大塚いずみはちょっとホッとしている
現在のゲームカウント、一対ゼロ。
五対三のハンデがあるため、ボクはあと二ゲーム、一方の大塚さんにはまるまる五ゲームのノルマが残っている。
ボクは手球をさっきと同じ位置にセットした後、ふと気になってダイヤモンド形に組まれた九個のカラーボールに歩み寄った。
一ゲーム目はボク自身が組んだラックだったが、今度は大塚さんが組んだラックだ。この後は基本的に前のゲームで負けた方がラックを組み、勝った方がブレイクをするため、ボクも大塚さんも自身が組んだラックでブレイクをすることはない。
九番を真ん中に据えて組まれたダイヤモンド形のラックは整然として、ボールの間にはどこにも不自然な隙間はない。それどころか、ボールを並べる順番までが几帳面に整えられている。
ルール上はナインボールのラックを組む時に位置を指定されているのは一番と九番の二つだけで、その他のボールは適当に並べる人が多い。
だけど大塚さんが組んだこのラック、九番を例外として、文字を横書きにする要領で一番から八番まできちんと順番どおりに並べられている。
大塚さんって、多分おそろしく几帳面な性格してるんだな。こりゃあきっと……。
「別に変な小細工はしてないぞ」
あんまりジロジロとラックを見つめていたせいか、大塚さんが呆れたような調子で溜め息をついた。
「あ、いえ……」
しまった。感じ悪かったか、今のボク。
「そうじゃなくて。大塚さんの将来の旦那さん、きっと大変だろうなあって……」
「はあ?」
大塚さんが腰に両手を当て、片方の眉を吊り上げる。
「それはあれか。不幸な男を作らないために、私は永久に結婚しない方がいいと言っているのか、キミは?」
そう大塚さんに不機嫌そうな顔で言われたボクはギョッとして、ブンブンと勢いよく首を横に振った。
ゴメンナサイ。確かに今の言い回しの方が感じ悪かったですよね。
だけど、基本的に大方の男って女性よりだらしないんですよ。なので、スゴク几帳面な奥さんを持った旦那さんにかかるプレッシャーたるや、ちょっと想像を絶するモノがあるんですよ。うちの両親を見てると分かるんですけど。
「ち、違うんです。ボクはただ、大塚さんってすごく几帳面だなって言いたかったダケなんです」
うん。今の言い訳、さっきの将来の旦那さんのくだりと一見まったく繋がりがないな。これじゃあ大塚さんの誤解も……。
「まあいい。とにかくゲームを続けろ、陽輔クン」
大塚さんが先輩の隣にドサリと腰を下ろす。
あれ。今ので意味通じた?
「ただし、今の話は今度あらためて聞かせてもらうからな」
一オクターブ下がった大塚さんの声でそう宣告された。
やっぱりダメだった。しかも「今度」っていつなんだろう?
大塚さんがなめらかなストロークで六番をサイドポケットに落とす。手球はまるで超能力で操られたように八番を狙うのにぴったりの位置に止まった。
四番を外したボクに代わって撞き始めた大塚さんはほぼテーブルの全長にわたる長さのショットを決め、さらにコーナーポケット脇の五番を難なく沈めていた。
七番は既にブレイクの時に落ちているので、次の的球は八番だ。
大塚さんがピシッと鋭くキューを繰り出すと、矢のように走る手球が八番を勢いよく弾いてポケットに叩き込み、自身はその場でピタリと静止する。その位置は正確に右コーナーポケットと九番を結ぶ延長線上。
うまい。大塚さん、かなりの上級者だ。
だけど、五対三のハンデではどう足掻いても届かないというほどボクと差があるとは思わない。
さっき大塚さんは、自分が撞くところを見たこともないのに五対三のハンデを呑んでいいのかとボクに訊いた。だが実のところは彼女、先輩に教えている時に二、三回、手本を見せるためにボクが見ている前で球を撞いていた。本人はほとんど意識していなかったためか覚えていないみたいだけど。
大塚さんがいたわるように優しく撞いた九番がポトリとポケットに落ちると、ボクはソファーから立ち上がってテーブルに向かい、次のゲームのために九個のボールをラックした。
「これで一対一だ、陽輔クン」
プレッシャーを掛けるような口ぶりでそう告げる大塚さんの細められた目つきが、なぜだかちょっとセクシーに感じて思わず目を伏せる。
「そ、そうですね」
ゴニョゴニョと口ごもりながらテーブルを離れたボクは、ソファーに戻って先輩の脇にストンと腰を下ろした。
ブレイクのために上半身をテーブルに倒した大塚さんがクスッと笑うのが耳に入ったが、彼女は多分ボクの今の反応の理由を誤解している。大塚さん、ボクが今さらながらに技量の差を感じて落ち込んでると思っているに違いない。
全身を使った数回の練習ストロークに続いて、大塚さんが力いっぱい手球をラックに叩きつけた。陶器のマグカップをアスファルトに叩きつけたような甲高い音がフロアに鳴り響く。
ゴトン、ゴトンとボールがポケットに落ちる音が二回聞こえて、大塚さんが再びテーブル上に身体を倒した。
彼女がキューを繰り出すたびに少し遅れて手球と的球がぶつかるカチリという音がし、その後的球がポトリとポケットに落ちる音が聞こえる。
わざわざ立ち上がって目で見守るまでもない。大塚さんがショットすれば、彼女の視線が追うその先で必ずボールがポケットに落ちる音がした。
そんな誰もしゃべらない静かな時間がしばらく続いた後、大塚さんの「おっと」という少し困惑気味の声がした。
見ればアゴに手をあてた大塚さんがテーブル上を見渡して何やら思案げな顔をしている。やがてフットクッション側に歩み寄った彼女は、身体を倒してゆったりとキューを繰り出した。
カチリ、という二つの球がぶつかる音がした後、上半身を起こした大塚さんがボクに向かってニコリと笑いかけた。
「おまたせ。キミの番だ、陽輔クン」
その言葉に立ち上がってテーブルを見渡したボクは、我知らず盛大な溜め息をついた。
次の的球である八番はヘッドクッションから十センチほど離れた位置にあり、手球は逆にフットクッションにぴったりと密着している。それだけならまだしも、手球と八番の間には進路を塞ぐように九番が鎮座していた。
セーフティ・プレイだ。
自分がボールをポケットすることを目的とせず、相手が撞きにくい配置を残して主導権を維持する防御策。
ボクはざっとテーブル上を見渡し、手球を転がすラインをざっと頭の中に思い描いた。
手球と八番を結ぶ直線が九番に遮られている以上、八番に手球を当てるにはワンクッションさせるしかない。球がクッションに当たって跳ね返る角度は、球に回転が掛かっていない限りは鏡に反射する光のように入射角と同じになる。
ボクは静かに息を吐き出すと、左側のロングクッション、サイドポケットよりやや向こう側に向かって構えをとった。手球がクッションに密着しているせいで狙いがつけにくい。
手球にヒネリを入れないよう、慎重に中心を狙ってキューを撞き出す。
勢いよく飛び出した手球は狙い通りの場所でクッションに当たって跳ね返り、そのまま真っ直ぐ八番に向かって走って行った。
カキッ、という澄んだ音と共に二つの球がぶつかり、八番がヘッドクッションに跳ね返って反対側に向かう。
だが予想外だったのは手球の方の動きだった。狙いでは勢いを殺してヘッドクッション側で止めるつもりだったのに、八番への当たりが薄かったせいで勢いが削がれず、ゆっくりとした動きでフットクッション側に戻って来てしまう。
結局のところテーブルの下半分、直径六十センチほどの円に納まりそうな範囲内に、手球と八番、九番の三つの球がすべて集まってしまった。
大塚さんはボクに代わってゆっくりとテーブルに近づき、八番、九番と難なくポケットに沈めていった。
「さあ。これで二対一だぞ、陽輔クン」
クルリとこちらを振り向いた大塚さんの心底嬉しそうな顔が眩しかった。
ああ。やっぱり大塚さん、どうしてもスカート姿はイヤなんだなぁ。