蛇足の蛇足01
グラニスの家を出た俺はリンダウ家に向かう。
そこへ差し掛かる頃、今度は弟の方と出会った。
「あぁ先生。久しぶり」
その顔が少し腫れている。
「なんだ、どっかで喧嘩でもしたのか?」
「これ、姉貴だよ。喧嘩というか…まぁいいや」
「なんだそれ。何かの八つ当たりか?」
「あぁそれは近いかもしれない…けど、先生に言うのはなんだか違うんだよ。ごめん、また今度」
「おいおい…」
手をひらひらとさせながら立ち去るセイム。
意味が分からん、などと考えながらリンダウ家の門をくぐった。
そしてやはり豪勢なつくりの玄関に向かう。
扉を叩き暫くすると、先程会った折と同じ格好のミリアが出てきた。
「あれ、随分早かったね。もういいの?」
「ああ。もう済んだ。後でもう一回戻るようになったが」
「なにそれ。あれ、レイスは?」
「ちょっと事情があって置いてきた。俺1人だとまずいなら…悪いが日を改めさせてくれ」
「まずくはないけどさ」
少し何か考え込んでいる。
「明日にでも出直してくるか?」
「いや、今準備してくる。ちょっと待ってて」
「分かった。悪いな」
「いや、悪くないって」
少し乱暴な音を立てて閉まる扉。
俺は振り向き、ぼんやりと空を眺めていた。
時間は少し遡る。
ミリアはこの所の習慣である、ただ走るという行為から戻り部屋を片付けていた。
一段落した片付けの折、傷みの目立つ薄手のシャツを眺めていた。
もう結構前の事になるが、それは先生から借りたものだ。
持ち主はもうそんな事は忘れているだろうが、返すタイミングを逸したそれは綺麗に洗われた上でこの部屋に仕舞われたままだった。
色々な事を思い出す。
ひどい恐怖の感情。震える指先。
絶望だけが広がる暗い部屋。
そこに立つ、怒りを露にする人の姿。
暫くしてこれを仕舞いこんだ折の事。
その襟に手を伸ばす。
痛んだ生地の上をなぞる指に伝わるごわごわとした感触。
ひとしきりの苦笑いの後、何の気なしにそれを再び同じ所へ戻そうとした時。
何となく振り返ったその先。
開け放しの扉からセイムが顔を出していた。
セイムの見てはいけないものを見てしまった、という表情に立ち上がる。
しかしセイムの表情はそこから大きく変化し、余計な事を口走った。
「姉貴、先生は無理だろ…」
その数秒後。
薄ら笑いを浮かべながら顔面に拳を見舞う。
レイスとの関係が変化した事もあり自分の中で整理が付きつつあるそれは、憧れや目標などという表現しづらい感情へと変わっていたのだが…少し涙が出ていた。
そんな事は、わざわざ人に指摘されるような事ではない。
半ば悲鳴を上げているセイムを追い払った彼女が片付けを終えた丁度その頃、玄関を叩く音が聞こえた。
「はいはい今行きますよ」
誰に言うでもなく、かったるそうな声を出しながら階段を下り、玄関を開けた。
時間を戻す。
「待たせたね。じゃ、行こっか」
後ろ手で扉を閉めた。
視線をこちらに戻した先生が尋ねる。
「で、どこまで行くんだ?」
「大通りの先の広場のもう少し向こう。先に何か食べようよ」
「もう?早い昼にしたって早すぎやしないか?」
「私がまだ何も食べてないんだよ」
それを聞いて軽く眉間に皺を寄せている。
「体を動かすのはいいが、飯は食え。倒れちゃ仕方ないだろ」
「わかってるよ先生、でも私、体が弱いからあまり食べられないんだ…」
困ったような顔をして見せる。
「体が弱い奴は弟の顔を腫らしたりしないだろ。何やってんだよお前ら」
「あれは…。事故みたいなもんだよ。仕方ないね」
先生は呆れた顔で振り向いて歩き始めた。
先程までとは違う小奇麗なブラウスとスカート。
さっき片付けたシャツとは対極にあるような襟は、引けば簡単に破れてしまいそうでやたらと安心感が無い。
その感触に軽く溜息をつきながら追いかけるように歩き出す。
残念なほど意味のないやり取りを終え、私達は大通りへ向かう道を歩き始めた。
隣を歩く先生の顔は穏やかで、いつか見た折のような荒々しい雰囲気は微塵も感じない。
自分でも倒せる相手にすら見える。
視線に気付いたらしく歩きながら再びこちらに視線を向けられる。
「なんだ?」
「なんていうか。眠そうだよね」
「別にそんな事ないな。…というか人が多い。何かあるのか?」
…思い出した。
そういえば今日は広場周りで規模の小さい祭りが行われている筈だ。
大きく迂回するべきだった。
そんな事を考えている内に見えてきた視線の先の通りは、人が多い、という表現が正しく当てはまらなくなっていた。
「やっばい。忘れてた…」
「何がだ?」
「えーと先生、とりあえずそこで右曲がろう。その辺りで先に食べる事にした」
「本当にまだ出たばかりじゃないかよ…」
もう並んで歩けるような状況ではなくなったその道を、抗議の声を無視して先導する。
角を曲がり少し行った所で、店先に小洒落たデッキを備えた飲食店に入る事にしていた。
振り向き、一応確認する。
「先生、ここでいい?約束どおり私が奢るから」
「あぁ、どこでもいい。食事代は気にするな、それくらいなら出してやる」
「払えないくらい食べるよ?」
「体が弱いんじゃなかったのかよ」
それに少し笑って答え、数段の階段を登ってデッキを通り抜ける。
目の前に並ぶ食事。
パン。肉。サラダ。…肉。パン。
それを今日何度目かの呆れた表情で眺める先生の前には、飲み物が一つ置いてあるだけだ。
「良く食べるな…」
「先生、食べろって言ってただろ?」
「そりゃ言ったけどな」
まだ早いとの事で何も食事を頼まなかった先生を尻目に、ひたすら目の前の食べ物を片付ける。
この店は、比較的安価で味が悪くない。
以前先生を見かけた折に、よくこんな所を知っている、と思っていた。
当人が選んだのではない事がすぐに分かったが。
「それだけ食べて腹が出ないのがうらやましいっていう奴が幾らでもいるだろ」
「そういう奴らは動かないからいけないんだよ。あれ。先生もしかして少し太った?」
「…太ってない。断じて」
最近何かあったのか過剰に否定されたが、まぁいい。
相変わらず穏やかな表情でこちらを眺める視線を見返し笑ってみせる。
先生はその眠そうな目を少し広げ、その視線を通りを流れる人に移した。
「先生さぁ、最近どうなの?」
「どうって。強いて言えば…荒事が多いな」
「やっぱり、沢山戦うわけ?」
「戦うだけならまだマシという事もある。そういう感じだ」
一度その目が鋭くなり少し考え込んでいたのを見逃さなかった。
多分、あまり深く聞くべきではないだろう。
「あのさぁ。レイスは大丈夫そう?」
「今の所は大丈夫だろ。少し危うい感じもあるが。それでも、俺より余程向いてるかもしれない」
「ええ?レイスが?」
「ああ。思っていた以上に慣れたというか。ただ慣れるだけってのは危ないんだが、そういうのでもない」
「へぇ…」
彼女は。目の前で少し眠そうにしているこの人の為になら何でもする、と言っていた。
その思いは報われているのだろう。
そして、その思いもまた満たされているのだろう。
思わず苦笑いを浮かべていた。
「お前こそどうなんだ?」
「先生さぁ、少し聞いてよ…」
最近どうか。
まぁ、どうかしている。
長らく色々な事をさぼって遊び呆けていた詰襟で、毎日何かしらがあって忙しくて堪らないのだ。
昨日の午後は丸々、食事を含めた礼儀作法の講師に延々と指導を受けていた。
一昨日は乗馬。
その前は歌の練習だったような。
その前は…なんだっけ。
「…お前、将来何になるんだ?」
「知らない。私が教えて欲しいくらいだよ。教養、嗜みだってさ」
「大変だな。いや、本当に」
「何とかしてよ先生」
「それは俺に言っても駄目だろう…」
困ったような顔をして考え込んでいる。
「冗談だって。ま、私がずっとサボってたせいだから仕方ないよね」
「あぁ…。グラニスさんから何か言ってもらうか?」
「いやいや、本当にいいって。ずっと続く訳でもないし」
「そういうものか?」
「そうだよ。そのうち結婚するまでの辛抱だから」
その言葉に、目の前の眠そうな目が一度見開かれ、しかしそれはすぐに元の穏やかな、少し考え込むような表情に戻った。
「いやいや、そのうちだって。頼りがいのある人ならいいんだけどね」
先生は、目の前で首を傾げていた。
仕方なく説明を続ける。
別に話したいような話でもないが。
「だからさ、家の都合の縁談とかが来るんだよ。どこ家のだれが、とか。自分で言うのもなんだけど一応そこそこの家だからね」
「なんだそれ。勝手に決まるのか?」
「勝手に、って程じゃないけどね。まぁ、いつまでも遊んでは居られないんだよ。うちなんて貴族って程でもないのにこれだ。本当の貴族連中なんてのがどういう神経しているのか、私には理解できないね」
「同感だな。しかし…」
「あれ、惜しくなった?」
再び呆れたような表情をしながら、目の前のカップを口に運ぶ。
「でも、そのうちだよ。そのうちに有る事。…その前にもう一回くらいは先生に勝ちたいってのが取り敢えずの目標だね」
視線の先、テーブルの上にだらしなく伸びる先生の左手。
そう、そのうちに有る事なのだ。こんな気楽な時間を過ごす時は、じきに終わる。
先生やレイスが生きる世界とは本当に無縁の世界で、自分は生きていくのだ。
分かっていた事だが…少し寂しい。
「あぁ、いい事思いついたよ」
「なんだよ」
「先生がパドルアで騎士なり貴族なりになればいいんだよ」
「なる気もないし、なれない。それに何の解決にもなってないだろ」
再びカップを口に運ぶ。
「それで私を連れてってよ。妾だよ、めかけ」
…目の前で飲み物を噴き出し咳き込んでいる。
隣のテーブルで静かに本を読んでいた男が同じようにむせていた。人の話に聞き耳を立てるな。
「ごほっごほっ…」
「そういう建前に決まってるでしょ。なに想像してるんだよ…」
「お前な…」
「そしたら今となんにも変わらなくて、きっと楽しいんだけどなぁ」
抗議の視線から目を背け、通りに目を移す。
人の流れは増えるばかりだ。
当然、その中には自分と同じような年齢の者もいる。
彼らは、彼女達は、自分のようなしがらみに足を掴まれて生きてはいないだろう。
自分は裕福だ。…しかし、それが何だというのだろう。
何も無い皿の上を、沈黙が満たす。
視線を戻した先の先生は、何か考えているようだが。
「先生さぁ。この先なんだけど」
「ああ。なんだ」
少し真剣な眼つきになっている。
…将来か何かの相談だとでも思っているのだろうか。
「このまま突っ切ろうと思うんだけど」
「突っ切る?何をだ?」
やはりそうだ。思わず噴き出してしまう。
「…違うって。今日の用事だよ」
「はぁ? あぁ、そうか。広場を抜けた先だって言っていたな」
「そうそう。もうここまで来ちゃったから行きは突っ切ろうかと思って。帰りは迂回しよう」
「まぁそうするべきだろうな。戻るのも面倒だ」
一度振り向き、道の先を眺める。
流れる人は先程よりも更にその数を増し、もはや石畳はその一部分ですらも見る事は出来なくなりつつある。
約束どおり食事の会計は私が済まし、人の海の中へ漕ぎ出した。




