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現れて、消える

 あまりに盛大なその音にハッと顔を上げると、柳井さんがクッションを握った右手をプルプルさせながら弟さんを睨み付けていた。

 弟さんの方は両腕で頭を抱え、床に倒れ込みながら「あうおぉぉ~」と野獣チックな呻き声をあげている。

 どうやら、柳井さんのクッションによる一撃が弟さんの頭を捉えたらしいが、さっきの音から察するに、恐らく手加減なしのフルスイングがクリーンヒットしたに違いない。

「史輝。いい加減にしなさい」

 低く、冷たく、無機質な声が、静まり返った六畳間の中でやけに大きく聞こえる。

 大塚さんですらそんな柳井さんの声には馴染みがないらしく、目を真ん丸に見開いてクッション片手に仁王立ちする友人を見つめていた。

「あんたのためにわざわざ来てくれたお客様なのよ。それなのにあんたは……」

 柳井さんの右手が再び振り上げられるのを見て、弟さんの目に驚愕と怯えの色が宿る。

「ひっ!」

 頭をかばった腕の上から、打ち下ろしの一撃が加えられた。

「出迎えもせずに寝起きのままで……。しかも何、そのフザケた態度はぁ!!!?」

 セリフ後半の怒号に重なるようにして、クッションが今度は飛び道具として利用される。柳井さんの投擲とうてきによって風を切ったクッションが、弟さんの背中に勢いよく叩きつけられた。

「棚橋君、ごめんなさいね。わざわざ来てもらったのに申し訳ないけど、この依頼はもう忘れてちょうだい。今日の埋め合わせはいずれさせてもらうわ。こんなバカ、助ける価値もないもの」

 床の上で身体を丸めている弟を尻目に、柳井さんがボクに向かって申し訳なさそうに頭を下げる。

 けれどもボクは、そんな柳井さんに返事をすることはおろか、ゼスチャーを返すことも、いや、彼女を見返すことすら出来なかった。

 なぜなら、彼女の後ろに突如として現れた人物に目を奪われていたから。


 男性だ。年の頃は三十代前半といったところか。

 白いシャツを黒のTシャツの上に重ね、ボトムはベージュのチノパン。

 間違いない。断言してもいいが、さっきまでこんな人は部屋にいなかった。

 そもそも弟さんは一人暮らしだと柳井さんは言っていたし、よしんば弟さんの知り合いだとしても、あんな狭い部屋のどこに今まで隠れていたというのか?

 何より普通じゃないのは、まるで魂が抜けたような彼の表情と動きだった。虚ろな目をして、ボクら四人に関心を示すことすらせず、ゆっくりと柳井さんの背後を横切っていく。


「や、柳井さん……?」

 声と同様に震える右手を差し上げて、ボクは彼女の背後を指差した。

 ボクの様子の異様さに眉をしかめながら、柳井さんが不審そうに振り向く。

「ひゃうっ!?」

 ボクと同じ物が見えたらしく、柳井さんは弾かれたように飛びすさると、さっき弟に投げつけたクッションを拾い上げて防御姿勢らしきものをとった。

 さらに床に転がったままの弟さんも、姉の視線を追った次の瞬間「うおっ!」という声とともに後ずさる。

 ただ一人、大塚さんだけはそんな他の三人の様子をいぶかしむようにキョロキョロするだけで、まったくあの闖入者ちんにゅうしゃに気づいた様子がない。

 見えてないんだ、大塚さんには。

「ちきしょう。またかよ……」

 そんな小刻みに震える弟さんの呟きがボクの耳に入る。

 その時、部屋を通過して行く男性に変化が一つ表れた。

 それまで無表情で、我々四人がまるでそこに居ないかのように振る舞って来た彼が、突然何かを見つけたみたいにこちらを振り向いたのだ。それと同時に、気だるげではあるが着実だった歩みもピタリと止まった。

 男性のその動きと同時に、固唾を飲んで彼の一挙手一投足を見守っていた大塚さんを除く三人も思わずビクリと反応する。

 ……沈黙。

 何とも異様な沈黙だった。

 ボク、柳井さん、弟さんの三人は、部屋に突如現れた謎の男性の挙動を見守って一言も発せず、大塚さんもそんな他の三人の様子から何か情報を得ようとするみたいに息を殺して黙りこくっている。

 そして謎の男性はといえば……。

 まるで「だるまさんがころんだ」をしているみたいに、歩くのを止めた時の姿勢のまま身じろぎ一つせずにフリーズしていた。

 やっぱり人間じゃない。

 それはすぐに分かった。

 ボクの目にはハッキリ見えていても、なんというか実在感が希薄だ。うまく言えないが、まるで3D映画を見ているような、良くできてはいるが現実ではない何かを見ているような違和感。

 男性の顔には、何か意外なものに出くわしたような、もしくはちょっと怯えているような表情が浮かんでいて、その目が見つめる先にあるものは……。

 ボクだった。

 柳井さんの弟さんの部屋に現れた幽霊の男性は、自分同様にこの部屋の主にとっては闖入者ちんにゅうしゃであるボクのことをなぜかじっと見つめている。

 柳井さんも弟さんもそのことに気づいたのか、二人の目もゆっくりとボクに集まった。なんてイヤな注目だ。

 ボクはおそるおそる男性の幽霊に目を戻す。

 幽霊にじっと見つめられるなんて、里美に柔術で組伏せられることの次くらいにイヤな体験だが、一つ救いがあるとしたら、それは向こうの方が何か怯えたような表情をしていることだろう。

 いったい何がそんなに彼を不安にさせているのかといぶしんでいると、次第に自分が今日三回目の勘違いをしているのに気づき始めた。

 彼、ボクを見てるんじゃない。

 カフェでの柳井さんのように。さっき二人の来客に誰何すいかした弟さんのように。

 彼が見ているのは、ボクの背後だ。

 その瞬間、ボクがそれに気づいたのを悟ったかのように、男性の幽霊が後ずさりを始めた。閉めきられた窓に向かって。

 いや、そっちは、と思わず口に出しかけたボクが見守る中、男性の幽霊はホログラムみたいに窓ガラスをすうっとすり抜ける。そしてアパートの前の僅かなスペースを横切ると、隣の敷地に立つ建物の壁に溶け込むように消えた。

 

 ああ、そうか。だって幽霊だもんね。

 窓にぶつかるなんて、間抜けな心配をしたこっちがバカみたいだ。

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