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大井川里美は疑っている

 大塚さんの鷹のように鋭い目に射すくめられてちょっとひるんだボクだが、よくよく考えれば新たなリスクを背負ったワケでも何でもない。

 ただゲームの相手が先輩から大塚さんに変わったダケで、勝っても負けても先輩を「里美」と呼ばなければならないという火種が存在することにはなんら代わりはないんだから。

「了解しました。それでイイです」

 せめて大塚さんに一矢報いる可能性が残っているなら、ここは喜んで勝負に乗ってみるが吉。

「プッ!」

 ついさっきまでの厳しい顔つきもどこへやら、何がツボに入ったのか大塚さんが突然吹き出した。口元を押さえながらボクを盗み見るその目は、まるで子供みたいにイタズラっぽい光を放っている。

「まったくキミってヤツは。突然油断のならない話を持ち出したかと思えば、今度はうって変わって小さな子供みたいな無警戒ぶりだな?」

 咄嗟とっさには何を言われているのか分からなかった。ただ大塚さんのちょっと意地悪な目の色で、気づくべきだった何かを見落としたらしいという可能性にはうっすらと思い至る。

「キミ、ハンデは五対三で構わないのかい? 私はキミが撞くところを見ているから、ある程度力量ははかれたつもりだ。だけどキミは私が球を撞くところを見たことがないだろう。二ゲームのハンデで自分に勝ち目があるのかないのか、キミはちゃんと把握できてるのかな?」

 ああ、そういうことか。

 別にこのゲーム、どうしても大塚さんに勝って彼女のスカート姿を見たいワケじゃない。ただ少しでも手こずらせて、その条件が実現するんじゃないかというプレッシャーを感じさせたいだけだ。

 それにもう一つ、実は大塚さんが気づいていない、というより忘れていることがある。

「別に構わないです。五対三のハンデでやりましょう」

 躊躇ためらわずにそう言いきったボクを、大塚さんは目を丸くしながら見つめた。そして「その意気やよし」と小さく呟くと、レールから取り上げたチョークをティップに塗り始める。

「じゃあもう一つハンデだ。ブレイクはキミにあげるよ」

 大塚さんはボクにそう宣言すると、先輩に向き直って声をかけた。

「里美、すまないがここは私に譲ってくれ。まずは私と陽輔クンのゲームを見てイメージを掴むといい」

「あ……はい」

 まさしく晴天の霹靂へきれき。事態の急展開について行けていない先輩が呆けたように答えた。

「じゃあ始めよう……」

 その時ボクに向けられた大塚さんの微笑は、威圧的なようにも憐れみを含んだようにも見える、何とも表現しがたい不思議な微笑だった。

「……ブレイクしたまえ」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 ボクは手球を手に取ってテーブルのヘッドクッション側に立つと、ヘッドスポットから僅かに手前、二十センチほど左側にそっとセットした。

 ボクはナインボールをプレイする時、ほとんどの場合はこの位置からブレイクをする。根拠はないが、経験上一番よく球が散るような気がするのだ。相手が変に隙間の空いたラックの組み方をしていたりすると、ラックのまるまる半分近くが散らずに残ったりする危険があるが、このラックはボク自身が組んだものだからきっと問題ない。

 ボクは数回ストロークを試すと、スウッと息を吸い込みながらキューを大きく引き、手球の下側を撞いて思いきりラックに叩きつけた。

 散々(ちりぢり)になったラックから、まずは二番、四番が勢いよくポケットに飛び込む。手球はラックにぶつかった瞬間、ごくわずかな間静止したように見えたが、突然目に見えない糸で引っ張られたようにすごいスピードで左手前に戻った。

 二回、三回とクッションしながらテーブルを一周する手球が、次々にせわしなく他のボールとぶつかり合う。手球とぶつかってコースを変えた七番が、更に九番に当たってその進路を変えた。

 九番が向かう先は……、フット側の右コーナーポケット。

 一番と五番が立て続けに九番の進路を横切るが、辛うじて接触せずに九番はそのままポケットに向かう。

 手前でやや減速したが、十分な勢いを残したまま九番はポケットに到達してそのままポトリと落ちた。


 サービスエースだ。


 ナインボールは基本的に、一番から九番までの球を番号の小さい順に落として行くゲームだ。

 球をポケットできれば自分がプレイを続行でき、ポケットできなかったりファールを犯した場合は相手にプレイ権が移る。

 重要なのは、ナインボールでは一番から八番までの球はいくらポケットしても勝敗にはまったく関係しないということだ。

 ナインボールにおける勝利条件はただ一つ、九番をポケットすること。つまり一番から八番までの球をいくらスイスイと片付けても、肝心の九番を外して相手に取られたらそのゲームを失う。

 ただしゲームの途中、ルールに則って行われたプレイによりポケットに落ちた球は、たとえ偶然であっても有効と見なされプレイの続行が認められる。

 ルールに則ったプレイというのは、

 1、テーブル上の最小番号の球に最初に手球を当てる。

 2、キューティップ以外の部分を球に触れさせない。

 3、手球をポケットに落としたり、球をテーブルの外に弾き出したりしない。

 4、両足を床から離してショットしない。

 などの条件を満たしたプレイのことだ。

 つまりこれらの条件を満たしている限り、最初のブレイクでも九番のポケットは認められ、たった一撃でそのゲームを獲得できるというワケだ。

「サービスエースか」

 大塚さんがテーブル上に残った球をキューで器用にフット側に集める。見る限り、表情に焦りの色はまだ見えない。

 レール上のチョークを手にしてティップに塗るボクのお尻を、ソファーに腰掛けた先輩がツンツンとつついた。

「今のはどうなったんだ、陽輔?」

 そうか。先輩、ナインボールのルール自体をまだよく知らないんだ。

 ボクは先輩の脇に腰掛けると、ナインボールのルールをかいつまんで説明した。

「……つまりこの場合、ルールに則って九番を落としたボクが一ゲーム目を取ったワケです」

「ふーん? じゃあ陽輔はあと二ゲーム取れば勝ちなのか?」

 くりっと首をかしげた先輩がボクの顔を覗き込む。

「はい。大塚さんはあと五ゲーム取らなきゃなりませんけど」

 そこでなぜか先輩がすっと目を細めた。

「よかったな陽輔。あこがれの大塚先輩のスカート姿が一歩近づいたワケだ」

 氷の欠片かけらみたいに冷ややかな先輩のセリフに、思わず背筋がゾクッとする。

「せ、先輩。ボク、本気で大塚さんのスカート姿が見たいワケじゃないですからね? ただ、そう言われた大塚さんが慌てるのを見たかったダケっていうか……」

「ふ~ん?」

 ボクの必死の言い訳にも、先輩はジト目でボクを見据えたままだ。

「よし」

 木枠ラックを器用に一回転させながら大塚さんがテーブルから身体を起こす。


「準備完了だ。二ゲーム目、行ってみようか」

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