彩音、作戦開始
「陽ニィ、早く早く!」
彩音ちゃんがボクの手をグイグイと引きながら駅に向かう道を早足に歩く。
「彩音ちゃん、そんな引っ張らないでよ。いったいどこに行くのさ?」
ちょっと息を弾ませながらそう尋ねるボクに対し、元気一杯の彩音ちゃんがバシッと言い切る。
「まだ決めてない!」
え、決めてないの!? 駅に向かってるのに行き先を決めてないの!?
「別に行き先はどこでもイイの。大井川さんがいないトコならどこでもイイの!」
遡って三十分前、日曜の朝八時半過ぎ。
グッスリと眠りこけているところに、突然ボクの部屋のドアが慌ただしくノックされた。
「陽ニィ、起きて起きて! ウェイクアップハリー、ライトナァーウ!!!」
ドンドコとドアを叩く音に彩音ちゃんのカタコト英語が加わる。
なんだなんだ? 何の騒ぎだこれは?
モヤが晴れきらない頭をガシガシかきながらベットから起き上がり、部屋のドアを開いた。
次の瞬間、弾丸みたいな勢いで部屋に飛び込んできた彩音ちゃんがベットの枕元にあったボクのスマホを引ったくる。
「これでよしっと」
彩音ちゃんが手の中のスマホを見つめながらニヤリと笑った。
一方まったく状況を理解できていないボクは、ドアのノブに手をかけたままボーッとその場に立ち尽くしていた。
「おはよう、彩音ちゃん」
状況が分からない以上はまず挨拶。親しき仲にも礼儀あり。
「陽ニィ、おはよ」
いきなり叩き起こした理由を説明する気はさらさらないらしく、彩音ちゃんは部屋のカーテンを開けながら早口で捲し立てた。
「さあ陽ニィ、急いで顔洗って。出掛けるよ!」
「出掛けるって、……どこへ?」
「いいから早く!」
有無を言わせぬ気迫。思わず部屋を飛び出して洗面所に駆け込んだ。
顔を洗い、歯を磨き始めた頃合いでようやく意識がハッキリしてくる。
いったい何が起きてるんだ、これは?
何か彩音ちゃんとの約束があっただろうかと海馬の記憶域をあちこち掘り返すが、ヒットした該当項目はゼロ件。
「彩音ちゃん。今日って何か予定あったっけ?」
洗面所を出たボクは、居間のソファーに腰掛けた彩音ちゃんに尋ねた。脳内検索エンジンの不具合という可能性も考慮してごく控え目に。
そんなボクの質問に対し、彩音ちゃんはキョトンとした顔で即答する。
「え、別に予定は何もないよ?」
そうですか。別に予定はありませんか。
「えー。ではなぜ私めは日曜の朝早くに叩き起こされておりますのでしょうか?」
「だって陽ニィ、放っておくとすぐに大井川さんに呼び出されてどっか行っちゃうじゃない!」
ぷくっと頬を膨らませた彩音ちゃんが、いかにも不服げに人差し指を突きつけてきた。
「だから今日は先手を取ってやるの。大井川さんの魔の手が伸びる前に、サクッと陽ニィを拉致して」
彩音ちゃんの拗ねたような表情が一転、抜け目のない不敵な笑いに変わる。
それにしても彩音ちゃん「拉致」って……。どっちかって言うと彩音ちゃんの手管の方が「魔の手」っぽいんですけど。
「だけど彩音ちゃん。そんなコトしたら先輩からひっきりなしに電話やメールが……」
「フフフ……」
ゴクリと唾を飲み込んだボクに、彩音ちゃんが低い声で笑って見せた。
「なので、今日はコレは彩音が預かります!!!」
そう叫んで彩音ちゃんが高々と掲げたのは、さっきボクのベットから引ったくられた我がスマホ。
「ちなみにGPS機能はすでにオフに切り替え済み!」
いや。手際が良過ぎだよ、彩音ちゃん!
「これでもし大井川さんが連絡してきても、応答するのは陽ニィじゃなくてこの彩音。ウフフ、大井川さんの悔しがる顔が見えないのが残念~」
悪い顔してる時の彩音ちゃんって、ちょっとコワイなぁ~。
とにもかくにも、そんな経緯で彩音ちゃんに拉致されたボクは、今まさに手を引かれながら駅に向かって歩いているワケだった。
「陽ニィ、そう言えば朝ごはんまだ食べてなかったね」
最寄り駅の目の前まで来たところで、ボクの手を引いていた彩音ちゃんが急に振り返った。
そうですね。叩き起こされるなり、洗面と着替えが辛うじて許されただけで速攻連れ出されましたからね。
「このあたりで何か食べて行かない?」
「いいよ。何が食べたい?」
ボクの質問に彩音ちゃんはキョロキョロと辺りを見回す。
駅前だけあってこの時間でも営業している飲食店はけっこうあるが、お気に召す店がないのか、それとも目移りがするのか、彩音ちゃんはなかなかメニューを決められないみたいだ。
「うーん。朝からあんまり重いモノは食べたくないしなぁ……」
彩音ちゃんのその呟きを耳にして、ボクはあることをふと思い出した。
そういえばあの店、この時間からやってるかなぁ。
「彩音ちゃん」
ボクはマックの朝メニューをガラス越しに覗き込んでいた彼女の手を取って、数十メートル先の細い路地に足を向ける。
「陽ニィ……?」
戸惑ったような声を出しながらも、手を引かれるままにおとなしくついて来る彩音ちゃん。それどころか、掴んだボクの手を躊躇する気配もなくキュッと握り返してきた。
お互い小さかった頃のクセで思わず手を握ってしまったものの、そんなにしっかり握り返されると変に意識してしまう。
路地から一つ角を曲がり、さっきの大通りと平行に走るやや広い道に出ると、ほどなく目当ての看板が目に入ってきた。
「陽ニィ、どこ行くの?」
「ここ」
彩音ちゃんの質問に、道端に置かれた小さな看板を指しながら答えた。
“B・Dog”
黒地の看板には白い筆記体でそう書かれている。
いつだったか、友達に誘われて入ったことのある個人経営の喫茶店だ。外食産業に押し寄せるチェーン店化の波の中、こういう店はなかなかに貴重な存在だと思う。店構えも昭和のレトロな雰囲気が漂っていていい感じだ。
ドアを見ると、掛けられたプレートは「OPEN」と書かれた側が表になっていた。
「よかった。やってた」
黒光りのする木製のドアを開けて店内に入ると、齢七十前後と思しき白髪のマスターが「いらっしゃい」と穏やかな笑顔で迎えてくれる。
店内にはボックス席が三つとスツールが四つ据えられたカウンター。日曜の午前九時過ぎというコトもあって、他に客の姿はない。
入口から一番遠いボックス席に座ったボクらに、マスターの奥さんらしき女性が水の入ったグラスとおしぼりを持ってきてくれた。そのおしぼりが昨今横行している使い捨てのペーパータイプではなく、昔ながらの黄色い布製なのがまた泣かせる。
「あの……。モーニングセットってありますか?」
猫の足跡がデザインされた白いエプロン姿の奥さんに、ボクはオドオドしながらそう尋ねた。
「ええ、あるわよ。卵は目玉焼き、スクランブル、オムレツから選べるけれど……」
「はいはーい、私、目玉焼きがいい~!」
彩音ちゃんが小学生みたいに元気に手を上げる。
「はいはい。お兄ちゃんの方は?」
ニッコリ笑いながら女性がボクの方に目を向けた。
「えっと、ボクはオムレ……」
「違います! お兄ちゃんじゃなくて彼氏です!」
ボクのオーダーを遮って、彩音ちゃんが必要性のまったく感じられない主張をする。しかも必要性云々以前に捏造だった。
「あら、ごめんなさい。彼氏さんはオムレツでよかった?」
彩音ちゃんの無意味なアピールにも優しく反応するマスターの奥さん。いい人だ。
「二人とも、ドリンクは何にします?」
「オレンジジュース下さい!」
「ボクはホットコーヒーで……」
笑ったまま黙って頷くと、マスターの奥さんはカウンターの中へ戻って行った。
「ここ、素敵なお店だね、陽ニィ。こんなトコ知ってるなんてスゴい」
彩音ちゃんが店内をキョロキョロ見回しながら嘆息を漏らす。
「来たのはまだ二回目だよ。前に学校の友達に連れて来られたんだ」
「うむむ……。確かに『地元の人しか知らない隠れた名店』って感じだね」
二人の会話とカチャカチャという食器の触れ合う音だけが聞こえる店内に、突然クラシック・ジャズの曲が静かに流れ始めた。
「わぁ、素敵……」
彩音ちゃんが内緒話みたいに囁く。
朝早くから無理矢理引きずり回されて始まった日曜日だったが、こうして目をキラキラさせる彩音ちゃんを見ると、たまにはこういうのも悪くないと思ってしまう。
それにしてもほんと、この店「大人の隠れ家」って感じがして素敵だ。




