そして、再開する(色んなことが)
今度は彩音ちゃんよりボクの反応の方が早かった。
ボクは彩音ちゃんの手をひっ掴むと、自動ドアに向かって猪みたいに突進する。ちなみにボクの干支は亥。
「逃がすか!」
背後から聞こえる先輩の叫び声と階段を駆け下りる足音。
僅かに開いたドアの隙間から彩音ちゃんを押し出すと、ボクも身体をほぼ真横にしながらギリギリの幅をすり抜けた。そのまま通りに飛び出し、ボクらは千葉中央駅の方向に向かって全力疾走する。
僅かに後方からは、カモシカのように軽やかな先輩の足音が離れずにピタリとついてきていた。
ダメだ。先輩に対するアドバンテージを稼ぐつもりだったのに、目論見が裏目に出たせいで返って追いつめられた。
先輩との距離にあまりにも余裕がなさ過ぎて、次の手立てを考える暇すらない。隣を走る彩音ちゃんの息遣いも激しく乱れていて、このままでは先輩を振り切るのはまず無理だ。
さすがに諦念の情が頭を過った時、千葉中央駅の西側ロータリーに停まった一台のタクシーがボクの目に映った。
それを見たボクの頭に、一秒の四分の一で最後に残された可能性が閃く。
「彩音ちゃん、お金は持ってる?」
ボクの問いかけに、全力疾走で息も切れ切れの彩音ちゃんはただ黙って頷いて見せた。
それを確認したボクはこちらも頷き返し、体力温存のために必要最低限の言葉だけを彩音ちゃんに伝える。
「ベイ・ハーバー・シティのシネコン前で」
それだけ彩音ちゃんの耳元に囁きかけると、ボクは開いたタクシーの左側後部ドアに彩音ちゃんを押し込んだ。
「陽ニィ!?」
彩音ちゃんがそう戸惑ったような声で言ったような気がしたが、次の瞬間後ろから襟を掴まれて引き戻されたショックでよく聞き取れなかった。
「運転手さん、出して下さい!」
今度の彩音ちゃんの声と、その後に続いたドアの閉じる音ははっきり確認できる。
彩音ちゃんを乗せたタクシーがロータリーを離れて走り出すのを見届けた直後、後ろから先輩の細い腕に右腕と首元をホールドされた。
「捕まえたぞ、陽輔。彩音と一緒になってお前までなんだ。私からエスケープとは深刻な裏切り行為だぞ、これは」
唸りとも囁きともつかない先輩の低い声とともに、ボクを束縛する腕にジワジワと力が加わっていく。
「こうして捕らえられたからには覚悟を決めてもらおうか」
先輩の声がちょっと嬉しそうな響きを帯びてきた。こうして無事ボクのことを捕らえたし、このあとどんなお仕置きでボクをいたぶろうかと、きっと楽しい妄想を展開中なんだろう。
さてと。先輩にいずれお仕置きされるのはまあ仕方ないとしても、今はダメだ。今は彩音ちゃんが楽しんでいる、このエスケープ・ゲームの続行が最優先課題。
ボクは自由な左腕を上げて見せ、抵抗する意思がないことを先輩に示した。
そのゼスチャーに、ボクの首に回った腕に込められた力は次第に緩んでいくが、右手に対する戒めだけは解かれないままだ。
「彩音はどこにやった、陽輔?」
「さあ、どこでしょう」
上目遣いでなされた先輩の質問に、ボクはそっと小首をかしげてトボケてみせる。
「ふん。どのみちお前の身柄はこっちにあるんだ。彩音が今さらどんなに足掻いてもどうにもならん」
先輩が唇を尖らせながら拗ねたように呟いた。
「まあ、それはその通りですね。なので、ボクとしては何とかこの捕らわれの状況を打開して彩音ちゃんのところに向かわないと……」
ボクのその言葉を聞いたとたん、先輩の目がキッと吊り上がる。
「なんでだ? なんでそんなに彩音の味方ばかりする!?」
その言葉と同時に、ボクの右手を掴む先輩の手に力がぎゅっと込もった。
自分で言うのも何だが、その時ボクは自分の置かれた状況をかなり冷静、かつ正確に把握していたと思う。
謂わば、この場面はある種の「正念場」だった。彩音ちゃんという存在がボクにとってどういう意味を持つのか、先輩にきちんと理解してもらうための。そしてその成否は、この後のボクと先輩の関係にもきっと大きな影響を及ぼす。
「味方……ですか?」
「そうだ。彩音の言いなりになって私から逃げ回るなんて、向こうの味方だってことだろう」
ここに至って、先輩の両目がウルッと潤んだ。
これはいよいよ本当に正念場だぞ。
「そもそも、その先輩VS彩音ちゃんっていう図式が間違いなんですよ」
ボクは自分の腕を握る先輩の手を逆に握り返す。
「先輩。あなたはボクの何なんですか?」
迂闊なことに、何気ないこの自分の言葉に秘められた意味を、ボクは口に出してから初めて自覚した。それは、ボクと先輩が互いに今まで触れてこなかった二人の関係の定義。
案の定、そのボクの質問に対する先輩の答えもそう簡単には返ってこない。ボクに握られた手を強ばらせ、真っ赤な顔でモゴモゴと口ごもっている。
「……そ、そんなこと……」
先輩が言いにくそうにしているのを見て取りながらも、ボクはじっと我慢強く先輩の言葉を待った。たとえ自明のことではあっても、……いや、自明のことだからこそこれは先輩の口から言ってもらわなくてはならない。
「……か、彼女に……決まってるだろう」
蚊が鳴くような声でそう言った先輩が、プクッと頬を膨らませながらソッポを向く。
「そうでしょ?」
やっと期待した答えが返ってきたことにホッとして、ボクは先輩に気づかれないようにそっと安堵の溜め息をついた。
「じゃあ、彩音ちゃんは?」
ここだ、核心は。「ボクから見た彩音ちゃん」を先輩が正しく認識してくれているのかどうか。
「だから従妹だろう。何を今さら分かりきったことを……」
キッとボクを睨んでそう言いながらも、先輩の表情はどこか自信なさげだ。きっと表面上は分かりきったこの質問に裏があることには気付きつつも、それを読みきれずに不安になっているんだ。
では、その不安を一つづつ段階を追って解消して行くことにしよう。
「違います」
ボクはニッコリ笑いながら、そっと首を横に振って見せた。
ボクの答えに、先輩が不審げに眉をひそめる。
「……先輩。彩音ちゃんはね、ボクの妹なんですよ」
先輩の眉間の皺がさらに深くなった。
「ボクと彩音ちゃんは二人とも一人っ子ですからね。昔から本当の兄妹みたいに育ちました。彩音ちゃんが今でもボクにベッタリなのはそのせいなんです」
ボクは握った先輩の手を引っ張り、キョトンとした自分の彼女を腕の中に引き寄せた。
「ねえ里美、ボクに『彼女か妹か?』なんて選択をさせるの?」
抱き寄せられたことに驚いたのか、それとも「里美」と呼ばれたことの方なのか、目を真ん丸にした先輩がボクの顔を見上げる。
「彩音ちゃん、今日のこの里美との追いかけっこ、意外と楽しんでるみたいだよ」
そう言って、ボクは先輩の唇に自分の唇を重ねた。意外なことに、先輩は抵抗どころか驚いた素振りすら見せず、そっとボクの身体を抱き締めてくる。
その先輩の反応で、ボクは自分の目的が正しく果たされたことを理解した。
きっと先輩はボクと彩音ちゃんの距離感を掴んだことで、彩音ちゃんに対する自分の正しい立ち位置をも把握できたのだ。
「さあ、ゲーム再開」
そっと唇を離したボクは、目を潤ませた自分の彼女にそう囁いた。
「里美。ボクら兄妹をもう一度捕まえにきて」
立ち尽くす先輩にそう言い残して、ボクは駅の東側に向かって走り始めた。