逃避行は続く
「もうやだ! なんで大井川さんあんなにカンがいいの!?」
必死にボクの隣を並走しながら、彩音ちゃんが先輩に対する驚きと畏怖の入り混じった評価を口走る。
「なんか昔、こんな映画あったよね陽ニィ。主人公が逃げても逃げても、未来から来たロボットがしつこく追いかけてくる話」
ああ、確かにあったねぇ、そんなの。去年はリブートの新作も公開してた気がするな……。
「え、えへへ……」
こんな状況なのに、なぜか突然彩音ちゃんが途切れ途切れの笑いを漏らした。思わず目を向ければ、顔までがニヘッと場違いに緩んでいる。
どうしたんだろう彩音ちゃん。恐怖のあまりに錯乱してるのか?
「なんか、映画観てるよりこっちの方が面白いかも……」
「?」
こう言っちゃなんだが、彩音ちゃんが何を言ってるのかちょっと分からない。
あの怒れる女豹に追われるこのシチュエーションのどこに「面白い」要素があるというのか? もし捕まったら、膾におろされそうなイキオイだというのに。
彩音ちゃんはボクの手を取って、線路を潜る高架下へと進路を変える。そして反対側に出ると、再び方向を変えて線路の脇に沿って走り始めた。
「なんか……、なんか…………」
あまりの緊迫感に変なスイッチが入ったのか、彩音ちゃんのクスクス笑いが止まらない。
「……なんかこれ、まるで陽ニィと二人で映画の主人公になったみたーい!」
隣に並んで必死に走る四つ年下の従妹の叫びを耳にした時、なぜだかそれがこれ以上ないほどストンと腹落ちしてしまった。いや。より正確に言えば、その彩音ちゃんの感性がカチッと正確にボクのどこかに嵌まったと言った方が当たっている。
それを実感したとたん、ボクは彩音ちゃんにつられてプッと吹き出していた。
確かによくよく考えてみれば、今追ってきているのはボクの彼女である先輩であって殺人マシーンじゃない。捕まればそれなりにリスクはあるだろうが、別に命まで取られるワケじゃなし。……いや。ボクは分からないケド、少なくとも彩音ちゃんは。
そんな条件の中、先輩の猛追をかわして見事ボクと二人で映画を観るというミッション達成なるか? というスリリングな駆け引き。
しかもこれはゲームやパソコンのディスプレイの中の出来事じゃない。見て、触って、走って息を切らす。紛れもない現実世界の出来事だ。
この今の状況にバランスよく配合されたリスク、リターンと、それがもたらす絶妙な緊迫感に思わず笑いを誘われる彩音ちゃんの心理は実によく理解できる。
「この調子じゃあ、映画を観るのはまだ無理だね。上映が始まるのを待ってる間に、ロビーで大井川さんに捕まっちゃいそう」
背後を振り返って先輩の姿がないのを確認した彩音ちゃんが、少し走るスピードを落としながら息を切らして言った。
「そうだね。どこか落ち着ける場所で時間を稼がないと……」
ボクはいったん足を止めて周りをキョロキョロと見回す。
そんなボクの目に飛び込んできたのは、見慣れたボウリング場の古めかしい建物。
「よし」
息を整えながらそう呟くと、ボクは彩音ちゃんを促して入口の自動ドアをくぐった。
このボウリング場には、二回ほど大井川先輩と一緒に来ている。
一度目は内野先輩と三人でのボウリング大会の時。そして二回目は、この間の大塚さんとのビリヤード勝負の時だった。
あれだけ正確にボク達の跡を追ってくる先輩のこと、ボクと一緒に来たことのあるこの場所にも必ず捜索の手を伸ばすはず。
ここで追跡してくる先輩をやり過ごして時間を稼ぎ、あわよくば正確にこちらの居所を嗅ぎ付ける彼女の野生のカンをも狂わせられれば言うことなしだ。
まあ、必死に追いすがってくる先輩を撒くのはちょっと胸が痛まないでもないが、この際、四六時中ボクにベッタリしたがる先輩のクセを矯正するいい機会と捉えよう。この追いかけっこで振り回したことに対する埋め合わせはいずれすることとして、だ。
このボウリング場は一階の入口を入るとすぐに比較的小さなフロアがあり、その奥に受付やレーンがある二階へと続く階段がある。
ボクが今日このボウリング場に入った目的はもちろんボウリングをプレイすることではなく、この一階にあるフロアに設置されたゲームコーナーだった。
ゲームコーナーはフロアのほぼ半分の面積を占めていて、入口の自動ドアから二階への階段へ向かう人はもれなくここの前を通過しなくてはならない。
ボクはゲームコーナーをざっと見渡して一番大きなクレーンゲームの筐体を選ぶと、彩音ちゃんを連れて入り口から死角になる側に回り込んだ。幸いこのクレーンゲームは全面ガラス張りのタイプではないので、陰に潜めば反対側から姿を見透かされる心配はない。
「陽ニィ。こんなところに隠れてどうするの?」
ボクにピッタリと身体を寄せた彩音ちゃんが、声を圧し殺してボクに尋ねた。
「ここでなんとか先輩を撒こう」
ボクの狙いはここに隠れて先輩が目の前を通過するのをやり過ごし、彼女が二階へ上がっていくのを確認してからそっとこのボウリング場を去ることだった。
「だけど大井川さん、ホントにここまで追っかけてくるかな?」
彩音ちゃんが小首をかしげて、そう疑問を呈した。
「来る。絶対に来る」
ボクは百二十パーセントの確信をもって断言する。
ボクらが選んだ逃走ルートの方向と過去の履歴。それらを複合的に考え併せれば、このボウリング場は必ず先輩のアンテナに引っ掛かる。まして先輩の目には、彩音ちゃんがボクの手を引いて高架下を潜るところまでは映っていたはずだ。
これだけの材料が揃っていて、先輩がここに姿を現さないはずがない。
このゲームセンターはボウリングやビリヤードの空き待ちの時間潰しが主な目的のせいか、普段から遊んでいる人をほとんど見かけたことがなかった。今この時も、いるのはクレーンゲームの陰に隠れるボクと彩音ちゃんの二人だけだ。
各種のゲーム機から時おり流れるBGMだけが静かに響く中、ボクと彩音ちゃんはじっと黙って、妙に目に痛いショッキングピンクの筐体に身を潜めていた。
実際にはおそらく一分か二分。長くても三分は経っていなかったはずだ。けれど体感的には十分ほどとも思える時間が経過した頃、入口のガラス張りの自動ドアが作動するモーター音が聞こえた。
全身を緊張させながらそちらを窺うと、果たして開きかけた自動ドアのガラスの向こうに見間違えようのない先輩の姿が透けて見える。
「来た……」
ボクは蚊の羽音ほどの囁き声と、ほんの少しだけ加えた彩音ちゃんの手を握る力で先輩の襲来を知らせた。返事はなかったが、背後で彩音ちゃんも身体を硬ばらせたことで、ボクの警告が伝わったことは理解できる。
まだ完全に開き切らないドアの隙間を身を捩らせながら通り抜けた先輩は、ズカズカと大股でフロアを横切って奥の階段に向かう。顔の表情も「あいつら絶対にふん縛ってやる」みたいな決意がみなぎっていてコワい。
ゲームコーナーの前を通過する時、先輩が一瞬こちらにチラリと目を向けたが、ボクらに気付いた様子もなくそのままの歩調で通り過ぎて行った。
階段を上って行く先輩の姿が完全に見えなくなったのを確認して、ボクと彩音ちゃんはそっとクレーンゲームの陰から出てフロアの中央に移動する。
「ホントに来たね、大井川さん」
そう言う彩音ちゃんの声がちょっと震えていた。
返事をしようと口を開きかけた時、彩音ちゃんの目線がボクの顔から肩越しにボクの背後に移った。次の瞬間、その目が限界近くまで大きく見開かれる。
「ああ、来たさ」
背後から聞こえる、地獄の門番のような低い声。
振り返ればいつの間に引き返してきたのか、踊場の手前最上段にゆったりと腰を下ろした大井川先輩がこちらを見下ろしていた。