陽輔、謎の召喚を受ける
金曜日。
金曜日の夕方。
一週間の中で、もっとも好きという人が多いであろう時間帯。
学生も社会人も、都合五日間にわたる各々の義務を果たし終え、明日からは待ちに待った二日間の休日。もし金曜日の夕方が好きじゃないという人がいたら、それはきっと土曜日から勤務が始まるというシフト制の仕事についている人だろう。
ところが意外や意外。土日が休みの平凡な高校生であるにも関わらず、金曜日の夕方があまり好きじゃない人間がここに一人。
このボク、棚橋陽輔は、実を言えば最近金曜日の夕方があまり好きじゃない。嫌いなワケじゃないが、好きじゃない。
理由は簡単。ここのところ、ある人物から土日の予定についての打診メールが必ず届くからだ。
その確率、実に百パーセント。
文字通り、必ず。
統計学的にも、必ず。
いや、この事象を語るに際しては、もはや統計学自体がその存在意義を失うと言っても過言じゃない。
「ある人物」とは、今さら語るまでもなく我が不肖の彼女、大井川里美その人である。この前、不意打ちで彩音ちゃんにボクを拐われてからというもの、週末の予定に関するブッキングが金曜午後に前倒しされるようになったというワケだ。
現在、金曜日の午後五時三十分少し前。ボクの経験上、もっとも先輩からのメール着信が多いのがこの時間帯だ。
部屋で志望大学の過去問に取り組んでいるボクも、脇に置いたスマホがいつ震え始めるかと気が気じゃない。予想通りメールが来れば「やっぱりか」と疲れがドッと押し寄せるし、何かの拍子で着信が遅れたりすると、それはそれで「何かあったのか」とかちょっと心配になってソワソワする。
ボクがチラチラと横目に見守る中、果たしてスマホのディスプレイが光を放ってメールの着信を知らせた。
「はあ……」
疲労を伴う諦念と安堵が複雑に入り交じった溜め息を漏らしつつ、ボクは机上のスマホを取り上げてメールの内容を確認した。
6月10日 17:24
From:大井川先輩
件名:今度の週末……
本文:すまん、陽輔。
今度の土日、みかっちに誘われて、
一年生の女子四人で群馬に一泊温泉
旅行に行かなきゃならない。
愛しい私がいなくて寂しいだろうが
泣かないで我慢しててくれ。何かお
みやげ買って帰るから。
PS.私の留守中、彩音と兄妹以上
の仲になったらコロス。
何だ、この色々と的外れな上に物騒なメールは。寂しくて泣くとか、彩音ちゃんと兄妹以上の仲になるとか、よくもまあそこまで想像力を逞しくできるもんだ。
それにしてもこの週末、先輩がいないということは二日間完全フリーということか。
ふと思い返してみるに、そんな贅沢な週末が訪れるなんていったい何ヵ月ぶりのことだろうか。これはこの二日間、さぞかし勉強の方も捗ることだろう。
いい。これはスゴくいい。
しかし、メールの返信には余計なことは書かず、当たり障りのない無難な内容で返そう。留守中に彩音ちゃんと浮気してやるとか、そんな冗談で下手に刺激したりすると、旅行の予定自体をキャンセルしたりしかねないのがあの人だ。そんな凡ミスでこの貴重な天祐を無駄にはできない。
6月10日 17:31
件名:Re:今度の週末……
本文:それは楽しそうだね。気を付けて行
ってきて。
ボクは二日間ゆっくり受験勉強して
るから。
PS.今回は胆試しは絶対禁止だよ。
注意深く文面を校閲してからメールを送信すると、ボクはほうっ、と息を吐き出してスマホを机の上に置いた。
これで明日、明後日の二日間、ボクは時間をまるまる自由に使えるというワケだ。
ああ、自由って素晴らしい。
ボクが悦に入って精神的抑圧からの解放を内心慶賀していると、机の上でスマホが再び震動する。
なあに。ボク、何かマズイこと書いた?
そんなことを考えながらスマホに手を伸ばすと、ディスプレイに意外な人物の名前が表示されているのに気づいた。
“内野先輩”
内野先輩……? しかもこの着信、メールじゃなくて通話だ。内野先輩は時々大井川先輩がらみの用件でメールを送ってくることはあるが、直接電話をかけてくるというのは珍しい。
「もしもし?」
「あ、もしも~し。ヨーちゃん、私。あなたの美佳子だよ~」
開口一番、昭和のアイドルみたいなフレーズが耳を打つ。
「内野先輩。メールじゃなくて電話をくれるなんて、今日はまたずいぶん珍しいですね」
「たまにはメールじゃなくて、ヨーちゃんの声聞かないとねー。ところでヨーちゃん……」
内野先輩特有のポワポワ声が、急に少しあらたまった調子に変わった。
「……明日のご予定は? 何か、もう用事入っちゃってる?」
うん? 何だこの違和感は。
「……いや、別に。この土日は里美が旅行でいないんで、鬼の居ぬ間に洗濯、……勉強しようと思いまして」
そう。その旅行に大井川先輩を誘ったのは他ならぬあなただと聞いてますが、内野先輩。そのあなたが、なぜ自分達がいない間のボクのスケジュールを訊ねるんでしょうか。
ところが内野先輩はそのボクの疑問を解消する情報をくれる前に、こちらが予想していなかった部分に食いついてきた。
「……よ、ヨーちゃん。今……」
電話の向こうから聞こえる内野先輩の声が細かく震えている。
「……今、さっちゃんのことを『里美』って……!」
そう言われて初めて自分で気づいた。
あの壮絶追いかけっこの日に初めて先輩を「里美」と呼んで以来、二人きりの時にはいつもその呼び方をしてきた。その癖が今、ひょっこり内野先輩を相手に顔を出してしまったらしい。
「ヨーちゃんとさっちゃん、いつの間にそんなコトに? やらしい、やらしい~!!!」
「ちょっと待ってくださいよ、内野先輩。今、どこかやらしいところありました?」
スマホの向こうで僅かな沈黙。
「……できちゃったの?」
「はい……?」
「…………失敗しちゃったの?」
「いったい何の話ですか!?」
内野先輩の声が一言ごとにエスカレートしていく。
「それでもう、さっちゃんの亭主気取りなのね!? そうなのね、ヨーちゃん!!!?」
「ストップ、ストップ、ストーーーップ!!!」
もういいや。内野先輩の抱いた疑惑と、言わんとするところは何となく推測がついた。
「いや、内野先輩。そんなんじゃないですから。ホント違いますから」
ボクはゲンナリしながら鼻息荒い先輩に弁解する。
「ちょっとしたきっかけというか、転機というか……。そんなことがちょっと前にありまして」
ボクの具体性に欠ける言い訳じみた説明に、再びスマホの向こうで沈黙が降りる。
「ふ~~~ん?」
ややあって、納得していないような、拗ねたような、何とも微妙な内野先輩の声が聞こえた。
「……まあいいや。それについては今度ゆっくり聞かせてもらうことにしよう」
内野先輩の声が低い。まあいいやと言いつつ、詮議はあらためて実施されるらしい。コワい。
「それより、本題を忘れるところだった。明日予定がないんだったら、朝十時間半に千葉駅東口改札にゴーだよ、ヨーちゃん」
その言葉に、さっきの違和感が再び頭をもたげる。
「内野先輩、明日は里美と一緒に群馬行くんでしょ。何でボクをそんなところに呼び出すんです?」
電話の向こうで、内野先輩がクスリと笑う気配があった。
「うん、私はさっちゃん達と旅行だよ。明日そこでヨーちゃんを待ってるのは私じゃなくて、別の人」
……何だって? いつものことだが、今回も何やらトラブル臭がする。ボクは当然の疑惑を、当然のように内野先輩に投げ掛けた。
「内野先輩。その人、いったい誰なんです? 何でその人が直接連絡してこないんです?」
「明日、十時半に待ち合わせ場所に行けば分かるよ。その時までのお楽しみの方が面白いでしょ。それにその人、ヨーちゃんの連絡先知らないから私がTELしたの」
どうやら内野先輩、明日ボクを待っている人の名前をここで明かす気はないらしい。
いったい誰だ。ボクと内野先輩の共通の知人だが、ボクが連絡先を教えていない人物……。
「あ。万一の時のために、その人のケー番を後でメールしておくね。……ではでは、おみやげ楽しみにしててね~」
そう一方的に言いきる内野先輩の言葉を最後に、通話が唐突にブチッと途切れる。
「……あ! ちょっと、内野先輩……!?」
ツーッ、ツーッという空しい電子音を発する自分の手の中のスマホを、ボクは呆然としながらただだだ見つめた。