蛇足の蛇足03
パドルアで、宿に帰る道を歩いている。
俺は依頼を受けた。
あの後はグレトナと話し込むような時間もなく、早朝には双方が出発していた。
事を終えたらゆっくり酒でも飲もう、とは彼の弁だが。
どこかでそうしたように俺は水で腹を満たす事になるのだろう。
数日後にはここを発ち、ウルム近郊の村で王都からの正規軍と合流する。
ここから合流するまでの間の護衛、兼現地での戦力であるクレイルを残してミネルヴ達はこのままパドルアを通過して王都へ戻った。
レイスはあの翌日から、今までと全く変わらない風だった。
ただやはり、微笑んで見せたその後に考え込むように俯いている事がある。
気付かないとでも思っているのだろうか。
見慣れた部屋に戻り、いつものように彼女はベッドに座り込む。
やはりいつものように椅子に座った俺。
窓から差し込む日差しは少し傾いてきている。
「なぁレイス。一体どうした?嫌なら今からでも断るぞ?」
「そんな事しちゃ駄目です。これがうまく終われば危ない橋を渡る必要もなくなります」
「うまく行けばな。しかしその仕事が死体の片付けだもんな…」
レイスはそのやる気の無い表現に少し微笑んでこちらを見ている。
「そういえばリューン様。戻ったらミリアの所に行くと言っていませんでしたか?」
「おまえなぁ。そんな事よりも…」
「本当は少し1人で考えたいんです。後でちゃんと話しますから行ってあげて下さい」
「嫌だといったら?」
「…考えません」
そう言って笑って見せる彼女に溜息をつきながら立ち上がる。
「わかった。忙しいみたいだからな。時間が合うかはわからないが一度行ってくる」
「…はい」
相変わらず微笑を浮かべた彼女を残し、部屋を後にする。
再び尋ねたリンダウ家の戸を叩く。
出てきたミリアの母親に簡単に挨拶し、先日顔を出す事を話していた事を伝える。
その言葉に少し考え込むような表情を浮かべる母親に、出直す事を申し出ようした所で、少し待って下さいね、という遠慮がちな言葉を掛けられた。
暫くの間のあと、再び扉が開く。
「戻った。思っていたより早かっただろ?少しはまとまったか?」
少し、白々しい雰囲気があったかもしれない。
「あー、部屋ちょっと散らかってるからそっちがいいかも」
浮かない顔のミリアは視線を合わせる事もせず、家の裏を指差す。
…確か庭に長椅子が置いてあった。
以前、そこでセイムと少し話し込んだことがある。
「じゃあ、行こっか」
小奇麗な服装のミリアが、相変わらず浮かない表情で俺の横を通り抜けた。
ふぅ、と小さな声をあげるミリアが長椅子に座る。
その隣、少し間を開けて俺も座り込んだ。
隣に座るミリアに視線を移す。
正面を静かに見詰める彼女の姿は、屋敷に見合う良家のお嬢様その物だった。
訓練場で最初に出会った頃を思い出す。
今の彼女には、だらしない服装で口の端を持ち上げて笑って見せた、あの雰囲気は全く感じられない。
少し小さく見える彼女が口を開く。
「先生さぁ」
「ああ、どうだ?…とりあえず聞くぞ?」
「それなんだけどさぁ」
「……。」
沈黙が流れる。
この辺りは比較的裕福な屋敷が並ぶ。
喧騒といえるような雑音も流れず、ただひたすら静かだ。
それが殊更に沈黙を強調する。
沈黙に耐えられず、思わず口を開いた。
「…どうした?とりあえずこの間みたいなのは本当にもうやめろ。あの後大変だった」
「……。」
「本当どうした?何でもいいから言えよ。気の利いた答えを返せるかはまた別だが」
「あぁ…そうだよね。とりあえず言うよ」
軽く息を吸い込む。
どれだけの事を言うのかもわからないが、彼女の方へ振り向きとりあえずその言葉を待つ。
相変わらず視線を正面に向けたままの彼女の口が開かれる。
「私、結婚するかも」
「……え?」
「……。」
「……この間話していたが。随分と急だな」
流石に驚き、間抜けな言葉を吐く。
継ぐ言葉を考える俺がそれをする前に、堰を切ったように彼女が口を開いた。
「前から声は掛かってたらしいんだけどあまりにも私が遊び呆けてるから断っていたとかで。この間、食事の作法の練習した日、言われたんだ。家柄は申し分ないって。何しろ領主様の息子さんだから。じきに領主さんだよ。そしたら領主婦人だね。うちみたいに、一応がつく貴族の家なら大したもんだと思うよ。今度会いに行って来る。一回帰ってくるけど、準備しに帰ってくるくらい」
俺に口を挟ませる間もなく。
再び軽く息を吸い込む彼女の顔が振り返った。
今日初めて、こちらを見ながら言葉を続ける。
「急だなとは思ったけどこれ以上いい話もないだろうな、って思った。お母さんにもお父さんにもいつまでも心配かける訳にも行かないし、別に何かやりたい事がある訳でもないし。だから私はそうしようと思った」
そこで一度言葉を切る彼女。
先ほどの宣言通り…返す言葉も思い浮かばない俺が沈黙を垂れ流す。
「……大昔に会った事があるってくらいの人で私は正直顔も良く覚えていないけど。結構年上だし、本当は少しそれも気になるけど。わからないけど、多分、これでいいんだと思う」
先程まで何処かを見ていた彼女の視線は俺から外される事なく。
俺はそれを黙って見返していた。
そうじゃないだろう、やめておけ、行くな、とでも言うべきだろうか。
しかしその後、俺はなんて言えばいい?
どこの誰かは知らないが領主と言っていた。
客観的に見れば条件のいい話だろう。
そのいい話をやめろと言い放って俺はどうする?
今回の件での自分に与えられる待遇。
それを得た後で、本当に妾でも第2婦人にでも迎えるのか?
…心の中。その考えを嘲笑う。
ただ続く沈黙の中。
彼女の何か言葉を待つような表情はやがて俯き。
小さな溜息とともに彼女の視線は再び彼女の正面に戻された。
「気になっていた事もあったけど、それもなくなったし。私は行くよ。色々あったけど、私はすごく楽しかった。レイスにも宜しく言っておいて」
「……。」
「暫くしたら出発する。少し遠い。一度帰ってくるけど、多分もう会わないと思う。」
力なく綴られる言葉。
ゆっくりと立ち上がった彼女がこちらに向き直る。
その笑顔。
「リューンさん。今まで本当にありがとうございました。本当に…楽しかった」
「…ああ。元気でな」
「…先生も元気でね」
その笑顔に耐え切れず視線を落とす。
やっと出た言葉がこれでは。
彼女の足音が去っていくのが聞こえ、俺は庭でただ座り込むだけの存在になった。
ゆっくりと立ち上がり、宿へ戻る道を歩く。
話し続ける彼女が見せた表情に思う所も無くはない。
だが…彼女の人生を片手間で背負い込む事などできないだろう。
「…早かったですね」
少し驚いたような顔をしたレイスに出迎えられる。
膝の上で開かれていた本を閉じたその隣に座り込む。
「ミリアは何て言っていました?」
「あぁ。なんていうか…」
「……?」
「嫁になるらしいぞ。何処かの領主の息子だそうだ」
「え?なんでですか?どこに…」
明らかに狼狽した声。
「お前が焦ってどうするんだよ」
振り向く視線の先、彼女は唇を噛んで何処かを見詰めている。
「俺はもう会わないと思う。よろしくとは言っていたが…明日にでも会いに行ってやれよ」
「え?あぁ…そうですね。明日、朝のうちに行ってみます」
「大事な友達だろ。行き先を聞いとけ。落ち着いたら遊びにでも行こう」
相変わらず眉間に皺を寄せる彼女の髪を撫でる。
彼女の横顔の先、窓の外は日が落ちかけている。
その横顔の眉間が落ち着いた頃、俺は立ち上がった。
「そろそろ行こう。またルシアさんに怒られる」
「…そうですね」
浴場に寄り夕食を終え、再び部屋に戻る。
ベッドの上に足を伸ばして座り込み、彼女を呼び寄せた。
レイスは困ったように笑いながらも素直にそこに背を向けて座り込む。
ここ数日馬上でそうしていたように、後ろから彼女を抱きかかえた。
その体は。
以前と変わらず華奢で、力を入れるとこのまま折れてしまいそうだ。
彼女が右手を俺の掌に重ね、話し始めた。
「リューン様。私は本当に幸せです」
「…そうか」
「もう何も無いまま消えていく筈だった私に、こんなに色々な物を与えてくれました。いつか恩は返せるんでしょうか」
「恩だなんて思うなよ。俺は一緒に居てくれればそれでいい」
「私はずっとあなたの傍にいます。…許されるなら」
「当たり前だろ?そう…言ったはずだった」
振り返る彼女の視線に少し恥ずかしくなり、顔を逸らした。
そのまま振り返る彼女の右手が顔に添えられた。
「本当に。太陽みたいです」
「なんだよそれ…」
「私にとっては、ですよ。あぁでもそれも…」
伏目がちに視線を巡らす彼女の顔に湛えられた薄い笑顔。
「なんだよ?また考え込んでるのか?」
「そうです。最近、悩みが多くて」
楽しそうに笑って見せる彼女を再び抱きしめた。
目覚めたベッドの上。
ひどく深く眠っていたようだ。
巡らす視界に彼女がいない事に気付き、目が覚めたように起き上がる。
…ミリアの所に行くと言っていた。それを思い出して俺の意識は再び緩んだ。
昨晩。
レイスは幾度も俺の名を呼んでいた。
未だ霧がかかった様な意識の中、手を広げて微笑む彼女の顔を思い出す。
結局、話すという程は話し込んでいない。
だが、彼女はずっと傍にいると言ってくれた。
…それで十分だ。
大きく息を吸い込んでベッドから降り、ゆっくりと服を着る。
その目の前で扉が開き、落胆したような表情のレイスが部屋に入ってくる。
「留守でした。こんなに早くからどこに行ったんでしょう」
「そうか。…とりあえずドア閉めてくれ」
「…すみません」
申し訳なさそうに後ろ手で戸を閉めた彼女は、俺が面倒そうに服を着る様をただ見詰めていた。
「何か食べて出かけよう。準備も必要だ。ミリアの所には帰りにでももう一度寄るといい」
「はい。でも食堂…もうがらがらでしたよ」
「あぁそうか…ルシアさんの機嫌が悪そうだったら表で食べよう」
「仕方ないですね。私、出かける前にちゃんと起こしましたよ?」
「全然記憶にない…」
呆れ顔のレイスに脇腹を小突かれながら部屋を出た。
結局、適当な店で食事を取る羽目になりながらも旅の支度を済まし、再びリンダウ家に立ち寄る。
少し離れた所で待っていた俺の所へ肩を落とすレイスが戻る。
「リューン様。使用人の方が出てきて皆出掛けていると。…何か皆に嫌われるような事言ったんですか?」
「強いて言えば…何も言っていないというのが正しい」
「何ですかそれ…」
心底困ったような顔をする彼女と日が落ちつつある帰り道を歩き出す。
いつものように皿の上の肉を切り分け、彼女の方へ押しやる。
「…ありがとうございます」
やはりいつものように律儀に礼を言う彼女を眺めながら肉にフォークを突き刺す。
別にそんな事が目的だった訳ではないが。
今回の件を終えれば、自分とは無縁の世界だと思っていた貴族の生活が送れる。
生活はどうでもいい。しかし、もう戦う必要も無くなる。
彼女の体の傷もこれ以上増える事はないだろう。
…やっと、彼女は本当に平穏な世界に生きられる。
当の彼女の願いも知らずに、俺はそんな事を考えながらフォークを口へ運んだ。