そこに現れた人
翌日、六月十一日の土曜日、午前十時三十分。
ボクがその時どこに居たかというと、当初立てた計画の通り、自分の部屋で勉強に勤しんでいた。……と、そう言えれば良かったのだが、実際はそうじゃなかった。
本当のところ、ギリギリまで迷った。時間いっぱいまで、このまま出掛けずに一日過去問と参考書を相手に格闘しようと思っていた。
だいたいが内野先輩に一方的に言い渡されたこの話、よくよく考えればボクは一言も承諾の意思表示をしていない。しかもあの電話の後に送られてきた内野先輩からのメールには、万一お互いのことを発見できなかった時のためにと、誰なのかも告げられていない待ち合わせ相手の携帯番号が記されていたが、いざ実際に発信してみれば電源が入っていないとやらで連絡不能だった。
こんな理不尽かつ怪しげな話、もし無視したとしてもボクが非難される謂われがあるとはまったく思えない。
だがいよいよの瀬戸際になって、千葉駅で自分を待っているという人物に待ちぼうけを食わせることに対する罪悪感に押し潰され、結局ボクはいそいそと着替えた上に家を後にした。
そして今、ワラワラと人の行き交う千葉駅東口の改札前で、特定する術すら思い付かない待ち合わせ相手を、ただ宛てもなく待ちながら立ち尽くしているのだった。
こちらが相手を特定できない以上、ボクとしては向こうがこちらを発見し、声を掛けてくれるのを期待する以外の選択肢はないが、周囲を行き交う人達は皆、ボクになど露ほども関心を示さずに通り過ぎて行く。
スマホを取り出してディスプレイを確認すると、既に約束の時刻を十分ほど過ぎている。
周囲にはボクの他にも数人、待ち人を探しているらしくキョロキョロと辺りを見回している人達がいるが、その中にボクの見知った顔は含まれていなかった。
さて、どうするか。
この場面で考えられる選択肢はおおよそ三つだ。
①このままもう暫く待つ。
②内野先輩からのメールに記されていた番号にTELする。
③速やかに帰宅する。
自分の気持ち的には③が非常に魅力的だが、十分というのは待ち合わせにおける遅刻のレベルとしては誤差の範囲に含まれる。
この「誤差の範囲に含まれる遅刻時間」というのは人によってまちまちだろうが、高校時代に数十分単位の遅刻を連発していた稀代の遅刻魔を彼女に持つボクは、平均的な人達よりも相手の遅刻に対して寛容なのは間違いない。とは言え①の選択肢を採るのも、せっかくの自由な休日を潰してわざわざ出向いた身からすれば何となく腹立たしい気もする。
となれば残された選択肢は一つ、②か。
ボクは取り出したスマホを操作して内野先輩から知らされた番号を呼び出した。登録名は「名もなき怪物」。ちょっとヒドい気がしないでもないが、経緯が経緯だけに仕方がない。
発信キーを押すと、今度は電源が入っているらしく呼び出し音が聞こえ始めた。
三回、四回……。
五回目の呼び出し音が始まると同時に、相手が応答して人混みのざわめきらしき音がスマホから流れて来る。
「もしもし、陽輔クンだろう? 遅れてすまない。今、見えた。キミが見えた」
この聞き覚えのある声、もしかして……?
「ボクが見えた」という言葉に周囲を見回すと、改札の向こう側の人混みの中で必死に手を振る人がいるのが目に留まった。
女性だ。女性なのに、人混みに埋もれず顔が見えるかなりの長身。そして振られる手にリズムを合わせるように揺れるショートヘア。
あれはもしや……。
「……お、大塚さん?」
ボクは改札を通ってこちらに近づいてくる意外な人物に呆然としながらそう呟いた。
内野先輩からの呼び出しに応じて来てみた場所に現れたのが大塚さんだったことも意外だったが、もっと意外だったのは彼女の服装だった。
上半身は白地にボーダーの七分袖Tシャツ。それはいい。別に意外じゃない。問題なのは下半身だ。
ボクのところに駆け寄ってくる彼女が身に纏っているのは、紺の膝丈より少し短めのプリーツスカートだった。微妙に透ける生地で出来ているらしく、彼女が走る度にひらめく布地を通してうっすらと綺麗な脚がシルエットを浮かび上がらせている。上部の際どいところは、裏地に遮られて見えないのが何とも残念。
「すまない陽輔クン。かなり待たせたか?」
軽く息を弾ませた大塚さんは、まるで古い映画に出てくるような、恋人の元へ急いで駆けつけてきた乙女みたいに見えた。
うわ、何だこれ。
……綺麗だ。この人が綺麗なのは初めて会った時から分かっていたことだが、今日のスカート姿の魅力は、前回のパンツルックの魅力とはまた一味違う。
結局あれか。もともと高スペックの人は、何を着ても似合っちゃうってことなのか。
「大塚さん。あなただったんですか、内野先輩経由でボクを呼び出したのは」
そうか。里美に大塚さんを紹介したのはもともと内野先輩だ。この二人のラインに気づかなかったのは迂闊と言えば迂闊だった。
「ああ。この二日間、里美と一緒に旅行だと美佳子から聞いたんでな。いい機会だから義務を果たしてしまおうと思ったんだ。それで、美佳子にキミへの連絡を頼んだ」
大塚さんの言葉に、ボクははてとばかりに首を傾げた。今の説明、いまひとつボクの頭にピンとこない。
「……えっと。義務っていったい何のことですか?」
たとえ因果関係に思い至らずとも、ボクのそのセリフが大塚さんの機嫌を損ねたことだけは分かった。しかもかなり激しく損ねたことまで分かった。
大塚さんは眉間に皺を寄せて目を細めると、いきなりぐいっと容赦なくボクの耳を引っ張って顔を下に向かせる。そして反対の手で自分の穿いたスカートを摘まんで見せ、低い声で威嚇するように囁いた。
「……キミが見たいと言ったんだ」
「は、はい?」
ビックリするやら痛いやら、おまけに事情も分からないやらで、ボクの頭は完全にパニック状態だった。
「この前のビリヤード勝負、自分が勝ったら私のスカート姿が見たいと、キミ自身が言ったんだろう!」
「ああ!」
思い出した。確かにそんな賭けをしていた。
そして、ボク勝ってた。
つまり今日の大塚さんの格好は、その時の約束の履行? 義務を果たすってそういうことか。
「その反応、もしかして賭けのコト忘れてたか?」
大塚さんの声は低いままだ。
「私があれほど悩んで思いきって、一大決心をしてこんな格好したのに、もしかしてキミ忘れてたのか!?」
「す、すいません。すいません。あの賭け、てっきり勝負を盛り上げるための軽い冗談だと思ってて……!」
結構な数の人達が行き交う改札前で、ボクは大塚さんの怒りを鎮めようと悪戦苦闘した。
傍を通る人達にはちょっとした恋人どうしの痴話喧嘩にでも見えるのか、皆ニヤニヤと笑いながらボクらをチラリと一瞥して通り過ぎて行く。
「もういい。どのみち、こんな格好でこんな所まで来てしまったんだ。今日は少し付き合ってもらうからな」
そう一方的に宣言した大塚さんはやっとボクの左耳を解放すると、こちらにクルリと背を向けてロータリーの方へと歩き出した。




