、元気に手を振って「じゃあ、またね」と笑いかけてきた。
そして二人の姿が、すうっと宙に溶け込むように薄れ、そして消えた。
「あ……!?」
里美がベンチから立ち上がり、社に駆け寄る。ボクもフラつく脚を持て余しながらゆっくり立ち上がると里美の後を追った。
里美の肩越しに社の中を覗き込むと、御神体らしき鏡の両脇に、小さな一対の狛犬の像が置かれているのが目に入った。
「あの子達って……」
里美の惚けたような声が風の音に混じる。
ボクもその一言で何となく理解できた。
柳井さん、やっぱりあるんですねえ。こういうこと。
風が吹き渡る。
ボクと里美の周りを吹き渡る。
いつまでも永遠に続くんじゃないかと思われた沈黙が、振り返った里美の声で突然破れた。
「男の子が叶えてくれるって言ってた陽輔の願いって、いったい何のことだろうな?」
とぼけているのかと思ったが、里美の表情を見ると本当に分かってないみたいだ。
「さあね」
ニコッと笑って謎めかしてみるが、ボクには男の子の言った意味はちゃんと分かっていた。
「それより、お腹すいたよ。なんか食べに行かない?」
「いや帰ろう、私のアパートへ。今日の朝食は私が作る」
里美の口から意外な言葉が飛び出した。そしてボクの彼女はニヤッと悪戯っぽく笑うと、退っ引きならないセリフを突きつけてきた。
「何せ、私は陽輔の未来の妻だからな」
もう何も言えなかった。
確かに、さっき子供達の前で里美に言ったセリフはプロポーズと受け取れないこともなかったし、あの男の子が言った通り、それはボク自信が願ったことだから。
願いが叶えられるというのなら、叶った願いに責任を負うのが誠実さというものだ。
「お任せしますよ、奥様」
ボクが微笑みながらそう言うと、笑って頷く里美の目から涙が一筋、頬を伝ってポトリと落ちた。
ボクは里美の手を取ると、空き地を出て石段を下った。
「そう言えば陽輔」
石段の中ほどで、突然里美が口を開く。
「なに?」
「私、今月まだアレが来てないんだ……」
脚がまるで、自分の物じゃないみたいにピタリと勝手に止まった。
カラカラになった口を半開きにして、里美の顔にまじまじと見入る。
その里美の顔が、してやったりとばかりにニッと緩んだ。
「ウソだ」
「ウソかあああぁぁぁぁぁーーーーー!!!!!」
思わず地球の裏側まで届かんばかりのイキオイで絶叫していた。
「ビックリしたか?」
「したよ!!!」
当たり前だ。
ビックリし過ぎて、一瞬で色々頭を過った。里美のご両親の前で土下座する自分の姿とか。
「いつか、本当にそう陽輔に報告できる日が待ち遠しいな」
そう言って笑う里美の顔が、降り注ぐ陽射しの中で輝いている。
これからのボクら二人の人生は、こういう目映い光景の中にばかりあるのではないのだろうけど、それでもボクは歩いて行く。
里美と一緒に、たった一つのこの世界を。
Re:大井川先輩とボク 了




