大井川里美、再び
痛い。身体中が痛い。
腕と言わず脚と言わず、とにかく全身もれなく痛い。ボクのこれまでの人生で最大規模の筋肉痛。
三月のとある日曜日、ボクは学生向けアパートの一室でぐったりと横たわっていた。
周りには梱包された段ボール箱が山と積まれ、床に寝転がった状態からは四方の壁も見えないほどだ。
昨日はこの段ボール箱の山を部屋に運び込む手伝いを仰せつかり、今日は今日で開梱と部屋の片付けのためにここへ召喚されていた。
「陽輔?」
ボクを召喚した張本人、一つ年上の先輩である大井川里美さんが、段ボールの山の隙間から顔を覗かせる。
この人、今ボクがいる部屋の主にして、他ならぬボクの彼女でもある。
一言で言うなら、見た目美人の天然・おバカ・規格外人物。この人に関する形容に、他の言葉は必要なし。
いったいどんな魔術を駆使したのか、ここから徒歩五~六分のところにある私立大学にシレッと潜り込んで、来る四月からはそこへ通うことになっていた。
先輩が現役で入れたなんて、あの大学の今年の入試は不合格者0だったんじゃないだろうか?
「お昼ごはん、どうする?」
なにやら歯切れの悪いアンケートが実施される。
当面の食材は、昨日ボクと先輩のお父さんによって運び込まれた冷蔵庫に格納済みのはず。
「もう何でもイイです。先輩におまかせしますよ」
実際、今のボクは疲労と筋肉痛で食欲どころじゃなかった。昼食のメニューにあれこれ注文をつける気はまったくない。人間の食べ物でありさえすれば。
「そ、外に食べに行くか?」
先輩の言葉に違和感を感じる。
「どうしたんです? 昨日スーパーに行って色々買ってきたじゃないですか」
ホント、昨日の二人きりの買い物は新婚夫婦みたいで照れ臭かったんですからね。せっかくの苦労をムダにしないで下さいよ。
だが先輩はボクの言葉にも、ただモジモジと身をよじらせるだけだった。
「じ、自信がないんだ……」
「はい?」
「料理をする……自信がないんだ」
そのセリフにギョッとして、思わずキッチンの流しに目をやる。今気づいたが、そこにはカップラーメンの空き容器と割り箸が……。
「先輩?」
無意識に声が低くなる。
「な…………、なんだ?」
「もしかしてあなた、自分で料理は……?」
先輩の目が泳ぐ。フヨフヨ、フヨフヨ、金魚の如くに泳ぎまくる。
「で……」
「で……?」
「でっきなーいもぉーーーーーん」
思わず先輩のオデコにズビシ、っと縦チョップを入れる。
「にゃあぁぁぁ! なにをする、陽輔ぇ!」
「なにをするじゃないでしょ!? 先輩、これからここで一人暮らしするんでしょ!!? 料理できなかったら飢え死にするでしょお!!!?」
ボクがゾッとしながら必死で言い聞かせているにも関わらず、当の本人は至って呑気そのものだ。
「大丈夫だ。人間、水だけでも一月は生きられるらしいぞ?」
「ほう? それを実地に試すって言うんですね? 自分の生命を賭けて、その説を証明しようって言うんですね!? 挫折しないで下さいね!!? 初志貫徹して下さいね!!!? 絶対ですからねぇ!!!!?」
「ひい! ゴメンなさいゴメンなさい! やっぱりムリですぅ!!!」
先輩が涙目になってプルプル震える。
うむ、本日の躾成功。先輩に対しては、定期的にタガを閉めておかないと大変なコトになる。
……だけどおかしい。
ふと思い返して、ボクの持っている情報と先輩の証言の食い違いに気づく。
「でも先輩たしか、花火大会の日に自分で作ったお料理持って来てましたよね。『私だって料理くらいするぞ』とか言って、ずいぶん威張ってたじゃないですか」
そう。二年前の夏、忘れもしないボクが先輩に鎖で繋がれたあの花火大会の夜、先輩はお重に詰めた手作りの料理を持参していた。先輩が料理をできないなんてことはないはずだ。
「あれが全部だ」
先輩がニッコリ笑顔で悪びれもせずに言う。
「全部?」
「そうだ。あれが私の作れる料理の全部なんだ」
そう言われてボクは必死に記憶の糸を手繰った。あの時、お重には何が入っていたっけ?
……卵焼き、筑前煮、きんぴらゴボウ、里芋の煮っ転がし、鶏肉ときゅうりの和え物、あとは……ひじき煮か。
おおう。
それなりに手のかかるお惣菜ばっかりだから、きっと料理全般いけるんだろうと油断していたが……。あの六品目が先輩の作れる料理のフルラインナップだって?
「母さんに作り方を習ったのはあの六種類だけだったからな」
なんとも困った。
六品目の調理法を他の料理で試すという応用力を先輩に期待する。それがいかに無茶な要求かというのはすぐに納得できてしまう。
たしかに一年三百六十五日、あの六品目だけで生きて行くのはちょっとムリだ。
「先輩。そんな致命的なスキル不足が分かりきってるのに、なんで一人暮らししようなんて気を起こしたんです?」
そうなのだ。
先輩の実家から大学までは、各駅停車を使ってもたった三駅。充分に通学圏内で、わざわざ一人暮らしをする必要自体がそもそもない。
「だって……」
また先輩の目が泳ぐ。右に左に目まぐるしく、まるでサメから逃げ惑うイワシの如くに泳ぎまくる。
「だってその方が、陽輔とらぶらぶできる時間が増えるじゃないかぁ!」
「………………え?」
いいの? そんな理由でいいの? だからこんな、ボクの家から徒歩二分のアパートに越して来たの?
「先輩のご両親、よくそんな理由で一人暮らしを許してくれましたね……」
もはや飽きれを通り越して、おののきに近いものがボクの背中を走った。
「何がだ? 全然問題なかったぞ」
先輩がキョトンと首をかしげる。
「父さんも母さんも、『お前は棚橋君に逃げられたら将来絶望なんだから、どんな手を使ってでも絶対に逃がすな』って言っていたしな」
ちょっと怖い! ホント怖い! 家族ぐるみで外濠埋めるとか、ホントすっごく怖い!
「……すいません。ボク、今から全力で逃げて構いませんかね?」
「前に言わなかったか? 陽輔が逃げたら全力で取り押さえるぞ? なんならついでに押し倒すぞ?」
穏やかな笑みと低い声で先輩に宣言された。しかもなんか不穏なワンフレーズ付いた。
「……柔術を使っても、ですよね」
そう、この人護身術でお祖父さんに柔術を習っていてやたら強いのだ。
「というわけで、今日の昼食は外で食べよう」
「ダメですよ」
ボクは溜め息をつきながら立ち上がった。
「そんなことしてたら、いつまでたっても自炊できるようにならないじゃないですか」
冷蔵庫を開けて材料を物色しながら、昼食のメニューを見繕う。
鶏肉と卵で親子丼、味噌汁はネギとお豆腐でいいか。栄養バランスを考えて、トマトとレタスのサラダを添えよう。
「それに外食ばっかりしてたら、あっという間に仕送りが底ついちゃいますよ?」
「その時はバイトをするから大丈夫だ」
「先輩、今までいくつバイトをクビになったか覚えてます?」
喉元過ぎれば、が座右の銘らしい我が彼女に釘を刺しつつ、ボクはお米を研ぎ始めた。
「もしかして今日のお昼、陽輔が作るのか?」
先輩がビックリしたような顔でボクの手元を覗き込む。
「ボク鍵っ子だったから、そこそこ料理はできるんです。先輩もちゃんと見て、自分で料理できるようになって下さいよ」
そんなボクのお説教もどこ吹く風で、先輩はウキウキした顔をしながら飛んでもないコトを言い出す。
「私が料理を覚えなくても、陽輔が近くに住んでいるなら安心じゃないか」
「忘れてるかもしれませんけど、ボク一応受験生ですからね? ボクをアテにしてばっかりいると、本当に飢え死にしますよ」
それを聞いた先輩がビクッとする。
この人、本当に自分の彼氏が高三の受験生だってコト忘れてたな。
「陽輔……」
「何ですか、先輩?」
「大学進学はやめて、私のトコロに永久就職しないか? 私が大学やめて陽輔を養うから」
ほう、このボクに高卒で専業主夫になれと?
だけど先輩、その話は前提条件に決定的な穴がありますよ。
「先輩。バイトもろくすっぽ続かないのに、いったいどこに就職するつもりなんですか?」