ヴァンゼル家09
場面を移す。
馬車が止まった。
レイスは瞑っていた右目を開き、辺りの状況に意識を向ける。
残念ながらここが何処かなど、分かりようもない。
リューン達と引き離されたのは明け方で、今は夕刻前くらいだろうか。
双方知る由もないが、そのリューンが青年の騎士に馬乗りになってその顔を殴りつけている頃だった。
扉を開けヒルダが乗り込んできた。
騎士と少し話し、交代したヒルダがその椅子に座り込む。
こちらの視線に気付き、ヒルダが口を開いた。
「ごめんね。子供取られちゃってさ。約束どおりあなたを逃がす努力はするよ。
でもここで放り出す訳にもいかないだろ?」
その言葉に何を言うでもなく、再び動き出す馬車に再び目を閉じる。
暗闇になった世界で続く声が聞こえた。
「本当にごめんね」
どれ程の時間が経ったのか。
レイスは再び目を開いた。
窓の外は暗闇だった。
斜向かいでヒルダが座ったまま眠っている。
その目に涙の後が滲んでいた。
表で話し込む声が聞こえてくる。
「あんた、これからどうすんだ?」
「さぁ。約束どおり息子を返して貰いたい。その先は考えていないな」
「…似たようなもんだな」
「あぁ。本当、堪らないな」
「約束、守られると思うか?」
「それを守らないとあいつらは同じ事が今後出来なくなる。守る筈だ」
「…だといいな」
「ああ」
陰鬱な気持ちになるその会話を聴くのをやめ、再び目を閉じた。
翌日。
再び走り出した馬車が止まった。
窓にあたる日の感じからするとまだ朝と言える時間だろう。
表から昨晩聞いた声と別の声が聞こえてくる。
恐らく、何処かは分からないが目的地に着いたようだ。
…機会はあっても一度だろう。
あらためて自分の優先順位を確認する。
まず、自分が生き残る事。
出来れば目の前のミネルヴを助ける。
そして、やはり出来れば、ヒルダ達はこちらに危害を加えようとしなければ殺さず制圧する。
こちらに視線をやった後、ヒルダが馬車から降りていった。
目の前のミネルヴが唇を噛み締めていた。
やはり死ぬのが恐ろしいのか、それ以外か。
そのミネルヴに必死で視線を送り、小さく声にならない声をあげる。
一度こちらに視線を合わせたミネルヴに、その意思は伝わったのだろうか。
大した間もなく、ヒルダが再び馬車に乗り込んできた。
ミネルヴの足の縄を解き、まず彼女が下ろされた。
そしてレイスの縄を同じように解き、馬車から降りるようにその右手を縛っていた縄を引く。
やたらと久しぶりに感じる日差しが目に刺さる。
必要もないが見知った3人の顔。
それ以外の知らない顔が3人。
こちらをさして興味もなさそうな顔で一瞥し、視線をミネルヴに戻した。
「さぁ、約束どおり連れて来た。本当に返してくれるんだよね?」
少し上ずった声のヒルダに、知らない顔が答える。
「明日にはパドルアに戻してやる。一度戻れ」
「話が違う。もうパドルアには戻れない。ここへ連れてくる筈だったじゃないか!」
その言葉に男が少し考え込み、再び口を開いた。
「分かった。このままノルデンまで着いて来い。そこで返そう」
「おい、俺の息子はどこにいる?」
「お前のは王都で預かっている。このまま王都へ戻れば大丈夫だ。早くもどれ。仲間に殺されないうちにな」
口を挟んだ中年の騎士が顔を伏せる。
「ところでそっちのはなんだ?」
不躾な視線を送る男にヒルダが答える。
「こいつは流れで一緒に人質にしたんだ。関係ないだろ?」
「…ならこの場で殺せ」
「だから…関係ないだろ?」
「……。」
ヒルダの額に汗が浮かんでいる。
「んんー!」
くつわの中で必死に声をあげる。
こちらに視線を落とすヒルダ。
その向こうで、手を縛られたままのミネルヴが姿勢を下げるのが見えた。
…レイスの思惑は伝わっていた。
突然、背中から体当たりされたヒルダがミネルヴと共に体勢を崩して倒れた。
その手に握られた縄を引き離す。
開放された右手が必死に口の布を引き下げる。
昨晩ヒルダが眠っている間、背もたれの角に引っ掛けて必死に布を伸ばしていた。
お陰で口の両端がひどく痛むが、そんな事は些細な事だった。
開放された口が言葉を紡ぐ。
ヒルダとミネルヴそして自分は、幸いにも少し離れた所に立っていた。
それは残る他の者にとっては文字通り致命的な事態となった。
こちらに走ってくる男達。
必死の形相の騎士。
やはり必死の形相の長剣使い。
レイスの右手が目の前に掲げられ、その周りに彼らの死が浮かび上がった。
以前リューンとも確認した。
この距離ならば、多分、誰にも負けない。
念の為、確認する。
距離が近い騎士と長剣使い。
もう数歩で切り掛かられる距離だ。
…腰の剣に手を掛け、それを引き抜いた。
それを視認した直後、彼女の右手から氷の槍が解き放たれた。
かわす事もできず、為す術なく串刺しになった2人が驚愕と無念を顔に貼り付けながら倒れる。
それを見た3人が立ち止まった。
しかし。
彼らへの躊躇はそもそもするつもりがなかった。
何の表情も浮かべていないレイスの右目が見詰める先。
氷の槍が丁寧に3人を順番に打ち抜き、風穴を数箇所開けられた死体3体がすぐに出来上がった。
ミネルヴが立ち上がり、こちらに近寄ってくる。
「すごい…。以前王都で見た折よりも更に磨きが…
「そんな事よりも早くこの場を離れましょう。多分、ここは危ないです」
「すみません、そうですね。あちらの方は…」
辺りを見渡す。
遠くに小さな村が見えた。
こちらを伺うような視線は感じないが、何かが起こった事を誰かに見られているかもしれない。
右手の周りに氷の槍を浮かべたレイスがヒルダに近づく。
ヒルダは信じられないといった表情を浮かべ、そして力なくうずくまった。
「ヒルダさん。事情は大体分かりました。でも私はここでは死ぬ訳にはいかなかった。…パドルアまで案内して下さい」
ヒルダが顔を上げる。
「もうさ、ここで殺してよ。もう、どうにもならない。私の死体がなかったら、きっとあの子は殺される」
「死体を全て馬車に乗せてください。暫く走ってから捨てます。あなたのお子さんは、できれば助けてもらえるように頼んでみます」
「頼むって?誰に?神様にでも頼む?」
力なく笑うヒルダに答える。
「リューン様の知り合いがそういった事に長けている筈です。何か要求されるかもしれませんが、頼む所までは繋ぎます。
どうしても死にたいならそうしますが、きっと…その子も悲しみますよ」
そこにミネルヴが重ねた。
「私からもお願いしてみます。だから、手伝ってください。私も早くパドルアに戻らないといけない」
更に無表情のレイスが続ける。
「もし、全て諦めるならそれでいいと思います。でもヒルダさん、あなたは生きています。まだ辞めるには早いのではないですか?」
無表情に述べるレイスとヒルダの視線がぶつかる。
暫くの後、ヒルダはよろよろと立ち上がった。
「わかったよ。でも本当にお願いだ。その為に、全部捨てたんだ。…こいつらも」
地に転がる騎士と長剣使いの死体。その無念の形相。
レイスはそれに一瞥し、しかし無表情なままヒルダに答えた。
「では早く、この人達を馬車に乗せて下さい。逃げましょう」
死体を積み込み、再び馬車が走り出す。
馬車の手綱を握るヒルダ。その顔は憔悴しきっていた。
ミネルヴは馬を走らせ、その後ろにレイスが乗っている。正確には必死にミネルヴに掴まっているような状況だが。
「レイスさん、あなた本当にヴァンゼル家に来ませんか?以前のような非礼はしませんよ?」
「多分、リューン様が嫌がりますね…」
「あの方もご一緒に、という事ではどうですか?」
レイスは、この状況でこんな話をする彼女の事を心底逞しいと思いながらしかし、勘弁して欲しいと思っていた。
自分にとってはリューンこそがその力を振るう原動力であり、強いて言えば今回のように生き残るための力を振るう事さえあれど、彼以外の者に忠義を持つ事などありえない。
そしてミネルヴが幾ら否定しても、ヴァンゼル家に対する心象は最悪だ。
もうミネルヴの言葉に答えるのは止め、レイスは眉を顰めながら流れる景色を見ていた。
リューンは心配しているだろうか。
何か取り返しのつかない事をしていないだろうか。
以前、隣国で囚われていた折の彼と同じような事を考え、レイスは少し焦っていた。
自分とは違い、リューンは塞ぎ込んだりはせず行動を起こすだろう。
先程まで無感情に事を進めていたが、それも少しでも早く事を終わらせる為だった。
彼の所へ戻る事以外の全ては、優劣こそあれど全て無意味な事だった。
別に依頼を成功させる事は自分達の目的ではない。
出来れば慎ましく生活できること、それが本来の目的なのだ。
必死の行動が報われて欲しい。
心から思いながら彼女は先を走る馬車を眺めた。
数刻走った後装飾華美な馬車を森の中へ放棄した。
ヒルダは軽くなった馬の手綱を握る。
武器は取り上げられ丸腰だが、もう何をする気力もなかった。
子の事を考える。残念ながらその無事を確かめる方法はない。
今にも泣き喚きたいが、それで何も変わらないのは分かっていた。
残る2人を1人で拘束する事ができればその目もあるかもしれないが、
もし今抵抗しても、あっさりと返り討ちにされるだろう。
であればレイスが言っていたリューンの知り合いにかける以外の方法が思いつかなかった。
ヒルダが先程見たレイスの力は、ランク2の冒険者のそれではなかった。
自分と同ランクのランク5でもあそこまでの爆発的な攻撃力を持つ者はそう居ない。
何となく。
長目の詠唱の後に高威力の爆発する火球を放つ者や、他の魔術士の冒険者達を思い出す。
しかし同時に、それはもう自分が戻れない世界の事だと気付いた彼女は、再び考える事をやめた。
再びパドルアへ戻る道を3人が行く。




