敗北の味、夢の味
「おっと、動くな。お前のカワイイ彩音がお嫁に行けないカラダになるぞ?」
口を開きかけて二人の方に一歩踏み出したボクを牽制するように、先輩が彩音ちゃんのブラウスの襟元に右手を滑り込ませながらニヤリと笑った。羽交い締めにされながら胸元に手を差し込まれた彩音ちゃんの方は「ひっ!」と声にならない声を漏らす。
まったくこの人、公衆の面前でちょっと度が過ぎる。
「もし本当にそんなことになったら、ボクが責任を取って彩音ちゃんをお嫁にもらわなきゃならないんだけど……」
呆れたボクのその言葉に、Hテロリストと人質の双方が同時に目を丸くした。
「それは困る!!!」
「それイイ! すっごくイイ!!!」
……何だろう。この絶妙な利害関係の噛み合いは?
「さあ大井川さん、カモン! ドゥー・イット・ナァ~ウ!!!」
彩音ちゃんが、着ているブラウスの前を自らはだけかねない様子で先輩に訴える。
「バカか彩音! そんなことしたらお前の思うツボだろうが!?」
そう言いつつも、先輩は先輩で自分の次の一手が見えずにオタオタしていた。
「だからこそじゃあないですか! さあ、エ〇ジャの赤石付き石〇面を被ったカー〇に紫外線照射装置を使って、図らずも彼の究極生物への道を拓いてしまったシュ〇ロハイムのように、今こそ私の陽ニィの妻としての道をその手で拓いて下さい!」
うん。やっぱり彩音ちゃん、なんだかんだ言って少年バトルマンガがキライじゃないみたいだ。
「あうう、そんなバカなぁ……。彩音を人質に取ったつもりが、逆にこちらが窮地に立たされるなんてぇ……」
涙ながらにそう呟いた先輩が、力なく項垂れながら彩音ちゃんから腕をほどいた。
「ちょっと、大井川さん。肝心な時に使えませんねえ……」
開放された人質が、ホッとするどころか何故か不満げな口振りで言い放つ。
「何だと彩音! いっそ陽輔の前で一人前のオンナにしてやろうか!?」
「や、やれるものならやってみろ! 私と陽ニィの愛はそんなことくらいじゃビクともしないんだからぁ! それに、それこそ私の思うツボ!!!」
一度は手を放した先輩が、再び彩音ちゃんを優しいしぐさで抱きすくめながら叫ぶ一方、負けじと言い返す彩音ちゃんの方も本気で束縛を振り払おうとしているようには見えない。
うん。やっぱり何だかんだ言いながらこの二人仲がいい。
不意に降りた沈黙を振り払おうとするみたいに、先輩が彩音ちゃんを抱きすくめたまま黙って右手をジーンズのポケットに差し入れた。そして身体の向きを変え、彩音ちゃんを自分との間に挟むようにしてクレーンゲームの前に立つ。その様子はまるで、休日を妹と仲良く一緒に過ごす姉みたいだ。
「見てろ」
ボクにじゃない。彩音ちゃんに言ったんだ、今のは。
先輩はポケットから取り出した二枚のコインをスロットに投入すると、まったく躊躇することなく二つのクレーン操作ボタンを立て続けに押した。
彩音ちゃんが食い入るように見つめる中クレーンがL字に動き、傾いたクッションの上でピタリと制止する。そしてするするとアームを伸ばしたクレーンはクッションの端を摘まみ上げてさらに傾け、他のクッションが作る傾斜の上をシュートに向かって転がした。
ええ、何それ。どんな神業?
「うそ……」
あまりに鮮やかな先輩の手並みに、彩音ちゃんが惚けたような顔でボーゼンと呟く。
「ホレ」
先輩は何食わぬ顔で景品取り出し口からクッションを引っ張り出すと、彩音ちゃんに向かってズイと突き付けた。
彩音ちゃんは受け取るべきかどうか推し測るようにじっと先輩を見つめている。
「彩音」
先輩がクッションを差し出す格好のまま厳かに口を開いた。
「今日のところは陽輔は貸しておいてやる。一日ゆっくり、兄妹水入らずで楽しんでこい」
その先輩の言葉に、彩音ちゃんの眉がピクンと跳ねた。
「違うもん! 兄妹じゃないもん、恋人どうしだもん!!!」
キャンキャンと反論する彩音ちゃんの様子にフッ、と苦笑を漏らすと、先輩は改めてクッションを差し出す。
彩音ちゃんはクッションと先輩の顔を交互に見比べていたが、ほんの少しの躊躇いの後、差し出されたクッションにそっと手を伸ばした。
「…………ありがと……」
ボソリとそう呟くと、彩音ちゃんが受け取ったクッションを胸に抱き締めて顔を埋める。
今の感謝の言葉はクッションの件に向けられたものなのか、はたまた今日のボクとの同行を認められたことに対するものなのか、ボクにはいま一つ判然としなかった。
そんな彩音ちゃんの様子に一瞥をくれると、先輩は閲兵を受けている兵士みたいなきびきびした動作で踵を返す。そしてボクの顔を見もせずに唐突に口を開いた。
「陽輔……」
「なあに?」
ボクは先輩の背中に向かって柔らかく問いかけた。
「自分の彼女を一日ほっぽらかしにした埋め合わせは、いずれ必ずしてもらうからな」
先輩のその様子とセリフに、ボクは思わずニヤリと苦笑を漏らす。彩音ちゃんに対し、恋のライバルではなく恋人の家族として接しようと決めても、今日彼女に奪われたボクと過ごす時間の帳尻合わせはやはり譲れないらしい。
「イエッサー、ボス」
ちょっとおどけたボクの言葉にフンッと鼻を鳴らすと、先輩は振り向きもせずに出口に向かって大股で歩き出した。途中ポケットから取り出したスマホをちゃちゃっと操作して耳にあてると、呼び出した相手に不機嫌な声で話し始める。
「あー、みかっちか? 彩音に陽輔を強奪されてヒマになった。これから出てこられないか……」
内野先輩に不幸の訪れを告げる声が、ゲーム機の前に立ち尽くすボクと彩音ちゃんから遠ざかって行く。それはそう、まるで夏の夕立が過ぎ去った後、遠くの空でいつまでも鳴り響く雷鳴によく似たイメージだった。
入場開始時間ピッタリにシアターに入ったボクと彩音ちゃんは、お互い一言も交わさず二人並んで座りながら映画の上映開始を待っていた。
二人の席の間の肘掛けにセットされたトレーには、Lサイズのキャラメル・ポップコーンと二つのドリンクが載せられているが、どれもまだ一度も手をつけられていない。
先輩が立ち去ってからこっち、彩音ちゃんの表情は終始冴えないままだった。ボクが何とか彼女の気分を盛り上げようと話しかけても、彩音ちゃんは時おり生返事をするだけでほとんど反応を返してくれない。
ボクがこの重苦しい雰囲気を何とか打開しようとあれこれ戦略を練っていると、膝の上のタヌキクッションに視線を落としたままの彩音ちゃんの口から不意に囁きが漏れた。
「悔しい……」
「……え?」
「悔しいよ」
彩音ちゃんは顔を伏せたまま、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「頑張って大井川さんと張り合ってみたけど、やっぱり陽ニィを取り返せなかった……」
言葉の途中から彩音ちゃんの声が震え始め、彼女の膝の上のクッションに一粒二粒、小さな水滴が落ちてゆっくりと水色の布地に染み込んでいった。
「彩音ちゃん……」
思わず彼女の肩に手を伸ばしかけるが、今まで見たことのない彩音ちゃんの様子にボクの手はただ宙を泳ぐ。
「あんなに自信たっぷりに『二人水入らずで楽しんでこい』なんて言われたら、どうしたって敗けを認めないわけにいかないよね」
そうなのだ。
今日の先輩の雰囲気の変化。ボクと彩音ちゃんが従兄妹、兄妹以上の関係に進展することはないと確信したあの余裕ある態度が、鋭い彩音ちゃんに伝わらないはずはない。果たしてその変化を感じ取った彩音ちゃんは、その意味するところを正確に理解したのだ。
「ねえ陽ニィ、ホントに覚えてない?」
やっと顔を上げた彩音ちゃんが、涙が溢れ続ける両目をボクに向ける。
「さっきの『お返し』のこと?」
なるべくさりげなく見えるよう、そっと彩音ちゃんの頬に手を伸ばして彼女の涙を拭うが、意に反してボクの指はガクガクとみっともないほどに震えていた。
「うん。陽ニィ、私が幼稚園の頃に映画に連れて行ってくれたことあったでしょ? 二人きりで」
ボクの頭の中に、唐突にパステルカラーに染まった小さな頃の記憶が膨らみ始める。
「あれ? 確かに……。プ〇キュア……? 見に行ったよね。……二人だけで」
断片的に、だけど急激に一枚の絵を形作っていく記憶を追って、ボクは辿々しく言葉を紡いだ。
「うん。連れて行ってくれる約束だったお父さんが急に出張になって、タダをこねてた私を陽ニィが連れて行ってくれたの。私のお父さんお母さんや、叔父さん達にも黙って」
そう言われて、頭の中のパステルカラーの絵が急激に完成する。ボク、何でこんなことを忘れてたんだろう。
夏休み、お父さんに連れて行ってもらえると楽しみにしていた映画の予定が、晋也叔父さんの緊急出張で中止になってギャン泣きしていた彩音ちゃんを見かねたボクは、両親や叔父さん達にも黙って彼女を映画館に連れて行ったのだ。
小さな子供二人、映画館で咎められなかったのも奇跡みたいなものだが、さすがにその奇跡も帰宅後までは続かなかった。彩音ちゃんはともかく、当時小学三年生になっていたボクは、オロオロする彩香叔母さんの前で両親にこってり油を絞られた。両親の叱責の後、涙を必死にこらえるボクに、彩音ちゃんと彩香叔母さんは何度もお礼を言ってくれたけれど。
なるほど。今日のタイトルチョイスは、その時に対する彩音ちゃんなりの「お返し」というわけだ。
「あの頃は、私だけの陽ニィだったのになぁ……」
そう呟く彩音ちゃんの寂しそうな顔に、ボクの胸はチクチクと痛んだ。
けれど、彩音ちゃんの前にもきっといつか素敵な男の子が現れる。ボクなんかよりずっと素敵な男の子が。
そして彼女が本当の恋をし、結婚し、お母さんになった時、ボクとの想い出は彼女の中で何色に蘇るのだろうか。
けれど、それを今この時口にすることは、きっと彩音ちゃんを傷つける。その問いは、然るべき時までボクの胸にしまっておこう。
そんなことを考えながら彩音ちゃんの手をそっと握った時、照明が落ちてスクリーンの幕がゆっくりと開いた。




