陽輔の自覚といずみの覚醒
今付き合っている相手のどこが好きか。
好きだから付き合って恋人どうしになったはずなのに、あらためてそう訊かれて即答できる人っていったいどれくらい居るものだろうか。
大塚さんの質問に、意識して自分の内側を掘り返し「里美に対する気持ち」なるものを捜索してみるが、それに該当しそうな言葉は見つからない。「なかなか見つからない」なんてもんじゃない。見つかりそうな気すらしない。
里美と付き合い始めるきっかけになったのが、あの花火大会の夜の出来事であることは間違いない。
里美の浴衣姿、歩道橋の上での会話。
一緒に手を合わせた小さな社、並んで座った石造りのベンチ。
里美の手作り料理、夜空に打ち上がった花火。
そして、花火の灯りに照らされた里美の泣き顔と、いつの間にかボクらを繋ぐ絆になっていたあの文庫本。
それらのパーツが形作るあの夜の風景の記憶は、今なおボクの中では余りにも鮮明で、それこそ目を瞑れば瞼の裏に浮かんできそうなほどだ。けれどあの場面でボクの中に芽生えた気持ちに、何と名前をつければいいものか……。
庇護欲か、哀愁か、それとも憐憫か。
違う、そんなものじゃない。そのどれとも明らかに違う。
いったいボクはあの時、何をもって大井川里美という人間と共に歩むという道を踏み出したのか……。
かなり長い沈黙があったのだと思うが、ボクが真剣に思い悩んでいることは伝わっていたのか、大塚さんも由美子さんも回答を急かすようなことはしなかった。
よくよく考えてみれば、里美は欠点だらけの人間だ。いや、よくよく考えなくてもそうだ。
世間の常識から大きく逸脱し、マイペースが過ぎて、止めとばかりにものすごく頭が悪い……。
こうやって並べ立ててみれば、なんであの人と付き合ってるんだろうかとまったく不思議になるくらいに。
だが一方でとても正義感が強く、意外と優しく、子供が好きで、そして何より……。
そう。ボクはあの夜、彼女の横顔を見ながら里美の本質を感じ取った。
きっとそれが……。そうだ。それこそがボクが憧れたもの……。
ボクは憧れたんだ。里美の本質に。
「……純粋なところです。多分」
静にBGMが流れるカフェの店内に、ボクが呟いた一言がゆっくりと溶けていく。向かいに座る二人から、ボクの言葉に対する反応はない。
「きっとボクはあの日、あの時、純粋さこそが人間の最も評価されるべき美点だと感じたんだと思います。それを備えている限り、他の欠点なんか取るに足らないと……」
恐らくそうなのだ。
誰かと付き合ったり、結婚したりということは、相手の長所を愛し、短所を容認するということに他ならない。長所も短所も一つもないという人間が存在し得ない以上、そこは避けて通れない。
きっと恋人を作るとか結婚するとかいう行為は、本人が意識するしないに関わらず、自分がどんな価値観を持つ人間なのかを示すことなのだ。数ある人間の美点の中から一つを選んで、これこそ最上のものと断じ、また無数の欠点を容認できるものとできないものに線引きする。
もしかしたら人間は、誰かを本気で好きに、もしくは嫌いになった時、初めて自分がどんな人間なのかを知ることになるんじゃないだろうか。
「ふーむ……」
突然目の前で聞こえた大塚さんの声に、ボクはハッとして顔を上げた。
「……ただのジゴロでもないというわけか」
大塚さんは脚と腕を組んでソファの背もたれに寄りかかり、難しい顔をしてそう呟いた。
……はい?
「ちゃんと里美のことを見て、真剣に向き合ってるんだな、キミは」
「今の、誉められたんですかね? ボク」
ボクは何となく釈然としない気分で、一人うんうんと頷く大塚さんに疑問を呈した。
「もちろん誉めたさ。そう聞こえなかったか?」
大塚さんは素知らぬ顔でボクの質問を受け流すが、「ただのジゴロ」じゃなくなっても、ボクから「ジゴロ」のレッテルは剥がれないらしい。むしろ「ただならぬジゴロ」になった分、余計に事態が悪くなった気がする。
「大塚さんは、今まで好きになった人はいなかったんですか?」
四苦八苦して、曲がりなりにも自分の気持ちを掘り返してみたボクは、ふとそのことが気になって訊いてみた。
大塚さんはその質問に口許を引き結び、じっとボクの目を見返してくる。
やっぱりこの質問はタブーっぽいか。
あまりの沈黙の長さにそう思った時、大塚さんがゆっくりと重い口を開いた。
「もちろんいたさ。ただ、私は里美みたいにひたむきに目指すものへ突き進めなかっただけだ」
大塚さんの答えに、何故だかものすごくホッとした。何やら色々と浮世離れしたこの人も、中身は普通の恋する乙女らしい。
「……つまり、告白する勇気が無かったのよね。結局」
由美子さんがムグムグとモンブランを噛み締めながら大塚さんをからかう。
「恭也君、あんまり女の子に人気があるタイプじゃなかったから、競争率もそんなに高くなさそうだったのに」
「恭也君?」
ボクは思ってもみなかったところから飛び出した情報に素早く食いついた。
「うん。いずみちゃんの中学校時代の同級生。大人しくて目立たないコだったけど、いずみちゃんずっと彼のこと好きだったのよ」
「由美子姉さん!」
慌てて由美子さんを制する大塚さんの目が、ボクのそれと合ったとたんに気まずそうな色を帯びる。
「き、競争率の問題じゃない。勇気の問題だ!」
それはよく分かる。
たとえその人を好きなのが自分一人だけだとしたって、想いを必ず受け入れてもらえるという保証になるワケじゃない。踏み出すか、回れ右をするか。大塚さんの言う通り、結局最後は勇気の問題だ。
ボクはクスッと笑って、大塚さんにもう一つだけ質問してみようと口を開いた。
「……今でも好きですか? 恭也さんっていう人のこと」
長い長い沈黙があった。最初の質問に対する答えが返ってくるときより長い沈黙が。
「……うん。どうだろうな」
大塚さんがボクの肩越しに遠い目をしながら寂しげに呟いた。
「中学校を卒業してから五年。今あいつに会っても、やはりあの時と同じ気持ちになるんだろうか……」
五年間。
何かが変わるには十分な時間だ。その「何か」には、大塚さんと恭也さんという人の外見が含まれていることは間違いない。
だが果たして気持ちはどうなんだろうか。中学生の頃、恭也さんに恋い焦がれた大塚さんの気持ちは。そしてその答えは大塚さん自身にも分からないことなのだという。
「けれど……」
大塚さんの遠かった目が、いつの間にか再びボクに焦点を合わせていた。
「……けれど、もしいつかどこかでまたあいつに会って、やはりあの頃と同じ気持ちになったとしたら、その時は今度こそひたすら突き進んでやる。もしあいつに彼女が居ようと関係ない。自分の想いをありったけぶつけてやるんだ」
そう言う大塚さんの目は、中学生どころか、初めて里美や内野先輩に会った頃の彩音ちゃんみたいにキラキラと輝いていた。
そして初めて見せるあどけない笑みを顔一杯に浮かべると、バチッと片目を瞑ってウインクしながら宣言した。
「キミを陥落させた里美みたいに、ありったけの想いをな」