里美、追跡開始
二人ともしばらく一言も話さず、ただ静かに流れるジャズに耳を傾けていると、マスターの奥さんがオーダーしたモーニングセットを運んできてくれた。
「うわぁ……」
彩音ちゃんが思わず声を漏らすのも無理ないと思えるほど、運ばれてきた料理はとても美味しそうだった。
ストロベリーとブルーベリー、二種類のジャムとバターが添えられた、こんがりと焼きあがったトースト。瑞々しい各種の野菜がたっぷりと盛りつけられたサラダ。ボクのホカホカと湯気を上げるプレーン・オムレツはほんのりバターの香りを漂わせているし、脇には三枚のカリカリに焼かれたベーコンと、肉汁で弾けそうなドイツ製ソーセージが二本添えられている。
彩音ちゃんの前に並べられた目玉焼きも塩と粗挽き胡椒で味付けはしてあるが、好みで加えられるように小さなココットに入った濃厚そうな茶色のソースが付いていた。
「ドリンクとトーストはお代わり自由だから、欲しい時は言ってちょうだいね」
ホットコーヒーとオレンジジュースをテーブルに置きながら、奥さんがボクらに声をかけた。
なんと。ドリンクのみならずトーストまでお代わり自由とは、なんていい店なんだ。
「じゃあ食べようか」
「うん。いただきま~す!」
ボクと彩音ちゃんは、自分の前に並べられた皿にそれぞれ手を伸ばす。
おお。見た目の期待を裏切らず、とても美味しい。
「う~ん! このブルーベリージャム、すっごく美味しい~!」
むぐむぐとトーストを頬張る彩音ちゃんも満足そうだ。
「そのジャムはね、うちの妻の手製なんだよ」
カウンターの向こうから、マスターが嬉しそうに彩音ちゃんに話しかける。
「え、そうなんですか!? 奥さんすっごーい!」
「あの、トーストお代わりいいですか?」
いつもボクはトーストはバターオンリーだが、そんな話を聞いたら二枚目のトーストをジャムで味わってみないワケにはいかない。
そんな和やかな雰囲気の中で美味しい朝食に舌鼓を打っていると、突然彩音ちゃんがポケットに手を突っ込んでボクのスマホを取り出した。
小刻みに震えるスマホのディスプレイを一瞥した彼女は、ニヤリと笑って何やらポチポチと操作しはじめる。
今度からはちゃんとスマホにパスワードをかけとこう。
「彩音ちゃん、どうしたの?」
あらためて訊くまでもなさそうだが、一応確認してみた。
「大井川さんからメール来てたよ。……はい、返信っと!」
ああ、返信までしたの? あんまり内容は知りたくないケド……。
「先輩、何だって?」
この質問もまた、あらためて訊くまでもなさそうだ。
ボクの問い掛けに、彩音ちゃんが大井川先輩のメールが表示されたディスプレイをこちらに向けて見せる。
5月15日 9:38
From:大井川先輩
件名:今日の予定
本文:陽輔おはよう!
今日は映画を見に行かないか? お
もしろいのやってるらしいぞ。
あまりにも予想通りの内容だ。大井川先輩といい彩音ちゃんといい、ボクが受験生だということを完全に忘れてるに違いない。
「それで……、なんて返信したの?」
あまり知りたくはないが、来るべき災厄に備えるには不可欠な情報だろうしな。
心から嬉しそうに満面の笑みを浮かべると、彩音ちゃんはまるで自分のものみたいに慣れた手つきでスマホをちゃちゃっと操作した。
5月15日 9:42
件名:Re:今日の予定
本文:ああ、映画ですか。そういうのもあ
るんですね~。
じゃあ今日は陽ニィと二人で映画に
行ってきます。
恋人どうし水入らずで♡
彩音
文面を半分も読み終わらないうちに、自分の顔からサーッと血の気が引くのを感じた。
これはきっと血の雨が降る……。
彩音ちゃんにせめて警告だけはしておこうと口を開きかけたとたん、再び彼女の手の中でスマホが震え始めた。この振動のリズム、メールじゃなくて通話の着信だ。
ああ、ついに来るべきものが来たというわけか。
「はいは~い。こちら彩音ですよー」
もはやディスプレイを確認することすらせず、歌うような軽やかさで彩音ちゃんが応答する。
“………。……………!”
固唾を飲んでスマホの受話口から漏れ聞こえてくる先輩らしき声に耳を澄ますが、さすがに内容を把握できるほど鮮明には聞き取れない。
「はい、もう陽ニィと二人で出掛けてますよ。今とぉ~ってもおいしい朝食を二人きりで食べてます」
“……こに……ん…。い………ぎ………し………やる…!”
先輩の声のボリュームが上がってきたせいか、所々が少し聞き取れるようになってきた。
「えー。どこにいるかなんて言えるワケないじゃないですかぁ。言ったら大井川さん、どうせ今すぐすっ飛んでくるつもりなんでしょ?」
彩音ちゃんはそこで言葉を切ると、なぜかボクのことをチラリと見る。
「陽ニィ、そっちのオムレツも美味しそう。一口ちょうだい?」
「え、ああうん。いいよ?」
咄嗟に彩音ちゃんの真意を掴みそこねたボクは、馬鹿正直にストレートな回答を選択した。
ニコッと笑った彩音ちゃんが、フォークでオムレツを一切れ切り取って口に運ぶ。
「うう~ん! このオムレツ、フワフワのトロットロ~♪」
ああ、分かった。これは電話の向こうの先輩に対する「ラブラブアピール」だ。
「陽ニィ、お返しに私の目玉焼き一口あげる。はい、あ~ん」
「はい、あ~ん」の部分を不自然なまでに強調しながら、彩音ちゃんがフォークに乗せた半熟の黄身を差し出してくる。
ダメだ。これはダメだ。
このフォークに乗っているものは、口にしたが最後間違いなくボクを破滅に導く。
ボクは泣きそうになりながら小さな子供みたいにイヤイヤをするが、ボクの躊躇いを見てとった彩音ちゃんがオッカナイ顔で容赦なくボクを睨み付けた。
ああもう。前門の狼、後門の虎か。
この場合、この場にいない虎の方は差し当たり忘れて、まず目の前の狼に対処するのが正解なんだろうか。
覚悟を決めたボクは、震える口をそっと開いて彩音ちゃんが差し出すフォークを受け入れた。
モグモグと口を動かすボクに、彩音ちゃんが「ね~。このソース、とっても美味しいでしょ?」と不必要なまでに大きな声で同意を求める。
いや、そう言われてももう味がよく分かりません。
“よ……け……! ……らどう……か…………って…ん……あぁ!!!”
虎さんの方も、そう簡単には自分の存在を忘れさせてくれないらしい。相変わらず音が遠くて聞き取れないのに、矛先がボクの方に向いたことだけは何となく分かった。
二年も付き合ってると、こういうトコロは以心伝心だなぁ。あんまり嬉しくないケド……。
「まあそういうことなんで、陽ニィは今日一日彩音が預かります。大井川さんは部屋でゆっくぅ~りしてて下さい」
彩音ちゃんは勝ち誇ったようにスマホの向こうの先輩に話しかけるが、一瞬その顔に不安そうな翳りが差した。
「……ふん。GPSも切ってあるのに、私達のいるトコロなんて分かるワケないじゃないですか! そんな負け惜しみを言ってるヒマがあったら、内野さんに電話して暇潰しの相談でもしたらどうですか?」
通話をブチッと切った彩音ちゃんに、ボクは「最後、先輩なんて言ってたの?」とビクビクしながら尋ねた。
「『よし、これからそっちに行く。陽輔はお前には絶対渡さん』だって」
彩音ちゃんは、そんな見え見えの脅しになんか屈しないとばかりにふんっと鼻を鳴らしながらスマホをしまうが、ボクの方はまるで猟師に追い立てられるキツネみたいな気分になっていた。
「彩音ちゃん……」
「……なあに、陽ニィ。そんな真っ青な顔して」
「先輩、来るよ」
「……え?」
彩音ちゃんが首をくいっとかしげた。
「先輩の野生のカンを侮っちゃいけない。必ずボク達の居場所をつきとめて追ってくるよ」
ボクはゴクリと唾を飲み込みながら、掠れた声でそう宣言する。
その時ボクの脳裏には、ドアを蹴破らんばかりの勢いでアパートから飛び出す先輩の姿が浮かんでいた。
……先輩、戸締まりは忘れずにして下さい。




